第15話「監督、ロングボールって蹴ればいいんですか?」
翌朝。
福岡ユナイテッドの練習場。
まだ選手たちが集まり始めたばかりの時間、相川真司は一人、クラブハウスのモニターを見つめていた。
画面に映っているのは、昨日の映像だった。
子どもたちがペットボトルを並べ、十メートルほど離れた場所からボールを蹴っている。
外れる。
強すぎる。
弱すぎる。
それでも子どもたちは何度も挑戦していた。
相川は映像を止める。
「……これだ」
背後から声がした。
「何が?」
「うわっ!」
振り返ると、神崎蓮が立っていた。
「神崎……いつからいたんですか?」
「さっきから」
「気配消さないでくださいよ」
「すみません」
神崎がモニターを見る。
「昨日のボウリングですか?」
「ええ」
相川は映像を再生する。
子どもがペットボトルの右側へボールを蹴る。
一本だけ倒れた。
「子どもたちは、ピンを見て蹴る場所を変えている」
「うん」
「サッカーも同じです」
相川はホワイトボードにピッチを描いた。
「相手が前から来ると、当然、後ろにスペースができます」
最終ラインを示す。
「そこへボールを落とす」
「白石が走る」
「そうです」
神崎が頷いた。
だが相川は続けた。
「ただし……」
ペンを置く。
「今の福岡には、その選択肢がない」
神崎が黙った。
福岡ユナイテッドは、これまで短いパスをつないで前進することを基本にしてきた。
だからといって、いきなりロングボール中心のチームにするわけではない。
必要なのは、相手に応じて選べる新しい手段だった。
「一度、練習してみませんか?」
神崎が笑う。
「先生なら、なんとかしてくれそうですね」
「たぶん」
その時だった。
「おはようございます」
二人が振り返る。
帽子をかぶった古賀誠一が、ボールを抱えて立っていた。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
相川がホワイトボードを指差す。
「昨日の話なんですが」
「ボウリング?」
「はい」
「楽しかったねぇ」
「それをサッカーの戦術にしてみませんか?」
古賀はホワイトボードを見る。
しばらく眺める。
「……難しかねぇ」
「先生なら分かるでしょう」
「いや、分からん」
相川が固まった。
神崎が笑いをこらえる。
古賀はピッチの奥を指差した。
「ただ、相手がおらんところに蹴ればよかとやろ?」
「……そうです」
「じゃあ、やってみよう」
古賀はあっさり言った。
◆
選手たちが集められた。
「今日は、ちょっと変わった練習するばい」
白石健太が手を上げる。
「何ですか?」
「遠くに蹴る練習」
「俺、得意ですよ」
白石が胸を張る。
カルロスも手を挙げた。
「ボクも!」
「いや」
古賀が笑う。
「ただ遠くに蹴るんじゃなか」
選手たちが顔を見合わせる。
「じゃあ、何ですか?」
「仲間が取りやすいところに蹴る」
白石が首を傾げた。
「……それだけ?」
「それだけたい」
古賀はボールを置いた。
「じゃあ、やってみよう」
最初は神崎。
白石が右サイドを走る。
神崎が蹴った。
ボールは大きく外へ飛んでいく。
「神崎さん!」
白石が叫ぶ。
「遠いです!」
「ごめん!」
次は岩永恒一。
白石が走り出す。
岩永が蹴る。
今度は高すぎた。
「うわっ!」
白石の頭上を越えていく。
カルロスが追いかける。
しかし届かない。
「先生!」
カルロスが振り返る。
「ボール、速い!」
「ごめんごめん」
選手たちから笑いが起こる。
古賀も笑っていた。
「難しかねぇ」
相川が腕を組む。
「だから練習するんです」
◆
何度か繰り返したところで、古賀が手を叩いた。
「一回、止めよう」
選手たちが集まる。
「今、みんな何を見とった?」
神崎が答える。
「ボールを蹴る人ですか?」
「そうたい」
古賀は白石を見る。
「でも、蹴る人だけ見たらいかんとよ」
白石が首を傾げる。
「じゃあ、何を見るんですか?」
「その人が、どこに行ったら助かるか」
相川の目が変わった。
「受け手の現在位置じゃなく、受け手が向かう場所……」
「そうたい」
古賀は白石に尋ねる。
「白石、白石ならどこにボールが来たら走りやすい?」
白石はピッチを見渡した。
「……相手の背中側です」
「なんで?」
「前を向いて走れるから」
「そうたい」
古賀が頷く。
「じゃあ、そこに蹴ってもらえばよか」
「分かりました」
神崎がボールを持った。
白石が走り出す。
今度は神崎が、白石そのものではなく、その先を見る。
そして蹴った。
ボールが岩永の頭上を越える。
白石が走る。
「来た!」
白石が追いついた。
そのまま中央へ折り返す。
カルロスが飛び込む。
ゴール。
「入った!」
選手たちが沸いた。
古賀は嬉しそうに笑っている。
「よかったねぇ」
しかし相川は、それどころではなかった。
「先生……!」
「ん?」
「これ、使えます」
◆
相川はホワイトボードに書き始めた。
相手が前から来る
↓
後ろに空間ができる
↓
そこへボールを送る
↓
白石が走る
↓
仲間が近くで助ける
「これなら、相手が前からプレスをかけてきても、パスだけにこだわらず前進できます」
神崎が頷く。
「相手が前に出てきたら、後ろを使う」
「そうです」
白石が手を上げる。
「じゃあ、これから全部ロングボールにするんですか?」
「いや」
古賀が即答した。
「近くに仲間がおるなら、近くに渡せばよか」
「はい」
「遠くが空いとるなら、遠くに渡せばよか」
神崎が笑う。
「相手を見て決めるんですね」
「そうたい」
古賀は不思議そうな顔をした。
「相手がおるのに、同じことばっかりしたら読まれるやろ?」
相川は黙った。
まただ。
古賀は当たり前のことを言っている。
だが、その「当たり前」が戦術として成立している。
◆
「あと、もう一個ある」
古賀が言った。
「白石が取れんかったら、どうする?」
神崎が答える。
「カルロスが拾う?」
「カルロスも取れんかったら?」
城戸隼人が手を上げた。
「俺が拾います」
「そうたい」
古賀は笑った。
「みんなで取りに行けばよか」
今度は三人で練習する。
神崎が前へ蹴る。
白石が競る。
こぼれたボールをカルロスが狙う。
さらに後ろから城戸が走る。
しかし最初のプレーでは、三人ともボールに近づきすぎた。
「近い!」
古賀が叫ぶ。
選手たちが止まる。
「先生、どれくらい離れればいいんですか?」
古賀は少し考えた。
「助けられるくらい」
「……」
相川が笑った。
「また、それですか」
「大事たい」
◆
練習の最後。
神崎がボールを持つ。
白石が最終ラインの背後へ走る。
カルロスが中央へ入る。
城戸はその後ろ。
神崎が蹴った。
白石が追いつく。
しかし相手役の岩永が寄せる。
白石は無理をしない。
中央へ戻す。
カルロスが受ける。
さらに城戸がこぼれ球を拾う。
城戸から神崎へ。
神崎がもう一度前へ。
ロングボールから、いつものパス回しへつながった。
相川が呟いた。
「……ロングボールで終わらない」
神崎が頷く。
「前に進むための最初の一手なんですね」
「そうたい」
古賀は笑った。
◆
練習終了後。
白石が古賀のところへやって来た。
「先生」
「ん?」
「ロングボールって、結局なんなんですか?」
古賀は少し考えた。
「遠くに蹴ることじゃなかよ」
「じゃあ?」
「仲間がおるところへ、先にボールを届けることたい」
城戸が横から口を挟む。
「じゃあ、パスが長くなっただけ?」
「そうたい」
相川が吹き出した。
「先生、それ、戦術理論を一言で終わらせすぎです」
「難しく考えんでよかろ?」
選手たちが笑う。
古賀も笑った。
この日、福岡ユナイテッドは初めて、ロングボールを戦術として練習した。
ただし、それをチームの新しい信条にしたわけではない。
パスをつなぐ。
相手の背後を狙う。
近くが空いていれば近くへ。
遠くが空いていれば遠くへ。
選択肢が一つ増えただけだった。
クラブハウスに戻った相川は、ホワイトボードを見つめた。
そこには古賀の字で、三つの言葉が残っていた。
「近くが空いとったら近くへ」
「遠くが空いとったら遠くへ」
「困ったら、みんなで助ける」
相川は小さく笑った。
「……結局、全部同じなんだ」
空いている場所を見つける。
そこへ仲間を置く。
ボールを受けた人を、一人にしない。
それだけだった。
そして、この新しい武器を実戦で使う日は、まだ来ていない。
その日の夕方。
相川が次の対戦相手の資料を持って、古賀のもとへ向かった。
「先生」
「ん?」
「次の相手なんですが……」
資料には、相手チームの高い最終ラインが映っている。
「かなり前から来ます」
古賀は資料を見る。
そして、少しだけ笑った。
「じゃあ……」
ピッチの奥を指差す。
「後ろ、空いとるかもしれんねぇ」




