3-4. 彼の本音(1)
何度かローウェルの研究室に呼び出されることもあったが、気付いたら彼と普段出会うことの多い通路を避けていた。
逃げているのだから当たり前だけれど、会えなくて寂しいと思う相反する気持ちと、どんな顔をして会えばわからない気持ちとがせめぎ合って、ますます気持ちは絡まるばかりだ。
日にちが過ぎればより会い難く話し辛くなるのはわかっていたが、心の整理がそう簡単にできるわけもない。
けれどそう言うときに限って、問題は増えていく。両親から婚約話を進めていくと書かれた手紙をもらったアシュリーはそれを読まなかったふりをして、チェストに仕舞った。
そして現実逃避に何をしたかと言えば、仕事に逃げたのだった。
──そう言えば、夏休みの宿題も後回しにするタイプだった……
嫌なことを後回しにして後で泣く性格は、昔から──それこそ前世から変わってはいなかった。
深いため息を吐きながら最後の本を本棚に戻し、空っぽになったカートを押しながら本棚の間を進んでいく。
そして、ふと視線を上げたときだった。
「……っ」
図書館の出入り口である硝子扉を潜る、騎士団服を着たひとりの青年。黒髪に、距離的に見えないが、深い紫色の瞳を持つその人を視界に捉えた瞬間、アシュリーの心臓がどくん、と大きく跳ねる。
反射的に踵を返そうとしたけれど、それよりもその人が──ヴィルヘルムがアシュリーを見つける方が先だった。
ヴィルヘルムは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに元の表情に戻る。それなのに視線を逸らしてはくれなくて、アシュリーも魅入られたように見つめてしまった。
足が縫い付けられたように動かない。
──いつも通りにしていれば、大丈夫。あの日館長と舞踏会に参加したのは、《アシュリー》じゃないんだから。
自分に言い聞かせて冷静を取り戻そうとする。
けれど、アシュリーの頭が冷静を取り戻すよりヴィルヘルムが足を進める方が先だった。
「……アシュリー嬢」
アシュリーの前には空っぽになった本を運ぶためのカートがある。それひとつ分を隔てたところに彼は止まり、小さな声でアシュリーの名前を呼んだ。
ここは図書館で、話をすることはあまり好意的に思われない。それ故の配慮だろう。
名前を呼ばれて、アシュリーの肩が動揺で揺れる。
それに気付いたのだろう。ヴィルヘルムは困ったような顔をした。
「その……いきなり、すまない。ローウェルは、こちらにいるだろうか」
「あ、……はい、おります。ごめんなさい、ご案内しますね……っ」
もしかしたら、先日話せなかったという話をしに来たのかと思ったのだが、ヴィルヘルムが用があったのはローウェルだったようだ。
──は、恥ずかし、い……!
自意識過剰が過ぎて、アシュリーは羞恥で頬を赤くした。
「こちらになります」
ローウェルのいる館長室へ行くには、受付カウンターを通らなければならない。そのため司書に声を掛けなければならないが、今受付を担当している司書は貸し出しの対応中で、そのため彼はアシュリーに声を掛けたのだろう。
受付カウンターから入り、バックルームを通る。そして表には並ぶことのない貴重な古書の保管庫を進むと、その先に館長室はある。
珍しく研究室ではなく図書館にいる上司は保管庫から貴重な資料を引っ張り出してきて、館長室で研究書と睨めっこの最中だ。
まだ外に持ち出さないだけマシなのだろうが、出張で留守にしている古書をこよなく愛する副館長の耳に入らないことだけをアシュリーは祈っている。
「あれから、残業にはなってないか」
無心を保つために必死に違うことを考えていたのだが、隣から掛けられた声が彼女を現実へと戻した。
いつもならば後ろにいるはずのヴィルヘルムはどうしてか今日は隣を歩いていて、距離感の近さに、どうしても緊張してしまう。
「だっ大丈夫です! 館長が色々と気を回してくれて、今はもう定時で帰ることができています」
噛まないだけまだ良かったのだろうが、声が上ずってしまった。
ふ、と僅かに笑い声がする。視線を上げると、ヴィルヘルムが頬を緩めていた。
それはけして馬鹿にしたようなものではなく、どこか優しげで甘さのようなものが滲む笑みだった。
とくり、とアシュリーの心臓が高鳴る。
「そうか、それは良かった」
「な、何かとヴィ……ライ、ンフェルト副団長にもお気遣い頂いて、ありがとうございましたっ」
「いや……俺は何もできなかったから、ローウェルが少し、羨ましい」
静かな廊下にふたり分の足音と、話し声が響く。
アシュリーはどんな返しをすればいいかわからずに、それきり会話は途切れてしまった。
けれど、もうすぐ館長室──というところで、沈黙に終止符を打ったのはヴィルヘルムだった。
「アシュリー嬢、聞きたいことがあるのだ、が」
どこか力んだ、緊張したような声で切り出される。足を止めたヴィルヘルムに合わせて、アシュリーの足も自然と止まった。
予想以上に近い距離で目が合って、それから少しの静寂のあと、ヴィルヘルムは口を開く。
「……あなただったら、どのような形で想いを告げられるのが一番、嬉しいだろうか」
「え……?」
「いやその、俺の話ではなく、知り合いの話で……好きな女性がいるが、その人にどう気持ちを伝えて良いかわからない、と相談されて、だな」
言葉を選びながら、ヴィルヘルムは言葉を紡ぐ。
今までに彼と世間話のような話をしたことは多かったが、恋愛相談をされたことはなく、アシュリーは少し固まってしまった。
「このようなことを突然尋ねて、すまない」
困ったように言うヴィルヘルムのその言葉に、アシュリーは我に返った。
首を横に振って、慌てて返事をする。
「い、いえ、わたしで、参考になればいいんですが」
「なる。あなたの答えが、俺は聞きたい」
間もなく言葉を返され、真っ直ぐに見つめながら言われてしまい、思わず胸が高鳴った。
距離も近くて、今日は落ち着かない。
そわそわとしながらアシュリーは頬にかかった髪を耳にかけた。
「気持ちの伝え方の好みは人それぞれなので、あくまで一例だと思って……いただけたら、なんですが」
結婚はしないと決めているけれど、アシュリーはけして、恋愛に興味がないわけではない。
勧められた恋愛小説にも、ヒロインに告白をするヒーローの姿があって、憧れたものもあった。
けれどその中で、もし好きな人に──ヴィルヘルムに言われて嬉しい言葉は何かと考えたとき、答えはひとつしかなかった。
「わたしだったら、何も飾らない、ストレートな言葉で言われるのが一番嬉しいです」
言いながら恥ずかしくなって、アシュリーは照れ笑いを浮かべる。
ヴィルヘルムはその答えに驚いたような顔をしたけれど、一瞬眩いものを見たように目を細めると、
「……そうか」
と、頷いた。
合わせて優しい眼差しでじっと見つめられて、アシュリーは羞恥心に負け、そっと視線を逸らしてしまう。
「で、でも多分わたしの好みは、あまり参考にはならないと思います。大多数の女の人は、詩的な……情熱的な言葉で告白されるのが好きみたいなので……」
「いや、十分参考になった。……俺でも叶えられそうで、安心している」
恐らく安堵して、気が緩んだのだろう。
その呟きを何でもないように聞き流すことはできなかった。
──俺でも、と、ヴィルヘルムは言った。
聞き流すことができれば良かった。気付かなければ良かった。もしかしたら、と浮かんできた考えは、もう消えてはくれない。
この話の流れで、文脈で、気付かないことは、できなかった。
彼がアシュリーに尋ねてきた相談は、彼の友人ではなく、彼自身の話なのだと。
考えてみれば、今までに話したことのない内容を振られた時点で、予想を立てることはできたはずだ。
それに婚約者がいるのならばともかく、恋人もいないアシュリーに振る話題ではない。それが知り合いの話だと言うのならば尚更だ。
恐らく、想いを寄せている女性以外に身近にいた異性が、アシュリーだけだったのだろう。だから彼は、アシュリーに相談してきたのだ。
──もしかして、ローウェルが言っていたヴィルヘルムの話とは、このことなのだろうか。確かに気持ちを吹っ切ることができると考えれば悪い話ではないけれど、いい話でもない。
突き付けられた事実に膝から崩れ落ちそうになる。
同時に、そんな人がいたならどうして誘いに乗ったのかと疑問が浮かんだ。忘れようと努力して、忘れきれなかった先日の夜の記憶が蘇る。
けれど、それをぶつけることはできない。
あの夜ヴィルヘルムを誘って彼に抱かれた女性は、《アシュリー》ではないのだ。
「お相手の方は、どう思われているんですか、ラインフェルト副団長……のお知り合いの方のこと」
気付けば、アシュリーは問い掛けていた。




