黄家
前回のあらすじ
劉徳たちは赤嶺村に迎え入れられ、医師・呉普やかつての蜀の旧臣など思いもよらぬ人々と出会う。
村にはかつて劉邦によって建てられた「蔵書処」が残されており、失われた知が守られていた。
新たな住まいを得た三人は、互いに字を名乗り、義兄弟の絆をいっそう深めたのであった。
山道はまだ冷たく、落ち葉が足元でかさこそと鳴る。空には薄く霧が残り、紅葉の鮮やかな赤が遠くから山肌を染めている。劉徳は胸に軽い緊張を抱えながら、村長の家へと向かった。村は静かで、人の気配は少ない。だが門の方へ近づくと、籠を背負った黄鈴がちょうど家を出るところであった。
「おはよう、黄鈴」
彼女は一瞬で顔をほころばせ、少し照れたように籠を持ち替える。
「おはよう、阿義。今日はどうしたの?」
「山菜採りを……手伝おうかなって」
――二人の間に居合わせた沈黙は、ぎこちなくても暖かい。
黄鈴はもう一つ大きな籠を差し出すと、ふたりで山の奥へ入っていく。道は急で細く、遠ざかる風が赤い葉を舞わせる。足元にはノビルが顔を出し、崖際にはクズの茎が絡み、あちこちに茸の影が見える。劉徳は懐かしい匂いと、どこか昔の記憶をかき立てられる感覚に襲われた。佷山で黄鈴と一緒に山菜を採った日のことがふと蘇る。
しばらく無言で手を動かし、ふたりはそれぞれの籠を満たしていった。採る仕草は熟練しており、黄鈴の指は柔らかく確かだ。やがて、ほんの少しの間ができ、黄鈴はためらうように口を開いた。
「阿義……私がどうして生き延びたのか、知りたいでしょう?」
問いはやさしかった。劉徳は黙って頷く。
「あの時のこと、ずっと思い出さないようにしていたんだけどね」
黄鈴は目を伏せ、ゆっくりと話し始めた。
「あの夜、私は混乱していた。あなたが馬車に乗せられた直後、外は黒衣の一団が暴れていて……私は逃げ惑っていたの。するとその時、叔母さん――月英さんがどこからともなく馬に乗って駆けつけてくれたのよ。彼女は私を自分の後ろに乗せて、無理にでも安全な方へ逃がしてくれた。黒衣の者たちはあなたの馬車ばかりを追って、私のことは眼中になかったみたい。叔母さんに連れられて別の道へ逃げたんだけど、その後、叔母さんの家では暮らせないって分かって……祖父のいるこの赤嶺へ来ることになったの。」
声は震え、ところどころ言葉が途切れる。劉徳はただ黙って聞いた。黄鈴が言葉を続ける。
「叔母さんは立場上、あまり目立った行動はできないの。丞相の妻で、周囲の目があるでしょう? 私がずっとそばにいると、叔母さんの立場や使命に迷惑をかけるかもしれない。だから、祖父がいるこの安全な秘境へ私を送ってくれたのだと聞いたのよ」
その説明の端々に、黄鈴の気丈さと寂しさが混ざる。彼女は親のことを多く語らず、話さない分だけ失ったものの重さが透けて見える。劉徳は胸が締めつけられた。
「やはりここで黄鈴と再会できたのは奇跡としか言いようがない」
「本当に……会えて良かったわ。ねえ、私もあれからの阿義のことを聞かせてくれない? どうしてこの村に来ることになったの?」
「ああ、話すよ」
劉徳は語り始めた。佷山から成都へ戻った後、兄との後継者争いがあり、兄が皇帝となってからも冷遇され、やがて幼馴染の趙統に裏切られ、冤罪で流刑の身となったこと。移送の途中、仕組まれた罠で命を狙われたが、皮肉にも趙統に救われたこと。そして伊籍先生から授かった錦の袋に導かれ、この地へたどり着いたことを。
「あなたがよく話してくれた、あの趙統よね……。まさかそんなことをするなんて、信じられない」
「まあ彼には彼の理由があるんだ。今の私は陛下からは死んだことになっているし、世間から見れば罪人だ。だから普通の街では暮らせない。この村で受け入れてもらえるのは、本当にありがたいことだよ」
しばらくして黄鈴が、声を少し強くして言った。
「阿義は兄や趙統を恨んだりしないの? いつか復讐しようと思わないわけ?」
黄鈴の問いは真っ直ぐだ。劉徳は遠くの山並みを眺め、小さく首を振った。
頭の中に伊籍先生の言葉がよぎる――『他人の意思は変えられぬ。恨んでもしかたない。変えられるのは己の行動のみだ』その教えが、今の自分の支えになっていることを認めざるを得ない。
「復讐か……そんなこと、私には考えられない。今の私がそんなことを口にする資格があるとは思えないんだ」
劉徳の声は静かだったが、その奥には諦観が滲んでいた。私はまだ、父の遺したものを背負うに足る人間ではない。あの一件で命を落とした人々の顔がときどき脳裏をよぎり、そのたびに呼吸が苦しくなる。
劉徳の胸の奥で、かすかに燃えていた大きな夢――父の意思を継ぎ、国を立て直すという夢が、じりじりと色を失い始めている。現実は冷たく、彼の前に立ちはだかる障壁は大きい。天に見放されたような孤独と、罪を背負う重さが彼を押し潰しそうになる。
だが同時に、もっと原始的で確かな何かが胸の奥に芽生えた。黄鈴の優しい声、乾いた押し花がそっと手の中で崩れそうになる瞬間、それらが彼に別の使命を与えたのだ。「二度と、黄鈴をあの目に遭わせない」大きな国を動かす夢は今は遠のいても、この小さな誓いだけは許されるはずだと、劉徳は自らに言い聞かせる。自分に“逆らう権利”はないかもしれない。だが、彼女を守るという責務だけは、誰にも預けられない——その意志が、静かに、しかし確かに固まっていった。
劉徳はそっと黄鈴の肩に手を置いた。風が通り、二人の間に紅葉が一枚落ちる。
「ここで、もう一度――一緒に生きてほしい。私は、黄鈴を守る。どんなことがあっても、二度と同じ思いは─ ─させない」
声は低く、確かだった。黄鈴は目を閉じ、涙をこぼしたが、微かな笑みを見せた。
籠はいっぱいになり、ふたりはゆっくりと山を下り始める。
黄鈴と別れ、ひとり家への帰り道を歩きながら、劉徳はふと足を止め、青空を仰いだ。
「父上……どうかお許しください。私は、なんと親不孝な子なのでしょう。父上の願いを、この手で果たすことはもうできそうにありません。しかし、兄上と丞相がきっとその志を継ぎ、国を支えてくださるでしょう。私はただ、遠くから見守ることしかできないのです……」
かつて胸に燃えていた向上心も、大志も、今の劉徳には消えつつある。ただ己の無力を思い知らされるばかりだ。――それでも黄鈴だけは守らねばならぬ。それが今の劉徳に残された唯一の誓いだった。
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