第十章:夕顔の情動、汚れなき聖域
芹沢鴨を暗殺したあの夜から、僕の喉の奥には消えない「鉄の味」がこびりついていた。
激しい雨に打たれ、仲間を屠り、女を手にかけた。
その報いのように、夜、布団の中で一人になると、胸の奥を掻きむしるような渇いた咳が漏れ始めた。
(……ああ。やっぱり、逃げられないんだな)
新宿の「レイ」として生きていた頃、結核なんて過去の病気だと思っていた。
けれど、この幕末の空気の中で「沖田総司」という肉体を選んだ瞬間から、この死の運命は僕の魂に深く刻まれていたのだ。
そんなある日のこと。土方さんに勧められ、咳を抑える薬を求めて訪れた壬生の小さな診療所で、僕は彼女と出会った。
【白い指先、一筋の光】
「……あの、お侍様。お顔が、とても青白いですよ?」
鈴を転がすような、清らかな声だった。
見上げると、そこには一人の少女が立っていた。診療所を営む医者の娘、お光。
白粉の匂いもしない、着飾った飾りもない。ただ、洗いざらした木綿の着物を纏っただけの、野に咲く百合のような佇まい。
新宿のホストクラブで、僕は数えきれないほどの美女を相手にしてきた。派手なドレス、計算された上目遣い、虚飾の笑顔。
けれど、目の前に立つお光の瞳には、打算も、欲望も、汚れも一切なかった。ただ、目の前で咳き込む僕という人間を、純粋に案じる慈愛だけが宿っていた。
「……いえ、ただの風邪です。心配いりません」
僕は、つい嘘をついた。
人斬りの手が、彼女の白い指先に触れるのが怖かった。僕の手は、数日前に女を殺し、怪物を解体した血にまみれている。その穢れが、彼女の清純さを一瞬で汚してしまうような気がした。
「いいえ。……さあ、こちらへ」
お光は、僕の冷え切った手を、そっと両手で包み込んだ。
驚くほど柔らかく、温かい。その体温が、血の匂いに麻痺していた僕の心を、ゆっくりと、けれど確実に溶かしていった。
【汚れた指先、震える柔肌】
それから、僕は事あるごとに診療所に足を運ぶようになった。
隊務の合間、殺伐とした屯所を抜け出し、お光の淹れてくれた茶を飲みながら、庭の夕顔を見つめる。
それが僕にとって、唯一「沖田総司」という呪縛から解き放たれ、一人の「男」に戻れる時間だった。
だが、ある夜。暗殺の興奮と返り血の昂ぶりが冷めやらぬまま、僕は吸い寄せられるように診療所の裏戸を叩いた。喉の奥からせり上がる、焼けるような咳。
「……総司さん? こんな夜更けに、どうされたのですか」
お光が、行灯を掲げて現れた。夜着の上に一枚羽織っただけの彼女は、行灯の揺れる光に照らされ、この世のものとは思えないほど白く、儚く見えた。
その無防備な清らかさが、僕の内に潜む人斬りの「毒」を、狂おしいほどに煽り立てる。
「……すまない。少し、胸が苦しくて」
僕は診療所の板間に崩れ落ちた。お光は慌てて駆け寄り、僕の体を支えた。その瞬間、彼女の髪から立ち昇る日向の匂いと、僕の羽織から漂う、消しきれない「死の匂い」が混じり合う。
「お顔が、酷く熱い……。今、お父様を」
「いや、呼ばないでくれ」
僕は彼女の細い手首を掴んだ。血管の拍動までが見えそうなほど清純な腕に、僕の指が食い込む。
「……私の手が、汚いとは思わないのか。お光さん」
僕は、彼女の手を自分の頬へ、そして熱く火照った首筋へと導いた。彼女の指先が僕の肌に触れた瞬間、僕は獣のような溜息を漏らした。
冷たく、清潔な彼女の体温が、僕の中に渦巻く血の渇きを鎮めると同時に、どうしようもない破壊衝動へと変質させていく。
【葛藤の果て、聖なる純愛】
お光は逃げなかった。それどころか、彼女は震える手で、僕の着物の襟元を緩めた。
露わになった僕の胸板。そこには、激しい戦いの証である古傷と、荒い呼吸に合わせて激しく上下する「死」の予兆が刻まれている。
「総司さんの苦しみを、私が……半分でも、引き受けられたらよいのに」
彼女の潤んだ瞳が、僕の視線を射抜く。
僕は耐えきれず、彼女の体を抱き寄せ、畳に押し倒した。
彼女の細い腰が、僕の膝の間で小さく跳ねる。
清純の極致にある彼女を、このまま僕の闇で塗り潰してしまいたい。
その白く滑らかな肌に、人斬りの印を刻み込みたいという、昏い独占欲が脳を焼く。
僕は彼女の首筋に顔を埋め、深く、その香りを吸い込んだ。
薄い衣の下に隠された、乙女の柔らかな曲線。僕の硬く、節くれだった指が、彼女の帯に触れる。
(……ダメだ。これ以上は、地獄へ連れて行ってしまう)
僕は彼女の唇を奪おうとして、寸前で止まった。
僕の吐息には、病魔と死が混じっている。この聖域を汚すことは、僕の魂に残された最後の「誠」を捨てることと同義だった。
「……お光さん。貴方は、陽の当たる場所で生きていくべき人だ」
僕は彼女を抱きしめたまま、声を殺して泣いた。
新宿のレイとして女を転がしていた頃には、想像もできなかったほど、激しく、純粋な痛み。
死を背負う人斬りと、生を慈しむ娘。
愛しているからこそ、抱けない。守りたいからこそ、離れなければならない。
「……ずっと、そばにおります。総司さん。心だけは、ここに置いていって」
僕は彼女の着物の合わせを整えると、額に静かに口づけを落とした。
返り血の匂いは、もうしない。そこにはただ、夕顔の香りと、二人の重なり合う鼓動だけが響いていた。
本物の恋とは、奪うことではなく、その人のために自分を殺すこと。
僕は一度も振り返らずに、夜の闇へと飛び出した。
【史実解説】
沖田総司と医者の娘:*沖田総司には、京都時代の主治医の娘と恋仲であったという伝説が残っています。名は「お光」や「お良」など諸説ありますが、新選組の厳しい規律や沖田の病状により、その恋は成就しなかったと言われています。
結核の発症:沖田がいつ頃から結核(当時は労咳と呼ばれた)を患っていたかは不明ですが、池田屋事件(1864年)で喀血したという説が有名です。本作では、芹沢暗殺後の精神的・肉体的な負荷が、彼の病を呼び寄せたという解釈をとっています。
夕顔: 夕方に花を咲かせ、翌朝には萎んでしまう花。その儚さから、和歌や文学では「薄命な美」の象徴としてよく用いられます。沖田の短くも鮮烈な生涯と、お光との淡い初恋を重ね合わせるモチーフです。




