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第一章 財布の中の領土

国家というのは、もっとこう、立派な人間が作るものだと思っていた。


たとえば髭の濃い軍人だ。地図の上に定規を置いて国境線を引き、引いたあとで人間のほうをそこに合わせるような顔をしている男。

あるいは演説のうまい革命家。群衆の喉をひとつの楽器みたいに鳴らして、昨日までの世界を今日で終わらせることのできる種類の人間。

あるいは分厚い本を読みすぎて頭が尖った学者。国家とは何か、主権とは何か、共同体の条件とは何か、みたいなことを朝まで語って、しかもそれが少しも恥ずかしくない人間。


少なくとも、コンビニのレシートと消費者金融の明細を同じ財布に入れている男ではないはずだった。


四月の雨は、貧乏人の部屋にだけ妙に平等に降る。

六畳一間。築年数不明。壁紙はところどころ浮き、換気扇は回るたびに敗戦国みたいな音を立てる。宇治森龍は玄関に座ったまま、靴を脱ぐ気力もなく財布をひっくり返していた。


出てきたのは、千円札が一枚、十円玉が七枚、五円玉が一枚、一円玉が三枚。期限の切れたポイントカード。パチンコ屋の会員証。三日前のカップ焼きそばのレシート。

以上が現在の版図であり、国家予算だった。

総額、千七十八円。

領土としては心細く、予算としては笑える。しかも来週には家賃という大国が攻めてくるし、消費者金融という隣国は、もうとっくに国境を越えて居座っていた。


宇治森龍、二十七歳、独身、金なし、貧乏。趣味多数。継続力皆無。特技は、始めること。


始めるのは得意だった。

ギター、三日。

筋トレ、一週間。

動画編集、十二日。

観葉植物、二週間で根腐れ。

競馬は半年続いたが、それは趣味というより敗北の習慣に近かった。

部屋を見渡せば、放り出した趣味の残骸がそこらじゅうに転がっている。弦が一本切れたアコースティックギター、片方しかないダンベル、開封だけして満足した水彩絵の具、配信用に買った安物マイク、ルールを覚える前に飽きたボードゲーム、コード類の絡まり。六畳一間というのは、夢の墓場として使うには少し狭い。だから墓が積み上がる。積み上がった墓が生活空間を圧迫して、やがて住民を追い出す。


帰りたくない、と思う夜がある。

自分の部屋に対して、それを思う。

外で飲んでいるわけでもないし、誰かが待っている家でもない。ただ、ドアを開けると失敗した過去が全員起立して迎えてくるので、できればしばらく廊下かコンビニのイートインで時間を潰していたいのだ。


今夜もそうだった。駅前のベンチ、二十四時間営業のドラッグストア、意味もなく遠回りした住宅街。どこにも用はないくせに、部屋にだけは戻りたくなかった。

結局、雨に負けて帰ってきた。


スマホが震えた。

画面には、返済日のお知らせが冷静な文面で表示されていた。冷静というのは残酷だ。人間が終わりかけているとき、いちばん腹が立つのは、相手が少しも怒っていないことだからだ。


龍はため息をついて、濡れたパーカーを脱ぎ捨てた。ハンガーにかける気力もない。床の上に積もる洗濯物の山へ投げる。

そのまま座布団もない床にあぐらをかいて、スマホを見た。


SNSにはいつもの夜が流れていた。

誰かの失言が切り取られ、誰かの炎上が祭りになり、誰かの配信の切り抜きが笑い声とともに流れていく。どうでもいいといえばどうでもいい。だが、そのどうでもよさに何度救われたかわからない。

学生のころも、仕事を辞めたあとも、眠れない夜にひとりでいると、自分の人生だけがメンテナンス中の画面みたいに真っ暗になることがあった。そんなとき、画面の向こうで雑談している配信者や、くだらないコメントで埋まるチャット欄は、ぎりぎり世界が営業中であることを証明してくれた。


加藤純一みたいに、場を作れる人間がいる。

人を笑わせるとか、ゲームがうまいとか、そういうのもあるのだろうが、それより大きいのは、そこに人が戻ってくることだと思う。夜になると、なんとなく覗いてしまう場所。入っても入らなくても、開いてると少し安心する場所。

龍はああいうものに憧れていた。

自分でも配信をやってみたことはある。三回でやめた。ひとりで喋ると、声が自分の部屋の貧しさに反響して、あまりにも現実味がありすぎたからだ。視聴者は、友達一人と、どこかの投資アカウントみたいな名前のボットだけだった。


「向いてねえんだよなあ……」


言ってから、笑った。

向いていないものばかり集めて生きている。趣味も、仕事も、人生も。


通知欄を閉じようとして、ふと、Xの投稿画面を開いた。

なにを書こうとしたのか、自分でもよくわからない。酔っているわけではない。むしろしらふすぎて、財布の中身まで国家予算に見えているだけだ。


白い入力欄が、妙に広かった。

六畳一間より広く見えた。


龍は親指で打ち込んだ。


――独立国家を作ります。

――国民募集。

――理念はこれから考えます。帰る場所がないやつ、とりあえず来てください。


投稿。


押した瞬間、自分で「あっ」と声が出た。

悪ふざけにしても雑すぎる。深夜テンションにしても大雑把だ。国って何だ。募集って何だ。町内会でももう少し準備する。

すぐ消そうかと思ったが、スマホが震えた。


一件。

二件。

五件。


最初は当然、笑う反応だった。

「建国おめ」

「税金いくらですか」

「国歌は?」

そのへんは想定内だった。インターネットには、しょうもない冗談をしょうもないまま受け取る技術がある。


だが、その次から様子が変わった。


「マジで帰る場所ないんだけど入れますか」

「夜だけでもいていい国なら欲しい」

「ルール少ないなら参加したいです」

「働いてなくても国民になれますか」

「配信とか通話とか、ただ開いてるだけでも助かる」

「冗談でも、こういうの言ってくれる人いないからちょっと救われた」


龍は画面を見たまま動けなくなった。

冗談のつもりだった文章の隙間に、知らない誰かの生活が入り込んでくる。笑いの記号で終わるはずだった場所に、寝不足の目とか、終電を逃した靴とか、家に帰りたくないままコンビニの前に立っている背中みたいなものが、次々にぶら下がってくる。


また通知が増えた。


「Discordある?」

「憲法は?」

「国民番号ほしい」

「本気ならサーバー作れる」

「変なルール増やさないなら行く」


変なルール増やさないなら行く、という一文に、龍は妙な寒気を覚えた。

まだ何も始めていない。サーバーもない。ルールもない。国ですらない。ただ、終わりかけた生活の床に座って、千七十八円の国家予算を前に、やけくそで投稿しただけだ。

それなのに、もう「増やさないでほしいルール」の話が出ている。


冗談が、制度のほうを向いている。


換気扇が、ぎい、と鳴った。

雨脚は少し強くなっていた。

六畳一間の部屋は相変わらず狭く、財布の中身は相変わらず寒く、宇治森龍の人生はべつに何ひとつ好転していなかった。なのにスマホの画面の中だけが、知らない土地みたいにじわじわ広がっていく。


龍は画面を見下ろしたまま、ひどく小さな声で言った。


「……やば」


悪ふざけのはずだった。

なのにその夜、たしかに何かが、始まりかけていた。

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