表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/7

最終章:至高のレシピ、最後の隠し味


十文字刑事が去ったスタジオには、換気扇の低い唸りだけが響いていた。

阿久津聖は、静かにシンクの前に立ち尽くす。

勝った。刑事は手ぶらで帰った。状況証拠だけで自分を裁くことはできない。裁判になれば、いくらでも有能な弁護士を雇える。あの小娘の死を「自己管理の甘さによる事故」として確定させてやる。

しかし、喉の奥に残るあの「エグみ」が、じわじわと彼女の現実を侵食していた。

「……あれは、私のサプリよ」

彼女は独り言をつぶやいた。自分の嘘を、自分自身に信じ込ませるための呪文。

もし今、自分が倒れれば、それは「刑事の指摘したサプリの粉末」が原因だと証明されてしまう。逆に、平然と明日を迎えれば、あの粉末は単なる「無害な飛沫」として片付けられる。

阿久津は、棚から自分用のサプリメントボトルを取り出した。中身は当然、本物のビタミン剤だ。

だが、彼女は知っている。自分の喉を焼いているのは、先ほど食べたラタトゥイユに混入していた、小早川澪を殺したのと同じ毒物だということを。

生ゴミ処理機の排気口から舞い降りた、死の粒子。

「……ふふ、皮肉ね」

阿久津は笑った。

完璧に掃除をし、完璧に証拠を消し、完璧に道具を磨いた。その「完璧主義」ゆえに、自分は現場の空気に混じった毒までをも、一皿の料理に凝縮して閉じ込めてしまったのだ。

視界が歪み始める。心臓の鼓動が、不規則なリズムを刻み始めた。

冷や汗が額を伝い、大理石のカウンターに一滴、落ちる。

(汚れたわ)

彼女は震える手で布巾を取り、その水滴を拭おうとした。だが、指先に力が入らない。

ここで助けを呼べば、一命は取り留めるかもしれない。だが、それでは「毒を盛った」ことを認めることになる。阿久津聖というブランドが、殺人者として法廷で裁かれる屈辱。

「私は……間違っていない」

彼女は、自分用のサプリメントボトルから一粒、また一粒と錠剤を口に放り込んだ。

まるで、それが毒ではないことを証明する儀式のように。

喉が閉まる。呼吸が浅くなる。

阿久津は最後の力を振り絞り、倒れる場所を選んだ。

床ではない。

自分が最も愛した、傷一つないステンレスのシンクの前だ。

彼女は、使い慣れた牛刀を胸に抱くようにして崩れ落ちた。

意識が遠のく中、彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて自分が教えた「料理の基本」だった。

『いい、澪さん。片付けまでが料理なのよ』

(ええ……これで、全部片付いたわ)

翌朝。

「新作の打ち合わせ」に訪れたスタッフが見たのは、朝日を浴びて輝く完璧に清潔なキッチンと、その中心で、まるで眠るように横たわる巨匠の姿だった。

傍らには、一口だけ残されたラタトゥイユ。

そして、その後日行われた鑑定により、その「最後の一口」から検出された成分が、彼女の罪を永遠に証明することになる。

十文字刑事が、現場に残された一通の「新作レシピ」を読みながら、静かに合掌する。そこには、彼女が死の間際まで守ろうとした、あまりに孤独なプライドの味が刻まれていた。

【完結】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ