第二十六章:虎穴の幻影、目配(まなざ)しの写本
麗華から齎された「偽装壁の裏の黒い革ファイル」という断片。
だが、夜の世界の頂点に立つ王賀が、剥き出しの防犯金庫にそれを眠らせているはずがない。
単純に地下へ潜入して盗み出すなどという無策は、新選組の局中法度にも、現代の新宿の生存戦略にも反する。
「……まともに解錠すれば、その瞬間に王賀のスマホへ緊急アラートが飛ぶ仕様になっています。地下金庫そのものが、侵入者を捕らえる『鼠取り』なんです」
アポロンのバックヤード、インカムの向こうでハルの静かな声が響いた。彼は既に店の防犯システムの回路図を完璧にハッキングし、端末に同期させている。
「なら、僕たちが動く必要はない。……王賀自身の手に、そのファイルを執務室まで運ばせればいいだけの話だ」
僕は冷たく微笑み、懐から一本の精巧なレプリカの「鍵」を取り出した。
かつて京の都で長州の密偵を炙り出すために土方さんが仕掛けた、巧妙な『偽情報の罠』。それを現代の電子の戦場に応用するのだ。
【焦燥の罠、動き出す虎】
作戦は、麗華のたった一本の「偽りの通報」から始まった。
午前二時。アポロンの営業が終わり、王賀が最上階の執務室で一日の売上をチェックしているその刹那、彼のプライベートスマホに麗華からの緊迫したメッセージが届く。
『王賀、大変。さっき地下の更衣室の近くで、大牙の残党の男が、見たことのない電子解錠ツールを持ってウロウロしてた。金庫のエリアに向かったみたい……!』
―ガタッ。
執務室の床を蹴る音が、監視カメラの音声に拾われた。
どれほど思慮深く、冷徹な支配者であっても、己の「命の源泉」である裏帳簿の危機には、本能的な焦燥を隠せない。王賀は即座に席を立ち、エレベーターで地下へと急行した。
「ハル、防犯カメラの映像を5秒間だけループさせろ。王賀が金庫室に入る瞬間、彼の網膜認証と暗証番号の入力をこちらの端末に完全コピーする」
「了解。……シグナル捕捉。偽装壁の解除コード、今、奪取しました」
すべては王賀の計算通りの動きだった。
王賀は、誰も触れていない無傷の地下金庫を確認し、一度は安堵のため息を吐いたはずだ。しかし、尋常ならざる警戒心が、彼に次の行動を促す。
(大牙のゴミどもに目を付けられた以上、ここに置いておくのは危険か……。一度、上の執務室の隠し金庫へ移す)
防犯システムを過信せず、自分の手元(執務室)に現物を引き揚げる――その「強者ゆえの徹底した管理意識」こそが、僕たちの狙いだった。
【3分間の死線、音なき写本】
王賀が黒い革ファイルを小脇に抱え、最上階の執務室へと戻ってくる。
その移動の最中、ハルが仕掛けた第二の罠が発動した。
―プツン。
ビル全体のブレーカーが一瞬だけ落ち、非常用電源に切り替わるまでの「空白の3分間」。
エレベーターが階間に停止し、完全な暗黒が王賀を包み込む。
「チッ……、停電か!?」
王賀が暗闇の中でスマホのライトを点けたその瞬間、エレベーターの天井の点検口から、音もなく一本の影が舞い降りた。
沖田総司の「目にも留まらぬ踏み込み」。
「……ッ! 誰だ!?」
王賀が叫び、拳を突き出すよりも早く、僕の指先が彼の首筋の頸動脈を正確に圧迫していた。意識を失わない程度、しかし脳への血流を数秒間だけ遮断する、新選組流の気絶技。
王賀の巨体が、崩れるようにエレベーターの床に膝をつく。
制限時間は、あと2分。
僕は王賀の手から黒い革ファイルを抜き取るとスマホのカメラを起動した。
盗み出せば、王賀は即座に警察や半グレを動かし、歌舞伎町は血の海になる。現物はそのまま残し、彼は「何も盗まれていない」と思い込ませなければならない。
―カシャ、カシャ、カシャ。
暗視モードに切り替えたスマホのレンズが、高速でページの裏帳簿、買収済みの警察幹部のリスト、脱税ルートの口座番号を次々と電子の海へ定着させていく。
ページを捲る僕の指先は、全く震えない。かつて、刀のハバキの鳴る音さえ殺して敵の背後に忍び寄った、あの極限の静寂が僕の身体を満たしていた。
「レイさん、残り30秒! 電源が復旧します!」
インカムからハルの緊迫した声が飛ぶ。
最後の1ページを収め、ファイルを王賀の小脇に寸分狂わぬ角度で戻す。
僕は再び天井の点検口へと音もなく跳躍し、蓋を閉めた。
―ウィィィン。
不意に電力が復旧し、エレベーターが再び動き出す。
頭を振りながら意識を取り戻した王賀は、自分が一瞬だけ「停電の闇で目眩を起こした」のだと錯覚していた。小脇には、変わらず黒い革ファイルが挟まれている。
「……フン、驚かせやがって。老いぼれたか、俺も」
王賀は自嘲気味に呟き、何事もなかったかのように執務室へと歩いていった。自分が握っているファイルが、すでに中身をすべて抜かれた「中身のない抜け殻」になっているとも知らずに。
【静かなる宣戦布告】
翌朝。アポロンのVIPルームで、僕とハル、そして麗華は、スマホの画面に映し出された鮮明な「裏帳簿の写メ」を見つめていた。
「完璧だわ、レイ君。王賀は今も、自分の執務室でこのファイルを守っていると信じ込んでいる。まさか、自分の愛人と junior(新人)ホストに、中身をすべて複製されているなんて夢にも思っていないわね」
麗華が、僕の肩にそっと寄りかかりながら、素直な、心からの感嘆の笑みを漏らした。
「これで、王賀をいつでも社会的に圧殺できます。……どのタイミングで、この弾金を撃ち込みますか?」
ハルの瞳にも、確かな覚悟の光が宿っている。
「焦る必要はないよ。……王賀には、これまで通り『絶対的な支配者』として振る舞ってもらう。泳がせて、アポロンの売上と彼の持つ利権を、僕たちの『新選組』に十分吸い上げさせてからだ」
僕は冷たく笑い、スマホの画面を暗転させた。
現物が盗まれていない以上、王賀は防衛策を講じることもできない。彼は自分から進んで破滅への一本道を歩き続けるのだ。
徹底的な理不尽から始まった僕の逆襲劇。
王賀体制の崩壊という、不夜城の歴史の塗り替えは、もう僕たちの手のひらの上で、静かに秒読みを始めていた。
【史実解説】
現物を残す戦術(心理戦): 新選組は、敵の拠点を襲撃して書類を奪うだけでなく、あえて「気づかれていない」状態を維持して、敵の行動を泳がせる内偵調査(間諜活動)を重視していました。現物を残すことで、王賀に油断を与え続け、次の完璧な一撃(起訴や失脚)への布石とするプロットは、極めてリアルな戦略です。




