側近趙統
前回のあらすじ
劉禅は即位直後から弟・劉徳に強い警戒心を抱き、心の底に嫉妬と憎悪を募らせていく。
父から与えられた錦袍の記憶を思い出し、ついに劉徳排除を決意した。
政務は諸葛亮に丸投げし、自らは娯楽に傾く一方で、弟を追い落とす策を練り始めた。
「趙統よ。そこにいるか」
「陛下、お呼びでしょうか」
趙統は静かに歩み出て、劉禅の前に姿を現した。その所作には、父・趙雲の血を感じさせる凛とした気品があったが、態度は謙虚で、身を低くして敬意を表した。
「そなた、尚書郎の務めは順調か?」
「はっ……まだ分からぬことばかりですが、周囲に助けられ、何とかやれております」
趙統が正直に答えると、劉禅は満足そうに頷いた。
「うむ。もともと尚書郎は、*孝廉に挙げられた者でなければ就けぬ役職である。だが、朕はそなたを特別に任じたのだ。父・趙雲殿の忠義を思い、そして朕の傍で支えてもらいたいがゆえにな」
言葉には温情がこもっていたが、同時にどこか恩を着せる響きがあった。
「陛下の御厚意に、身の引き締まる思いでございます」
趙統は深く頭を下げ、その言葉の重みを素直に受け止めた。彼にとって、それは誇りであり、同時に逆らいがたい鎖でもあった。
劉禅は満足げに笑みを浮かべ、碁盤を指さした。
「趙統よ、この暇な時間に囲碁でもしようと思うのだが、付き合ってくれるか」
「もちろんです。私でよければお相手いたします」
趙統は嬉しそうに応じ、劉禅の正面に座った。二人は碁盤を挟み、笑みを交わしながら碁石を置いた。盤上の戦いは軽やかで、そこに帝王と臣下という隔たりは感じられなかった。幼少のころから劉禅の傍らに仕えてきた趙統にとって、この気安さは自然なことだった。父・趙雲の代から続く縁は深く、彼の忠誠は揺るぎないものと誰もが思っていた。
劉禅もまた、その忠誠を信じていた。いや、それ以上に、趙統を側近として身近に置くことで、自らの権威があの常山の子龍に裏付けられることを誇りに感じていたのである。
しかし――その日の囲碁はただの遊びでは終わらなかった。
「趙統よ。お前に頼みがある」
劉禅は石を盤上に置いたまま声を落とした。その眼差しは、さきほどまでの柔和な色を失い、冷たい光を宿していた。
「何なりと仰せください」
趙統は表情を崩さぬまま頭を垂れたが、胸の奥で微かなざわめきが走った。
「それでこそ朕の側近だ。趙雲殿の息子なだけある」
劉禅は口元に笑みを浮かべ、碁石を指で弄びながら耳元でささやいた。
「この任務を果たしてくれれば、お前を* 廷尉に任じてやる。朕のために、その手腕を振るってくれるな」
その言葉に趙統の心は大きく揺れた。廷尉――名誉ある地位。だが、劉禅の声音に潜むものは、単なる人事の約束ではない。危険な匂いがした。
「……ご命令の内容は」
趙統は低く尋ねた。
劉禅の瞳が鋭さを増す。そこにあるのは、父・劉備の温厚さでも、賢帝としての威厳でもない。嫉妬と猜疑に染まった、ひとりの人間の執念だった。
やがて趙統は知ることになる――その命令が、劉徳を陥れるための謀略であることを。
胸が苦しくなった。幼いころから劉徳とも顔を合わせ、共に学んだ記憶がある。彼は確かに聡明で、父・劉備の理想を継ぐにふさわしい人物だった。だが同時に、その存在は皇帝である劉禅をかすませる影でもあった。
(この国の皇帝は、阿斗さまだ。逆らってはならぬ。父上も言っていたではないか。忠義とは主君に尽くすことだと……。私が仕えるべきは阿義ではない。陛下ただ一人なのだ……)
迷いはあった。だが最後には、父の言葉が心の中で響き、趙統は決断した。
「……お言葉に感謝いたします。必ずやご期待に応えてみせましょう」
声は静かであったが、その奥に苦悩と決意が入り混じっていた。
劉禅は満足げに頷いた。
「そなたこそ朕の側近だ。趙雲殿の血を引いているだけあり、頼もしいかぎりだ」
そのとき、趙統はすでに自らの運命を劉禅に預けていた。
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孝廉⋯科挙科目の一つ
廷尉⋯ 九卿の1つであり、司法・刑罰を担当する官職。品秩は三品。他の九卿(少府、大鴻臚、太僕、太常など)は実質的に名誉職化していたケースが多いが、廷尉は事件処理や裁判で常に実務能力が求められ、日々仕事がある役職である。




