恋は猛毒
色々考えたけど、やっぱり梨緒は私にとって大切。
真似をするのも、きっと梨緒なりの友情の証みたいなもので、あんまり気にすることじゃないと思えてきた。
私はきっとずっと梨緒と一緒にいて、梨緒は私と同じ人生を歩みながら、少しずつ普通の感覚を手に入れていくことになるんだろう。
私の真似をしているということは、梨緒は私次第でいくらでも変われるんだ。
しっかりしないと。
梨緒と二人、強く生きていけるように。
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夜中に首を吊ろうとした。
そう言ってしまった手前バイトが終わってもすぐに帰ることができず、私は図書館で時間を潰そうと考えた。
適当な文庫本を手に取って窓際に座ると、大粒の雪が降る真っ黒な空と、雪で真っ白になった地面が、ガラス越しに水墨画のような画を見せていた。水分を含んでいたぐしゃぐしゃは凍ってそのまま雪に埋もれたようで、汚い土の色は窺うことができない。
たったの数時間で無駄に美しい光景が上塗りされ完成していて、心底世界が憎らしくなる。私の罪も、これくらい簡単に覆い隠されてしまえばいいのに。こんなに綺麗な景色なんていらないから、私のこの罪悪感だったり焦燥感だったり、説明のつかない色々な感情を全て覆い隠してなかったことにしてほしい。
時計の音すらしない図書館の中で、私は世界を憎みながら文庫本を適当にめくり続けた。私の他に誰もいないのか、古い文庫本をめくるぱさついた音だけが耳を通り過ぎる。言葉は脳の隙間を通り抜けて、何も心に引っかからない。
一冊の文庫本を何回も何回もぱらぱらと目を通しては時計を確認し、時間の流れる音が聞こえないこの空間で、夜中と言える時間になるのをただひたすら待っていた。
何周も何十周もページをめくり、なんとなく文庫本の内容が理解できるようになってきた頃、携帯の時計がようやく十時を回ったので私は席を立った。
これでやっと、決着がつけられる。私が公園に行けば、きっと梨緒は死ぬ。私の助けを期待し、踏み台を蹴って、桜の木にぶら下がる。そこで見捨てれば、いや、気がつかなかったふりでもすれば、完全犯罪は成立する。
私は高揚していた。目がギラギラと輝いているのが、自分でもわかる。私の目は見開いたままなかなか閉じようとせず、焦点も合わない。視界はぼんやりとしていて、薄靄を通して世界を見ているような、どこか宙に浮いているような、そんな不思議な感覚が、高鳴る鼓動と対照的に、目の奥に存在している。
一つ。二つ。次の交差点を曲がれば、桜の木がある公園に差し掛かる。
早鐘を打つ心臓を押さえるように右手を胸に思いっきり押し付け、私は速い深呼吸をしながら歩を進めた。
公園に辿り着こうかというまさにそのとき、桜の木が薄靄の向こうに浮かび上がった。
冬だというのにそれはまるで満開に咲き乱れる桜のようで、しかし赤みを失ってほの白く、ぞっとするほどに美しい。
美しさに気を取られ足を止めたその瞬間、強い風が吹き、雪が私の視界を奪った。鋭い冷たさを持った氷の粒が、顔中をこれでもかと殴りつける。
襲い掛かる雪の向こう側、がたりと何かが蹴り倒される音がして、桜の影が大きく揺れた。上下左右に振れる度、花びらがさらさらと舞って、白い地面に吸い込まれるように落下する。
私は、何も聞こえないようにヘッドホンで耳を塞いだ。何かが聞こえてくる前に。そしてシャッフル再生で適当に曲をかけて、また歩き出そうとした。
しかし、足はぴったりと地面について、離れなかった。
あろうことか、私の耳を覆ったのは、高校生の頃、梨緒と二人でよく聴き、歌った、女性シンガーのバラードだった。
弦楽器やピアノの美しい旋律に乗せられた言葉一つ一つがずしりとした重みとともに心に沁みる。
私と梨緒のことを歌っているようだと笑い合った昔のことがありありと思い出される。
Aメロ。Bメロ。そろそろサビだ。これ以上聞いていると心が侵されてしまう。
まだ木の影は揺れている。しかし私の決意は揺らがない。たった一曲でこの一大決心を曲げられてたまるものか。
再生を止めると、今度こそ私は歩き出した。
雪を踏む、軋むような鈍い足音と、どくどくうるさい鼓動が体中を駆け巡り、ヘッドホンを伝って耳に流れ込む。心をかき乱す、耳障りな音。耳障りな音の奥に、先程うっかり聞いてしまった曲が流れ続けていて、心が静まっていくような、さらにかき乱されて散り散りになってしまうような、どちらともつかない圧迫感に侵されていく。
いつの間にか、私は公園に戻ってきていた。
桜の木の影は、もう揺れてはいなかった。
その梢にはこんもりと雪が積もり、まるで桜が咲いているかのような錯覚を起こす。
梨緒はその真っ白な桜の中、力なく垂れ下がっていた。足元には小さな椅子が倒れている。枝が風で揺れるたび、梨緒の体もかすかに揺れる。
その体に、意志は宿っていない。完全に事切れていた。
表情は桜の影に隠れて窺い知ることはできず、おそろいのプリーツスカートが風に揺れるのをぼんやりと見つめることしかできなかった。
心がしんと静まり返って、だんだんと冷えていく。猛毒がゆっくりと体を回るように、手先から、足先から、心から。冷たさがじわりじわりと私を蝕んで、空虚が私を満たしていく。もう、生きているのか、死んでいるのか、わからない。
梨緒は、馬鹿だ。
私の真似なんかしようとしなければ、こんなことにはならなかったのに。
こんなに早く一生を終えて、梨緒は一体何を得たのだろう。
私と同じ格好をして、私と同じ曲を聞いて、私と同じバイトをして。そんなもので、何になったというのだろう。
利用されるだけ利用されて、馬鹿としか言いようがない。
ぽっかりと開いてしまった穴を埋めるように、目の縁に溜まった涙がこぼれていった。この数日で散々泣いたというのにひとたび流れると際限がなく、視界は隅々まで醜く歪んだ。
私は雪の上にぺたりと座り込み、自分で自分を抱きしめながら、歪んだ世界をこの目に焼き付け続けた。
歪んだ世界には私の体ただ一つだけが寂しく揺れ、やがて冷たい桜の花びらに吸い込まれるようにその身を消されていった。