劉禅の治世
前回のあらすじ
父・劉備の死後、若き劉禅が蜀漢の皇帝として即位する。
だが、遺言に記された弟・劉徳の存在が、兄の胸に嫉妬と不安を呼び覚ました。
国を支えるはずの二人の皇子――しかしその道は、やがて避けられぬ対立へと繋がっていく。
「陛下、ご即位を心よりお祝い申し上げます」
朝堂に集った蜀の家臣たちが祝辞を述べた。その中には劉徳の姿も見える。
「ありがとう。朕は無事、蜀漢の二代皇帝に即位することができた。皆で力を合わせ、国難を越えようぞ」
劉禅は穏やかに微笑み、場を締めた。
「ははっ。国のために尽力いたします、陛下」
臣下たちも劉禅の声掛けに応じた。
「それでは各自、職務に戻れ、しかし劉徳は残っていろ」
大臣たちは一斉に退場し、朝堂は静寂に包まれた。そして、皇帝劉禅と劉徳の二人だけが部屋に残された。先ほどまでの柔らかさは、劉禅の顔から消えていた。
「ご用件は何でしょう」
劉徳が尋ねる。
「お前に忠告しておこう。言動にはくれぐれも気を付けることだ。もうお前とはただの兄弟ではない。朕は皇帝でお前はそれに従う。立場をわきまえることだな」
劉禅は苛立ちを隠さずに告げた。
「承知しました、陛下。以後気を付けます」
劉徳は表情を乱さぬまま退出する。しかし、部屋を出ると、冷たい水が胸に染み込むような寂しさを感じた。
(父上を失った今、この国に私の居場所はない)
劉徳の頬に冷たいものが伝わった。
劉徳は自室に戻ると、膝を折り、そっと目を閉じた。彼の心の中には、兄に対する忠誠心と、自らの道を見つけたいという葛藤が入り混じっていた。家臣たちが劉禅の言葉に従う一方で、劉徳の心には、父の遺志を継ぐべく、別の道が開かれる予感があった。しかし、彼はまだその道を選ぶ覚悟ができていなかった。
劉禅は政務の合間に、ふと内蔵寮に立ち寄った。そこは皇帝のための特別な衣冠が保管されている部屋――様々な錦袍や冠が整然と並び、織り込まれた金糸が静かに輝きを放っていた。
その中に、赤く艶やかな布がひときわ目を引いた。
「……これは」
手を伸ばすと、指先に懐かしい感触が返ってきた。
* * *
劉禅が十六の年の誕生日。
その日、父・劉備から贈られたのは、金糸で双龍を刺繍した深紅の錦袍だった。胸には皇太子を象徴する雲文の紋。
「……これは」
袖を広げた劉禅の目が輝く。
「父上、ありがとうございます!」
彼はその場で錦袍に袖を通し、鏡に映る自分を何度も見直した。臣下たちも笑顔で祝辞を述べ、劉禅は誇らしげにその日一日を過ごした。
――数か月後。
劉徳が十四の誕生日を迎えた日、再び劉備から贈り物が下賜された。
盆の上に置かれていたのは、あの日劉禅が貰った錦袍とほとんど同じ意匠の衣――色はやや淡い朱、胸の紋も雲文ではなく瑞鳥の文様だったが、誰の目にも「兄のものと対になる品」であることは明らかだった。
「……兄上とお揃いだそうです」
宦官がにこやかに言うと、劉徳は素直に礼を述べ、受け取った。
しかしその横で、劉禅の顔がみるみる曇る。
「父上……これは、どういうおつもりですか」
「お前と阿斗が並び立つ姿を見たいと思ってな」
劉備は何気なく答えたが、その言葉が劉禅の胸を刺す。
(俺だけのものだったはずだ……)
宴の後、劉禅は錦袍を箪笥に押し込み、それ以来二度と袖を通さなかった。
理由を問う侍従には、ただ短くこう言った。
「庶子と同じ衣など、着る価値はない」
劉徳は何も言わず、その衣を時折大事そうに着た。だが、廊下ですれ違うたびに、兄の視線は冷たく突き刺さってきた。
* * *
「……こんな場所にしまわれていたのか」
数回しか袖を通していない衣は、今も新品のように色鮮やかだった。
(父上に悪いことをしたな……頂いたこの服を堂々と着こなし、立派な皇太子でいるべきだったのに。私も父上の自慢の息子になりたかった。そうなれなかったのは、俺の弱さゆえかもしれぬ)
胸の奥に、じわりと悔しさが広がる。父の理想と期待に応えられなかった己の姿が、衣の光沢に映り込むようだった。
だが次の瞬間、別の声が心を覆った。
(いや……違う。私だけの特別な証をあいつが奪ったのだ。あの衣に込められた父上の思いを、半ばで横取りしたのは劉徳。あいつさえいなければ……俺は迷わず、父上の望んだ皇太子になれたはずだ)
悔しさは次第に憎悪へと変わり、劉禅の胸を焼いた。
(父上……どうかご覧あれ。俺はもう迷わぬ。弟を押さえつけ、排し、俺こそが唯一の後継者であることを示すのだ)
劉禅は錦袍を静かに掛け直すと、衣のきらめきから目を背けた。その目には、父を思う懐旧よりも、弟を除かなければならぬ決意の光が宿っていた。
「先帝を昭烈帝と諡し、新しい元号を建興とする。また、人事についてだが、趙雲を征南将軍、魏延を鎮北将軍、李厳を前将軍、呉懿を左将軍、趙統を*尚書郎に任命する」
劉禅が臣下たちに告げる。
昇進した者は、劉禅の前に進み出て、謝意を示した。
「はあ、将軍の昇進を決めるのだけでもとても疲れる。これに加えて、日々の政務をやらなければいけないとは…参ってしまう」
劉禅はため息をついた。しかし、劉禅には絶対に行うと決めたものがあった。
「邪魔者、劉徳を排除する」
劉禅は、すでに決意を固めていた。
「後継者争いをした弟など、生かしておけない。文景の治と言われた漢の文帝は、おごり高ぶっていた弟である淮南王劉長を謀反の疑いで処罰した。劉長は流刑に処され、流刑地で絶望の末に自殺したのだ。朕もそれにならって、災いの芽を摘んでおこう。ようやくあの憎き弟を正々堂々始末できる。劉徳、決して生かしてはおかぬぞ」
劉禅は、恨み言を吐きすてた。
「丞相を呼べ」
劉禅は書斎で政務を進めながら、内官に伝えた。
「陛下、何かご用でしょうか?」
諸葛亮が現れる。
「いまさら言う必要もなかろうが、そなたは、優秀で信頼できる蜀の賢臣だ。あれから朕も色々と考えたのだが、日々の政務はすべてそなたに任せようと思う。重要な政は、朕に一度伝えてほしいが、それ以外は、丞相の判断に委ねよう」
劉禅は目線を上げた。諸葛亮は驚きを隠せない様子であった。
「陛下、それはいけません。私がすべての国事を決めるなど決して許されることではございません。政務は陛下が行ってください。わからないことがあればお教えしますので」
「朕が許可したからいいのだ。これからは、そなたに全て任せる」
一瞬の沈黙が流れた。
「承知致しました」
諸葛亮は渋々了承した。
「それともう一つ。そなたに聞きたいことがある」
「なんなりと」
「劉徳をどうするべきだと思う」
劉禅は先ほどとは異なる視線を諸葛亮に向けた。
「劉皇弟は、仁義に厚いので信頼できるでしょう。魯王にでも封じてみてはいかがでしょう?」
諸葛亮は提案した。
「そうか」
劉禅は、険しいようながっかりしたような顔をしたが、すぐに表情を戻し、諸葛亮を退かせた。
その後、諸葛亮は卓越した才知を発揮し、一見些細に見えても国の根幹を支える政務を着実に処理していった。
「よし、これで政治のことは考えずにすむ。皇帝らしく、豪華絢爛、遊ぼうではないか」
こうして劉禅は、即位から半年も経たぬうちに政務を手放してしまった。
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いつもより文章が長くなってしまいましたね。昨日からPVがものすごく増えていて嬉しい限りです。
尚書郎・・・尚書台に配属された郎官。「50歳未満で能力のある者」が選抜される。皇帝との距離は近く、側近として仕えることもある。




