赤嶺の宝
前回のあらすじ
成都を離れ、身を隠して旅を続ける劉徳は、村長・黄承彦のもとで思わぬ縁に導かれる。
そこで待っていたのは、あの夜、自分を庇って命を落としたと思っていた黄鈴――五年前に未来を誓い合った少女であった。
涙と抱擁の中、二人は失われた絆を取り戻し、再び希望の灯を胸に抱く。
村長の家を出た劉徳たちは、案内役の男に伴われて村を歩いていった。
軒先では子どもが木の枝で遊んでいる。女たちは川辺で洗濯をし、男たちは木材を運んだり畑を耕したりしていた。赤嶺の暮らしは素朴だが、そこには確かな生活の息づかいがあった。
「申し遅れましたな。私は医者の呉普と申します。昔は*華佗先生のもとで医術を学んでおりました」
案内役の男――呉普は、そう言って穏やかに微笑んだ。
(なに……あの華佗の弟子だと?)
劉徳の胸に驚きが走る。華佗といえば、天下にその名を轟かせた名医。その弟子が、こんな山奥の村に身を寄せているとは。
「なぜそのようなお方が、このような山里におられるのですか」
関興が思わず尋ねると、呉普は少し笑って答えた。
「ここには、いろいろな事情を抱えた者が多く住んでおります。都を離れざるを得なかった者、家を失った者、あるいは世の中のしがらみから身を隠した者……私もその一人にすぎません。あなた方も、きっと似たような事情を抱えているのでしょうな」
その言葉に、劉徳は思わずぎくりとした。張苞も、ちらりと劉徳の顔をうかがったが、呉普はそれ以上追及せず、穏やかに歩みを進めていった。
道すがら、村人たちが次々と声をかけてくる。
「旅のお方かい?」「ようこそ赤嶺へ」
子どもたちは好奇心いっぱいの目で三人を見上げ、老婆は干した野菜を差し出しながら「これを食べておくれ」と勧めてくれる。関興は子どもにちょっかいをかけられ、張苞は差し出された野菜を恐縮しながら受け取った。劉徳は胸の奥が温かくなるのを感じた。
さらに歩くと、かつて劉備の腹心として知られた簡雍や陳到が、縁側で囲碁を打ちながら出迎えてくれた。彼らは第一線から退き、この村で静かに余生を過ごしているという。
「おお、若い顔を見るのは久しいな。まあ腰掛けていけ」
張苞が慌てて深々と頭を下げると、簡雍は笑いながら「堅苦しいことは抜きだ」と言って手を振った。
村の雰囲気を肌で感じながら歩いていくうちに、やがて少し離れた場所に立つ二階建ての木造建築が目に入った。
「あれは……?」
劉徳が指差すと、呉普が振り返る。
「ああ、あれは*蔵書処です。ちと珍しい建物でしょう」
「蔵書処? それは宮中に置かれるものでは……」
張苞が怪訝そうに問うと、呉普はうなずいた。
「その通り。実はあの建物は、前漢の時代に建てられた正式な蔵書処なのです」
三人は思わず息を呑む。
呉普は歩みを緩めながら、村の歴史を語り始めた。
「あなた方が通ってきた褒斜道は、漢の高祖が項羽に追われ、漢中に身を寄せた折に整備したもの。その際、彼は大事な書を後世に伝えるため、ここに書庫を建てさせました。やがて前漢が滅び、新の世となると、この存在は隠され、管理も絶えました。しかし、この辺鄙な場所ゆえに、誰も訪れず……かえって本は守られ続けたのです」
「なんと……」
劉徳は息を詰めた。もしこの蔵書処が洛陽に置かれていたら……董卓の焼き打ちによってどれほどの文献が失われていただろう。
「少し中を見ていきますか」
呉普が錠を外すと、重い扉がぎぃと開いた。
中には整然と並ぶ書架。巻物や冊子がびっしりと収められ、よく手入れされている。窓から射す光に、埃がきらめきながら舞った。
「礼記、六韜、孫子、商君書……成都の書庫の何倍も多い。それに史記、漢書まで……しかもこれは原本ではないか!」
劉徳の声は震えた。
「ええ。高祖は始皇帝の*焚書坑儒をよく覚えておられたのでしょう。だからこそ、世が再び乱れても書が失われぬようにと、残っていたほぼ全ての書物をこちらへ移したのです」
呉普は巻物をそっと撫でながら語る。
張苞は驚きのあまり言葉を失い、関興は周囲を見渡しながら「まるで都より豊かだ」と呟いた。
劉徳は原本に手を伸ばしかけたが、恐れ多くて思いとどまった。その代わり、深く息を吸い込み、静かに頭を下げる。
「このような宝が、今も残されていたとは……。呉普先生、ぜひ学ばせていただきたい」
呉普はにっこり笑みを浮かべた。
「どうぞ。今は私がここを任されております。読みたいものがあれば、遠慮なく声をかけてください。ただし、扱いだけは慎重にな」
三人は頭を下げ、再び村の道へと戻った。夕暮れの紅葉が風に揺れ、煙が屋根の間から立ち昇っていた。村の人々の素朴な笑顔と、失われずに守られた知の宝庫――それらは劉徳の胸に、深い感慨と新たな決意を刻んでいた。
* * *
「こちらが阿義さま方のお家となります。ちょうど空き家が一軒ありましてな」
案内されたのは、古びてはいるが、梁も柱も立派な造りの家だった。
「こんな立派な家に住まわせていただけるとは……ありがとうございます」
劉徳が頭を下げると、呉普は笑みを浮かべて首を振った。
「いえいえ、この村に住む者は皆、家族も同然。互いに助け合い、支え合って生きておるのです。書物もありますし、自給自足の暮らしは心身を鍛えてくれます。広いこの赤嶺の山で武術を磨くもよし、断崖を登って鍛錬するもよし。ここは修行にも学びにも適した場所ですぞ。……これから、よろしくお願いしますね」
「ありがとうございます。ぜひ先生から医術を学ばせてください」
「ほう、それはそれは。喜んでお教えしますとも」
やがて日が山影に沈むころ、呉普は村人に声をかけながら帰っていった。
三人はあてがわれた家へと入る。中には生活の痕跡が残り、どこか温もりを感じる。しかも掃除が行き届いており、埃ひとつ見当たらなかった。
(村を案内されている間に、誰かが掃いてくれたのだろう……なんと親切な人々だ)
劉徳は胸の奥から感謝が湧き上がるのを感じた。
ほっとした様子で、関興が腰を下ろす。
「いやあ……優しい者ばかりで助かったな。同じような境遇の人も多そうだし、安心した」
張苞も大きく息をつき、うなずいた。
そのとき劉徳がふと思いついたように言う。
「そういえば……お前たちを呼ぶとき、呼び名がないと少し困るな」
「たしかにそうだ」関興が笑った。
「これを機に、*字を決めようではないか。本来は二十歳を過ぎてからつけるものだが……身を隠すためと思えば致し方ないな」
少し誇らしげに胸を張り、関興が告げる。
「俺は前々から考えていたぜ。俺の字は――『安国』なり!」
「おお、堂々としてるじゃないか」張苞がぱちぱちと手を打つ。
「うんうん、いいじゃないか」
劉徳も賛同する。
「では、張苞は?」と劉徳が振る。
「えっ、わ、我の字か……ええと、その……劉徳殿のご助言をいただきたい」
「いやいや、自分の字は自分で決めればいいじゃないか」
「ですよねぇ……」
しばらく悩み込んでいた張苞だったが、ふと顔を上げ、手を打った。
「よし、決めたぞ! 関興が『安国』なら……我は『栄世』だ!」
「栄世?」関興が首を傾げる。
「そう。国を安んじ、世を栄えさせる。どうだ、ぴったりだろ!」
「……なるほど。なかなか筋が通っているではないか。やるな、兄貴!」
「その呼び方はやめてくれ。何度言ったら分かるんだ………まったく名前が安国になっても中身は全然変わってないなあ」
張苞が笑って関興の背を叩き、関興も負けじと胸を張る。
「ふふ、いいじゃないか。安国と栄世、か」
劉徳は二人のやり取りを見守りながら、自然と頬がゆるんだ。
最初は先行きに不安もあったが――この家なら、この村でなら、きっと楽しい日々になる。義兄弟の絆が、またひとつ深まったのを劉徳は感じていた。
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今までずっとシリアスな展開が続いていたので、今回は義兄弟の自然なやりとりを描写してみました。
華佗⋯中国後漢末期の薬学・鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な医師
蔵書処⋯今の図書館のもとになったような本を保管する施設。書庫。
焚書坑儒⋯秦の始皇帝が行った思想弾圧事件。焚書は「書を燃やす」こと、坑儒とは「儒者を坑(穴)に生き埋めにする」を意味する。
字⋯ 成人後に自分で名乗った別名(通称)




