最終章:至高のレシピ、最後の隠し味
十文字刑事が去ったスタジオには、換気扇の低い唸りだけが響いていた。
阿久津聖は、静かにシンクの前に立ち尽くす。
勝った。刑事は手ぶらで帰った。状況証拠だけで自分を裁くことはできない。裁判になれば、いくらでも有能な弁護士を雇える。あの小娘の死を「自己管理の甘さによる事故」として確定させてやる。
しかし、喉の奥に残るあの「エグみ」が、じわじわと彼女の現実を侵食していた。
「……あれは、私のサプリよ」
彼女は独り言をつぶやいた。自分の嘘を、自分自身に信じ込ませるための呪文。
もし今、自分が倒れれば、それは「刑事の指摘したサプリの粉末」が原因だと証明されてしまう。逆に、平然と明日を迎えれば、あの粉末は単なる「無害な飛沫」として片付けられる。
阿久津は、棚から自分用のサプリメントボトルを取り出した。中身は当然、本物のビタミン剤だ。
だが、彼女は知っている。自分の喉を焼いているのは、先ほど食べたラタトゥイユに混入していた、小早川澪を殺したのと同じ毒物だということを。
生ゴミ処理機の排気口から舞い降りた、死の粒子。
「……ふふ、皮肉ね」
阿久津は笑った。
完璧に掃除をし、完璧に証拠を消し、完璧に道具を磨いた。その「完璧主義」ゆえに、自分は現場の空気に混じった毒までをも、一皿の料理に凝縮して閉じ込めてしまったのだ。
視界が歪み始める。心臓の鼓動が、不規則なリズムを刻み始めた。
冷や汗が額を伝い、大理石のカウンターに一滴、落ちる。
(汚れたわ)
彼女は震える手で布巾を取り、その水滴を拭おうとした。だが、指先に力が入らない。
ここで助けを呼べば、一命は取り留めるかもしれない。だが、それでは「毒を盛った」ことを認めることになる。阿久津聖というブランドが、殺人者として法廷で裁かれる屈辱。
「私は……間違っていない」
彼女は、自分用のサプリメントボトルから一粒、また一粒と錠剤を口に放り込んだ。
まるで、それが毒ではないことを証明する儀式のように。
喉が閉まる。呼吸が浅くなる。
阿久津は最後の力を振り絞り、倒れる場所を選んだ。
床ではない。
自分が最も愛した、傷一つないステンレスのシンクの前だ。
彼女は、使い慣れた牛刀を胸に抱くようにして崩れ落ちた。
意識が遠のく中、彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて自分が教えた「料理の基本」だった。
『いい、澪さん。片付けまでが料理なのよ』
(ええ……これで、全部片付いたわ)
翌朝。
「新作の打ち合わせ」に訪れたスタッフが見たのは、朝日を浴びて輝く完璧に清潔なキッチンと、その中心で、まるで眠るように横たわる巨匠の姿だった。
傍らには、一口だけ残されたラタトゥイユ。
そして、その後日行われた鑑定により、その「最後の一口」から検出された成分が、彼女の罪を永遠に証明することになる。
十文字刑事が、現場に残された一通の「新作レシピ」を読みながら、静かに合掌する。そこには、彼女が死の間際まで守ろうとした、あまりに孤独なプライドの味が刻まれていた。
【完結】




