第1話 魔物好きだけでやってける職業じゃねぇんだよ
夕暮れの森には、鉄と血の匂いが薄く漂っていた。
「おい、レイン。そっちはもういい。荷車に積める分だけ拾ってこい」
少し離れた場所から飛んできた声に、レインは顔を上げた。倒木のそばでは、さっき仕留めた魔物の死体を、仲間の冒険者たちが手際よく解体している。
角、牙、皮、魔石。金になる部分だけを剥ぎ取り、あとは捨てる。いつもの光景だった。
だがレインの視線は、その傍らに横たわる一頭の狼型の魔物へ向いていた。
このパーティーが使役していた個体だ。索敵と追い込みに使われていた魔物で、灰色の毛並みは泥と血にまみれている。
脇腹は深く裂け、片脚もおかしな方向に曲がっていた。荒い息を繰り返すたびに、喉の奥で苦しげな音が鳴る。
「傷が、深い……」
レインは思わず駆け寄り、膝をついた。荷物の中から布と薬草の包みを取り出そうとした、そのとき。
「ほっとけ」
仲間のひとりが、面倒くさそうに言った。
「もう使えねぇよ、そいつは」
「でも、まだ生きてる」
「無理だ、助からん。見りゃ分かるだろ」
別の男も肩をすくめる。
「歳だしな。ちょうどいい頃合いだったんだよ」
「ちょうどいい、って……」
「替え時なんだよ。テイマーなら分かるだろ」
少し苛立ったような口調だった。
レインは答えず、魔物の傷口に布を当てた。
血はもうだいぶ流れてしまっている。せめて痛みだけでも和らげようと、震える手で薬草を潰した。
魔物はうっすらと目を開け、レインを見た。
その目にはもう力がなかった。けれど、苦しみと怯えだけははっきり残っている。
「大丈夫だ。今、手当てする」
自分でも空々しいと分かる言葉だった。
布を当て、呼吸を確かめる。浅く、速く……弱い。
「おい、レイン」
苛立ちを隠さない声が飛ぶ。
「そんなのに構ってる暇があるなら、荷をまとめろ。必要物資の回収が先だ」
「少しだけ待ってくれ」
「待てるかよ。そいつはもう終わりだ。また次を捕まえればいい」
あまりにも当然のように言われて、レインは一瞬だけ言葉を失った。
──また次を捕まえればいい。
道具が壊れたから、新しい道具を補充するみたいに。簡単に言ってくれる。
目の前で息をしている命を、そんなふうに言えてしまうことが、どうしても理解できなかった。
「……せめて、最期くらい」
「最期? だから何だってんだ。使えない魔物に情をかけて、金になるのか?」
「……」
「テイマーなら割り切れよ」
返事はできなかった。
それでもレインは手を止めなかった。
布越しに伝わる体温は、もう驚くほど低くなっている。魔物の呼吸がひとつ、またひとつと細くなっていく。
「すまない。今まで、ありがとう……」
魔物は小さく身を震わせると、それきり動かなくなった。
森の音が急に遠のいた気がした。
レインの手の下で、命の気配だけが静かに消えていく。
「ほらな」
仲間の声が、やけに軽く響く。
「だから言ったろ。ほっとけって。時間を無駄にしたな」
「……」
「気が済んだか? ほら、行くぞ」
レインは俯いたまま、動かなくなった狼型魔物のまぶたをそっと閉じた。拘束具である首輪を静かに外す。
「おい、いい加減にしろよ、何してんだ」
呆れた声が飛ぶ。
「せめて、祈りくらい……」
「魔物に祈り? はぁ、だからお前は無駄が多いんだよ」
男たちはとうに興味を失っていた。
素材を束ね、荷車に積み、次の行動に頭を切り替えている。レインだけが、そこから取り残されていた。
結局、必要物資の回収は予定より遅れた。日が沈みきる頃には、追加で摘めたはずの薬草も、仕留め損ねた残りの魔物も諦めざるを得なかった。
帰り道、荷車のきしむ音だけが、妙に耳についた。
「今回は取り分、期待すんなよ」
先頭を歩く男が、振り返りもせずに言う。
「……分かってる」
「お前のせいで時間食ったんだ。成果が減れば、報酬も減る。当たり前だろ」
レインは黙って頷いた。
反論はできなかった。実際、仕事として見れば、自分が足を引っ張ったのだ。
依頼達成に必要なのは感傷ではなく、結果だ。そんなことは分かっている。
分かっているのに。
さっきのあの目が……頭から離れなかった。
◇ ◇ ◇
街へ戻る頃には、空はすっかり夜に沈んでいた。
冒険者ギルドの扉を開けると、熱気と酒の匂いが一気に押し寄せてくる。
依頼帰りの冒険者たちが騒ぎ、笑い、武勇伝を大声で語っていた。いつもと変わらない喧騒だ。だが今夜のレインには、それがどこか遠い場所の音のように聞こえた。
受付前の長机で報酬が分配される。
仲間たちの前にはそれなりの重みのある革袋が置かれ、レインの前には、一回りどころではなく軽い袋が一つだけ転がされた。
「文句はなしだぞ」
向かいの席に座った男が言う。
「妥当だろ?」
「……ああ」
革袋を持ち上げた瞬間、軽さで分かった。中身を数えるまでもない。今月の家賃にはとても足りない。
しばらく黙っていると、別の男が椅子をきしませながら腰を下ろした。昼間の軽口とは違い、妙に真面目な顔をしている。
「悪いこと言わねぇからさ、お前、テイマー辞めとけ」
「……」
「向いてないんだよ」
レインは袋を握ったまま、視線だけをそっと上げた。
「テイマーってのは、魔物を使う側の職だ。あるのは友情や仲間意識じゃねぇ。絶対的な主従関係。使う側と道具。それができねぇなら、ただの足手まといだ」
「……分かってる」
「いや、分かってねぇから毎回そうなんだろ」
男は息を吐いて、少しだけ声を落とした。
「魔物好きだけでやってける職業じゃねぇんだよ。そんなだから、未だに自分の魔物一匹持たせて貰えねぇじゃねぇか」
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
レインは目を伏せる。
分かっている。そんなことは、最初から嫌になるほど分かっていた。
テイマーというのは、魔物を弱らせ、恐怖を植えつけ、従わせる。
効率よく使い、使えなくなれば捨てる。それが当たり前だ。そういう割り切りができなければ、まともに稼げる職ではない。
なのに自分は、いつまでたっても馴染めない。
「まあ、お前がどうするかは勝手だがな」
男は立ち上がり、肩をすくめた。
「せめて、俺たちの足だけは引っ張るなよ。もう他に行くとこ無いんだろ」
男はドンとレインの肩を叩き、酒場の方へ流れていく。誰もレインを気に留めなかった。
長机に一人残され、レインはしばらく動けなかった。
視界の端では、別のパーティーが新しい依頼書を広げて盛り上がっている。奥では討伐帰りの連中が戦利品を見せ合い、受付嬢は慣れた顔で手続きをこなしていた。
見慣れた景色のはずなのに、自分だけがそこにうまく馴染めていない。
そんな感覚ばかりが、胸の中に澱のように溜まっていく。
やがてレインは立ち上がり、革袋を懐にしまってギルドを出た。
夜風が頬を打つ。酒場の熱気のあとでは、やけに冷たく感じた。
石畳の路地を歩きながら、頭の中で手持ちの金を計算する。食費、物資の補充、支払い。どう並べ替えても、宿代には届かない。
「……向いてない、か」
ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
否定できなかった。
魔物を好きだと思う気持ちと、テイマーとして食っていくことは、別の話だったのだ。
路地裏で足を止め、レインは空を見上げた。建物の隙間に見える夜空は、思ったより広い。
「そろそろ、潮時か」




