第二章 避難所はまだ国名を持たない
建国の翌朝、と言ってしまうと、ずいぶん聞こえがいい。
実際には、宇治森龍が寝たのは四時過ぎ、起きたのは四時四十分で、睡眠というより気絶の仮払いみたいなものだった。
目を開けた瞬間、スマホが顔面に落ちてきた。
画面には通知が積もっていた。雪というには湿っていて、瓦礫というには小刻みな量の、インターネット特有の積雪だった。
昨夜の投稿は消えていなかった。
もちろん自分で消していないのだから当然なのだが、こういうとき人は、朝になったら世界のほうが気を利かせて削除しておいてくれないものかと期待する。市役所の窓口みたいに、「これは昨晩のあなたには不適切な申請でしたので、こちらで破棄しておきました」とやってほしい。
世界はそういう親切をしない。
通知を開く。
「建国メンバーです」
「内乱罪で草」
「暴動ないとたぶん内乱罪にはならん」
「法律に詳しい奴が早速いて嫌だな」
「避難所あるならほんとに行きたい」
「夜だけ無言でいられる場所ほしい」
「ルール少ないなら助かる」
笑っているのか、本当に困っているのか、文面だけでは判別できないものが多かった。
だが、その判別できなさ自体が、夜というものに少し似ていた。人間は夜更けになると、冗談と本音の境目が薄くなる。輪郭が雨に濡れたダンボールみたいにふやけて、押したらすぐ指が入る。
龍は上半身だけ起こし、枕元の財布を見た。
昨夜と同じ厚みだった。当たり前だ。寝ているあいだに国家予算が増えるほど資本主義は甘くない。
千七十八円。
この国の財政は相変わらず瀕死だったが、なぜか国民だけは増えようとしている。
「意味わかんねえ……」
独り言を言うと、部屋の隅に立てかけたギターが、なにも弾かれていないのに少しだけ鳴った。気のせいだろう。あるいは湿気だ。春の湿気は、役に立たないものほど丁寧に撫でる。
龍はスマホを持ったまま、しばらく天井を見ていた。
消すなら今だ。
なにも始まっていないうちに消せば、ただの深夜の奇行で済む。数日もすれば誰も覚えていない。インターネットは忘却の速度だけは新幹線より速い。
けれど、通知のなかに一つだけ、指を止める文があった。
「家に帰る前に、どこか開いてる場所があるだけで助かります」
それは絵文字もなく、語尾も平らで、妙に整った文章だった。
整っているぶんだけ、余計に切実に見えた。
何時に、どこから送ってきたのかわからないその一文の向こうに、駅前の喫煙所とか、コンビニの駐車場とか、人気のない河川敷とか、そういう帰るには中途半端で、帰らないには寒い場所がいくつも浮かんだ。
龍は起き上がった。
起き上がった拍子に、昨日のコンビニ袋を踏み、空のペットボトルが潰れる。国の成立にふさわしくない音がした。
「……避難所、か」
誰に言うでもなく呟いて、投稿画面を開く。
また白い入力欄が現れる。昨日より少しだけ狭く見えた。たぶんこちらが、少しだけ現実を知ったからだ。
――国っていうか、まず避難所みたいなの作る。
――本当に何もないし、ルールもまだないです。
――それでもよければ、あとで場所貼ります。
送信。
三十秒もしないうちに、返信がついた。
「お願いします」
「無言でもいられると助かる」
「通話ある?」
「ROM専国民希望」
「国民って呼ぶのまだおもろい」
「いやでもちょっとわかる」
龍はベッドから降り、床に散らばった充電ケーブルをまたぎながら、ノートパソコンを起動した。
二年前、動画編集を始めようとして買い、三本切り抜きを作ったところで飽きたやつだ。久しぶりに開くと、ファンが回る音がやけに大袈裟で、これから国務会議でも始めるみたいだった。
避難所を作る。
そう決めてしまえば、作業自体は早かった。
問題は、名前だった。
サーバー名入力欄に、龍は何度か文字を打ち、何度も消した。
「独立国家(仮)」
ふざけすぎている。
「宇治森連邦」
気持ち悪い。人の名前を冠した国家はだいたいろくなことにならない。
「財布の中の領土」
少し良いが、少し良すぎる。今はそういうタイミングではない。
結局、いちばん温度の低い名前にした。
「とりあえず避難所」
拍子抜けするほど雑な名前だったが、それでよかった。
立派な名前をつけた瞬間、人は立派なものを期待する。龍にはそれが無理だとわかっていた。期待という税金を払えるほど、この国庫は豊かではない。
チャンネルを作る。
#はじめに
#雑談
#無言
#夜更かし通話
四つ。
文字の箱を四つ置いただけなのに、急に「場所」っぽくなるのが不思議だった。地図というのは、案外これくらい雑に始まるのかもしれない。空白に名前をつける。通路を引く。ここは玄関、ここは広場、ここは黙っていていい場所。
それだけで、人は少し落ち着く。
次に、ルールを書く欄が出てきた。
龍はそこで止まった。
ルール。
昨夜までは冗談の中にしかなかったものが、急に設定画面の顔をして現れる。インターネットの恐ろしいところは、ふざけて始めたことにも、すぐフォーム入力を要求してくるところだ。
しばらく悩んだあと、龍は最低限だけ打ち込んだ。
・説教しない
・いきなり金の話をしない
・しんどさ比べをしない
・出入り自由
見返す。
憲法というには頼りなく、居酒屋の張り紙というには少し切実だった。
「まあ……いいか」
招待リンクを貼ったのは、朝の五時二十分だった。
こんな時間に人が来るわけがない、と普通なら思う。だが普通の生活をしている人間は、そもそも「帰る場所がないやつ、とりあえず来てください」みたいな投稿に反応しない。
一人、入った。
二人。
五人。
九人。
参加音が鳴るたび、龍の胃が少しずつ縮んだ。
国民が増えるより先に、管理人の胃酸が増える。国家形成とはたぶんそういうものだ。
#雑談 に、最初の書き込みが流れる。
「こんばんは。無言でも大丈夫そうなので入りました」
「駐車場から見てます」
「仕事前にちょっとだけ」
「家族寝てるんで文字だけで失礼します」
「国民ってことでいいんですか、これ」
最後の一文に、龍は少し笑った。
笑ったが、笑って終わらなかった。
駐車場から見てます、という短い文が妙に頭に残ったからだ。いまこの瞬間も、どこかの車内や、自販機の横や、アパートの外階段に、スマホだけを明るくして座っている人間がいる。その画面の向こうに、自分の作った雑な箱が開いている。
それは冗談にしては、少し責任のある事実だった。
龍も #雑談 に書き込む。
「作った本人です。正直ノリで始めたので、至らないところしかないです。無理せず、好きにいてください」
送ってから、自分で「作った本人」という言い方に笑いそうになった。
パン屋でも同人ゲームでもないのに、言い回しだけやけに丁寧だ。だが「国家元首です」と書く勇気はさすがになかった。そんなものになりたかったわけではない。龍が欲しかったのはせいぜい、夜中に開いてるだれかの部屋みたいなものだった。
参加者は十五人になった。
龍の所持金より多い。
財布の中の硬貨の枚数より、人間のほうが多い。
比べる対象として間違っているのだが、こういうとき人は手持ちの貧しさでしか物事を測れない。
そのとき、ダイレクトメッセージが届いた。
「荒らし対策だけ、考えたほうがいいかもです」
龍は画面を見つめた。
荒らし対策。
たった八文字で、空気が少し変わる。
誰でも入れる場所には、誰でも入れてしまう。これは当然のことで、当然のことほどいつも後から来る。店を開けてから万引きの心配をし、傘を差してから風の向きを知る。人間はそういう順番でしか学べない。
また別のメッセージが来る。
「管理手伝えます。必要なら言ってください」
管理。
手伝い。
権限。
昨日まで床に転がっていた言葉ではない。もっと固くて、四角くて、放っておくと部屋の隅に角をぶつけそうな言葉だ。
龍は椅子にもたれ、天井を仰いだ。
六畳一間は相変わらず狭い。カーテンの隙間から、朝の色とも夜の残りともつかない薄い光が差している。
その下で、自分はパーカーに寝癖のまま、顔も洗わず、残高千円台で、知らない人間たちの居場所を開いている。
とんでもなく間違ったことをしている気もしたし、
やっと少しだけ、間違いではないことをしている気もした。
#夜更かし通話 に、一人入室した表示が出た。
誰も喋らないまま、人数だけが「1」になる。
龍はしばらく見てから、そっと自分も入った。
無音ではなかった。
向こう側で、誰かが小さく鼻をすすった。遠くで車の走る音がした。たぶん換気扇か、あるいは蛍光灯の唸りみたいな生活音も混じっていた。
人間が一人、たしかにそこにいる、という音だった。
名前も知らない誰かと、無言のまま同じ場所にいる。
それだけのことなのに、夜という巨大な空室に、やっと椅子が一脚置かれたみたいだった。
チャット欄に新しいメッセージが流れる。
「ここ、いつまで開いてますか?」
龍はキーボードの上に指を置いて、少し考えた。
少し考えてから、打った。
「寝落ちするまでは」
送信して、すぐ後悔した。
曖昧だ。適当だ。管理人の返答としては最悪に近い。
けれど数秒後、いくつかのスタンプがついた。安心したような、笑ったような、よくわからない反応だった。
そのよくわからなさに、龍は少し救われた。
まだ、ちゃんとした国ではない。
だからたぶん、まだ引き返せる。
あるいは、引き返せないまま進むにしても、今のところはまだ、避難所は避難所の顔をしている。
ただ、画面の右上には、新しく増えたボタンが静かに表示されていた。
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共和国の最初の官職は、たいていこんなふうに、寝不足の朝の設定画面から生まれる。




