プロローグ
潤んだ瞳に浮かぶ雫が、僅かに色づいた頬をゆっくりと滑り落ちる。
ふとやった視線の先に映った彼女の泣き顔に、ヴィルヘルムは思わず目を奪われた。
瞬く間に心臓が激しく音を立てる。顔が、体が、熱くなっていく感覚は、体を動かしたときに感じる火照りとも剣を交えたときの高揚感とも違った。
よく見ればベンチに腰を下ろす彼女の手元には本が広がっており、恐らくその内容で涙ぐんだのだということがわかる。
ヴィルヘルムは、今まで女性の泣き顔など煩わしいとしか思っていなかった。涙は女の武器とも言うし、それに騙される男の姿も何度も目にしている。
だが、涙を零す彼女の表情は、ヴィルヘルムのそんな意識を変えるぐらいの衝撃だった。
失礼だと思うが、彼女はけして絶世の美女と言うわけではない。城中で働く女性の中には、彼女よりも美しい女性はいくらでもいるだろう。けれどこんな気持ちを抱いたのは、彼女にだけだった。
心臓が大きく跳ねて、痛いくらいに胸が締め付けられる。今すぐ駆け寄ってその涙を掬い取り、理由によっては彼女を慰めてあげたかった。
もしも接点があって、そのときに同じ気持ちを抱いていたのなら、ヴィルヘルムは近付いていって、間違いなくその涙を拭っただろう。しかし今のヴィルヘルムと彼女に接点はない。
そうこうしているうちに彼女ははっと我に返り、涙を拭ってヴィルヘルムの前から立ち去ってしまった。彼女の姿が見えなくなってからも、ヴィルヘルムの脳裏にはその泣き顔が焼き付いて離れない。
彼女にもう一度会いたい。ヒントは限られているけれど、城内にいるのであれば、必ず探し出せるはずだ。
そう考えたヴィルヘルムだったが、再会は予想以上に早く訪れた。
衝撃的な出会いの翌日のこと。変人と言われている昔馴染みのローウェル・カルヴァートに用があり、彼の研究室を訪ねると、そこにいたのは昨日の彼女だった。
昨日とはうって変わり、呆れたような顔をして、僅かに表情を顰めて、そして笑って──コロコロと表情が変わる姿に心臓が大きく音を立てた。
《あ、そうそう、紹介しておくね。この子アシュリーちゃんって言って、図書館の方の、ボクの部下》
《アシュリー・マクブライドと、申します》
彼女の瞳が、真っ直ぐにヴィルヘルムに向けられる。戸惑いがちに頬を染め、僅かな笑みを浮かべて見つめてくる彼女に、不快感は感じない。それどころか、動悸がして息が苦しくなる。
──ヴィルヘルムはこの瞬間に、自身がアシュリーの泣き顔に一目惚れをして、そして今、再び恋に落ちたのだと言うことに気付いた。
だが、例え彼女を愛しいと思っていても、貴族の結婚は政略結婚が主だ。それは跡継ぎではないとは言え、貴族の家に生まれたヴィルヘルムも例外ではない。
にも関わらず、少しでも接点を作ろうと立ち回っている自分がいた。
そして彼女の色々な顔を知っていくうちに、想いはどんどん増えていく。
けれど、想いを殺しながら過ごしていたある日のこと。ヴィルヘルムは彼女の元に、断れない程度の爵位の相手──それも酷く女癖の悪い──から後妻へ迎えたいという話が出ていると小耳に挟んだ。
思わず真偽を確かめるため、偶然を装い、件の男と距離を詰める。そしてその話をしたとき、男が発した台詞を聞いて湧き上がったのは殺意だった。
この結婚が為されてしまえば、彼女は不幸になってしまう。握り締めた手のひらに、爪が食い込む。
だから彼女を不幸にしないために、どうすればいいのか。
──自分が、彼女に結婚を申し出ればいい。
彼らしくない、短絡的な考えだった。同時に、それが彼女と一緒にいたいがための言い訳であることには、気付いていた。だが、彼女を後妻にしようとする男から「少し味の違う女を摘み食いしてみたくなった」と舌なめずりをしながら言われ、彼女への下品な妄想を聞かされれば、言い訳でもいいと、ヴィルヘルムは覚悟を決めた。
幸いなことにヴィルヘルムは家を出る身ではあるが、騎士団に勤めているし身分の保障はある。その上悪い噂はない。もしものときはローウェルに頭を下げる覚悟で、ヴィルヘルムはマクブライド家にアシュリーとの求婚の話を申し出た。
自身を選んで貰いたいと、彼女にとっての良い条件を付け加えて。
なのに、彼女はヴィルヘルムの思考の上を行くのが得意らしい。
『──今日が終われば、すべて忘れます。ですからどうか、わたしを今夜だけ……あなたの恋人にして、ください』
別人に成りすましたアシュリーが、普段の彼女であれば恐らくは口にすることがないだろう言葉を囁く。
いつもの彼女と違う金色の髪が、月の光を浴びて輝いている。
『あなたをずっと、お慕いしておりました』
ただでさえ、無意識な彼女の殺し文句の所為で理性がゆらゆらと揺れていた。
そこに彼女からの告白が追い打ちを掛ける。
──諦めを映した、切なげな笑みとともに。
その笑みを見た瞬間、ヴィルヘルムは決めた。彼女の姿を抱え上げ、顔を上げないようにと指示をする。大広間で大勢に見られているが、これ以上彼女の可愛い顔を──特に男には──見られたくなかった。
休憩や体調の悪くなった者を介抱するために設けられた部屋は二部屋が続き部屋になっている。その奥の部屋には休むためのベッドがあり、ヴィルヘルムはそっと、アシュリーをそこへ降ろした。
『シェリー』
──アシュリー
本名を呼びたいのを我慢して、偽りの名前を呼びかける。
『逃げたければ、今ここでこの手を振り払って欲しい。これ以上進めば俺はきっと、あなたを二度と離せない』
それは、最後の確認だった。
けれどもし手を振り払われても、逃がすつもりなど更々なかった。
だがアシュリーが我に返り、逃げ出そうとすることはなく。
彼女はヴィルヘルムの問いに、首をそっと横に振った。
『離さないで。……わたしもヴィルヘルム様の、お側にいたいから』
その台詞が、決定打だった。
──その言葉を、今夜だけのものになどさせない
柔らかいくちびるを堪能するように繰り返し重ねながら、ヴィルヘルムは心の中でそう呟いた。