新しい日常
前回のあらすじ
劉徳は黄鈴と再会し、彼女が叔母・月英に助けられて生き延びた経緯を知った。
自らの無力さに打ちひしがれ、大志を失いつつも、黄鈴を必ず守ることを胸に誓う。
兄と丞相に未来を託し、遠くから見守る覚悟をしたのであった。
こうして三人の赤嶺での暮らしが始まった。
関興と張苞は武術を磨き、劉徳は剣術の代わりに「知」を鍛えていた。
日の出前、関興と張苞は断崖の岩肌を登り、崖際の細い道で互いに剣を合わせる。風が吹きつけ、岩肌の冷たさが足に伝わる。二人の稽古は荒々しくも無駄がなく、互いを高め合うための真剣勝負だった。
「もっと腰を落とせ、安国!(関興の字)」
「余計なお世話だ、栄世 (張苞の字) あんたの足運びを崩す方が先だ!」
檻車での窮地を生き延びてから、二人の剣は以前にも増して鋭さを帯びていた。張苞は細かな手の動き、関興は豪快な踏み込みを磨く。森の匂い、鳥の囀り、互いの息遣いすべてが訓練の一部となる。
一方、劉徳は弓を持ち山の縁に立ち、射る。矢は静かに空気を切り、遠方の木の幹を貫く。だが彼の「戦い」は武だけに留まらない。早朝と夜は蔵書処にこもり、先人の言葉を読み込み続けた。父の遺言にあった『漢書』『礼記』『六韜』『孫子』『商君書』を一字一句読み込んだ。『論語』『孟子』や『尚書』『春秋』にも目を通し、成都にいた頃の何倍も勉学に励んだ。
ある日、書架の奥で姿を隠している書物に触れたとき、劉徳は息をのんだ。そこにあったのは伝説の書と呼ばれる数冊── 黄帝四経*が散逸を免れて残されていたのだ。頁をめくる指先が震える。知の重さをひしと感じ、彼の中で学ぶ意欲がさらに燃え上がった。
呉普は医師として、村の暮らしの要だった。彼は華佗の教えを基に、薬草を使った薬の処方、導引(気の運動法)、傷の手当てを行い、多くの住人を救った
「体は動かしてこそ血が巡る。止まれば病がつく。蝶番が動いているうちは錆びないのと同じだ」
呉普はそう言って、五禽戯と呼ばれる体操を教えた。虎のように伸び、熊のように腰を回し、鳥のように腕を広げる。劉徳も見よう見まねで動くうちに、体が軽くなるのを感じた。
呉普はまた、草木から薬を作り、病人を救った。その知識をまとめ、「本草」と呼ばれる書を編もうとしていた。劉徳も薬草採りに付き添い、煎じ方や膏薬の作り方を学び始めた。
そんなある日、張苞が高熱にうなされた。熱は引かず、顔は紅潮し、時折ひきつけを起こす。それを見て呉普は真剣な表情になった。病名は不明だが、症状は高熱による痙攣、呼吸の乱れ、激しい全身倦怠を伴っており、放っておけば命に関わる見立てだった——村にある医術で、打つ手は限られているが、呉普はためらわず手を打った。
「熱を下げ、毒を引く。身体の気の流れを整える。あと少し耐えろ……若い体なら必ず立ち直る」
呉普は草薬を選び、煎じ薬を作り、夜通し患者の傍らに居た。按摩で筋肉をほぐし、必要な時は冷却や止血といった処置も行って、張苞の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻す。数日後、血色が戻り、張苞は深い眠りから目を覚ました。
病床でうっすら目を開けた張苞は、最初に劉徳を見て笑うように呟いた。
「なあ、阿義……また他人に助けられてしまったよ」
それを聞いた劉徳は胸がいっぱいになった。危機的状況を脱したのは、呉普の手際と、気功によって張苞自身の生命力が支えられたからだった。宮中の形式ばった療法では到底助からなかったかもしれない——そう三人は呟いた。
この出来事をきっかけに、劉徳はますます医術に熱心になった。呉普から実践的な診断方法や治療法などを教えてもらい、薬にも少しづつ詳しくなっていった。武も学び、知も深め、体も強くする。成都では決して得られなかったものが、ここにはあった。
時が流れ、三人の姿は少しずつ変わっていった。張苞は病を経てさらに体を丈夫にし、関興は強さと同時に慎重さも身につけた。劉徳は学んだ知識を結びつけ、自分の役割を見つけ始めた。
村人たちとの関わりもすっかり日常の一部になった。作物の収穫期には皆で手を取り合い、病人が出れば呉普の家に人が集まる。
(流れゆく時間に人が合わせていく暮らし方。そして、過去の時間が消えることなく蓄積されていく自然と村の世界。ここへ来なければ、こんな生活を送る人々がいることさえ知らなかっただろう)
やがて季節は巡り、幾度かの冬と秋を越えるうちに、三人と黄鈴の暮らしは村に溶け込んでいく。劉徳は昔の自負を完全に失ったわけではないが、かつて抱いた大望が静かに形を変えたことを自覚していた。父の遺志をそのまま継ぐ資格がないと自嘲する日もあるが、彼はもう無力な皇弟ではなかった——知識と医術、そしてこの環境で鍛えられた精神を手にし、守るべきものを見つけていた。
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史実では、ちょうどこの頃、張苞は病死してしまいます。
黄帝四経⋯ 古代中国戦国時代ごろの政治思想書。




