第八章:壬生狼(みぶろ)の牙、角家(すみや)の惨劇
京の春は、血の混じった雨で幕を開けた。
壬生の地に屯所を構えた僕たち「浪士組」は、いつしか京の住民から蔑みと畏怖を込めて、こう呼ばれるようになっていた。
「壬生狼」
それは、壬生に棲みつく野良犬、あるいは飢えた狼という意味だ。
その悪名の中心にいたのが、僕たちの組織のもう一人の首領、芹沢鴨だった。
彼の狂気が、島原で最も格式高い「角家」で爆発したあの一夜こそ、新選組が真に「修羅の道」へと踏み出した瞬間だった。
角家の静寂を切り裂く、鉄の扇
島原の最高級揚屋、角家。
本来、そこは洗練された芸術と遊びが許される聖域であり、荒々しい刀の気配などは最も忌まれる場所だ。しかし、芹沢鴨という男にとって、そんな格式は踏みにじるためのものでしかなかった。
「……何だ、この酒は。泥水でも飲ませるつもりか?」
芹沢の低く、地を這うような声が座敷に響いた瞬間、周囲の温度が数度下がった。
彼は手にした巨大な鉄扇を、漆塗りの膳に叩きつけた。
「……申し訳ございません。すぐに、別のお酒を……」
震える手で平伏する仲居の言葉が終わるより速く、芹沢の鉄扇が彼女の横顔をなぎ払った。
パシャッ!!
「あぐっ……!」
鈍い音と共に、仲居が畳の上を転がった。白粉の下から鮮血が噴き出し、美しい畳を汚していく。芹沢はそれを楽しむように眺めると、ついにその愛刀『平国広』を引き抜いた。
「この角家という店は、客を選ぶと聞いた。……ならば、俺がこの店を、俺にふさわしい『地獄』に作り変えてやろう」
狂乱の「お座敷遊び」
ここからの描写は、もはや「遊び」ではなかった。ただの破壊と蹂躬だ。
芹沢の合図で、彼の取り巻きである新見錦らが一斉に立ち上がった。
彼らは美しい障子を切り裂き、国宝級の掛け軸をズタズタに引き裂いた。
「やめて、やめてくださいまし……!」
怯える芸妓の髪を掴み、芹沢は力任せに引き寄せた。
芹沢が芸妓の腕を捻り上げると、脆い骨が軋む不吉な音が座敷に響く。
彼女の悲鳴が夜の島原に吸い込まれていく中、芹沢は狂ったように笑いながら、目の前の高価な金屏風に一刀を叩き込んだ。
「ははは! 見ろ、近藤! この黄金が、女の血で染まる様を! これこそが『誠』の彩りよ!」
返り血を浴び、返り血をすする。
芹沢が振り回す白刃は、逃げ惑う客や従業員を容赦なく傷つけ、角家の床は見る間に赤黒い海へと変わっていった。
折れた簪、破られた着物、そして生臭い鉄の匂い。
これが、京の人々を恐怖のどん底に突き落とした「壬生狼」の、最も醜悪な真実だった。
狼の牙を剥く時
「……芹沢さん。そこまでです」
闇の中から、僕は静かに姿を現した。
土方さんが定めた新選組の鉄則「局中法度」。その第一条は『士道に背くまじきこと』。
芹沢の行いは、もはや組織を崩壊させる癌であり、何より僕の誇りを踏みにじるものだった。
「……惣次郎か。ガキが、俺に説教するつもりか?」
芹沢が、血に濡れた刀を肩に担ぎ、獣のような瞳で僕を睨みつける。
その足元には、恐怖で失禁し、震えながら蹲る人々がいた。
「説教ではありません。……掃除、です」
僕は『加州清光』を抜き放った。
角家の惨状を映した刃は、いつになく鋭利な冷気を放っている。
この男を野放しにすれば、新選組はただの「狂犬の群れ」として歴史に消える。
近藤さんの「誠」を守るため、そしてこの地獄を終わらせるため、僕は初めて、明確な殺意を込めて一歩を踏み出した。
史実解説
角家の一件: 文久3年6月(諸説あり)、新選組の前身である浪士組の筆頭局長・芹沢鴨が、島原の「角家」で遊興中に暴れ、店を破壊し尽くした事件です。角家は現在も京都に「角家もてなしの文化美術館」として建物が残るほどの超一流店でした。そこでの狼藉は、新選組の評判を致命的に落とすこととなりました。
壬生狼:*この角家の一件や、大砲を使った「力士との乱闘事件」など、芹沢一派の傍若無人な振る舞いによって、新選組は「壬生狼(壬生の狼、あるいは野良犬)」という蔑称を定着させてしまいました。
近藤・土方の決意:角家での狼藉は、近藤勇や土方歳三にとって「芹沢を排除しなければ自分たちも共倒れになる」という確信を抱かせる決定打となりました。この事件の直後、彼らは会津藩から芹沢暗殺の密命を受けることになります。




