お別れフラグですか?
紬は思わず気配を殺して、よくないことだとわかっていても盗み聞きの姿勢に入った。先ほどからドキドキと心臓は騒がしい。
マオはよく通るテノールの美声で、とつとつと事情を打ち明ける。
「前々からよお、余の平和主義なやり方に反発を覚えた雑魚どもが、ちょくちょく王位を狙って立てついてきていたことは、ジンジンもよく知ってんだろう?」
「うむ。だがマオマオはそんな輩は一匹ずつ丁寧に、やさしく血祭りにあげていたであろう? これといって問題にすらなっていなかったはずだが」
「ああ、やさしく血祭りにあげていたのは確かだぜ」
やさしく血祭りってなんだ。
ツッコミが喉元まで出かかったが、紬はギリギリでぐっと堪えた。いまはシリアスなムードなのだ。貴重なこのムードを壊してはいけない。
「だがこのところ、ソイツ等の中でもちょいと厄介な奴が台頭を現してな。掴んだ情報によると、烏合の衆をまとめて徒党を組み、近々余のもとに攻め込む腹積もりらしい。まあ……いくら雑魚が集まろうと雑魚は雑魚だが、さすがに面倒な事態にはなるだろうぜ。そこで、だ」
「……ソヤツ等を一掃するのに、我に協力してほしいということか」
その通りと、マオが寒空にシニカルな笑いを滲ませる。
「余がその実力を認めて、信頼する者は数えるほどもいねえ。一番はジンジン。あとはタワシの次くらいに宰相だな」
それはタワシの順位が高いのか宰相が低いのか。
紬は魔界にいるだろう悪魔宰相に同情を禁じ得ない。絶対に似非平和主義バイオレンス魔王の横暴に一番振り回されている立場だ。
一方でジンの方は、マオの頼みに迷っているような空気が伝わってくる。
「マオマオの信頼は有難いが……」
「もうほとんど魔界に帰れるだけの魔力は回復しているだろう? 多少の足りない分は、余と共に帰還するのであれば余が補える。そこは心配しなくていいぜ」
「だ、だが」
「なんだ、他に不都合があるのか? 余と同じでジンジンも平和を愛する者だからな。争いはもう御免ってか? そっちも安心しろよ、余もこれ以上無益な争いを続ける気はねぇんだ。此度で殲滅してみせるぜ。いい加減片をつけてのんびりしてえしな」
「いや、我とてマオマオのために力を貸すことは吝かではないのだ。争いは好まぬが、時に必要なことは理解している。我は友のためなら一肌でも二肌でも脱ぐぞ」
「さすがジンジンだ」
「だがな……」
「ああ、わかるぜ。センセイのことだろう」
ビクッと、いきなり自分のことを引き合いに出されて、紬の肩が盛大に跳ねる。その動揺はカーテンにまで振動した。
「ジンジンはずいぶんと、センセイとの絆ってやつか? 築いちゃったみたいだからな。余から見てもふたりはベストパートナーだ。離れがたいんだろうよ。……だがな、ジンジン。所詮は人間と魔人。はなから違う生き物なんだ。あんまり情を持ちすぎるとその違いが辛くなるぞ」
マオの声はお茶らけ一切なしでどこまでも真剣だ。
本当に友であるジンを心配しているのであろう。
――ジンさんとお別れする?
そのことを心の中でしっかり言葉にしてみると、紬は改めてショックを受けた。
ジンはもとよりイレギュラーすぎるふざけた存在だし、いつかは魔界に帰ることくらい紬はわかっていたはずだ。常日頃からだって「ちゃんと魔界に帰るための魔力は溜めてください、魔力の無駄遣いダメ絶対!」と口にだってしていた。
だがどうやら、ジンはとっくに帰還用の魔力くらいは回復していたらしい。
そしてそれを使って明日、彼はマオと帰ってしまう……。
それが普通だ。来るべき時が来たのだ。
わかっていた、わかっていたはずなのに。
真っ先に紬の胸中を埋めたのは、『寂しい』という感情だった。次いで強く願うのは、『どこにもいかないで欲しい』と。
「マオマオよ、我は……」
「っ!」
ジンの言わんとする台詞を聞いていられなくて、紬は辛うじて音だけは立てずにベッドの中へともぐった。布団を頭から被って、ぎゅっと耳を塞ぐ。
まだ出会って間もない頃、ジンとした何気ない会話が蘇る。
『ぶっちゃけジンさんって、ほぼ事故みたいな形で人間界に留まることになってますが、魔界には帰りたいって思ってるんですか?』
『む……そうだな。すでに初日から人間界生活がウルトラハッピー楽し過ぎて、いまのところ帰宅願望は低いのだが』
『おい』
『それでも、魔界は魔界で我の生まれ故郷だ。親友の魔王もいるし、帰りたい場所ではあるな』
『そういうものですか』
『うむ。まあ当分はこちらで厄介になる予定だがな! 神アニメの二期も始まるし、声優さんの握手会にも行けておらん。なにより我は恋ギガの最終回を見るまで帰らぬぞ!』
『それいつになるか作者もわからないやつ!』
ああ、そうだ。
確かそんな話をした。
帰るつもりはあるって。魔界が『帰る場所』だって。
だからって、明日いなくなるなんて急過ぎる。
「まだ最終回してないんですけど……」
ダンゴ虫のように丸まったまま、喉から滑り落ちた紬の極々小さな呟きは、皺くちゃのシーツの海に溶けて消えた。
一周回って、打ち切り宣告をされた漫画家のような気持ち……という例えは、あまりにも笑えない。
こんなに朝が来てほしくない夜は初めてだ。
それでも布団に入ってしまえば、眠気というものはあっさり襲ってきてしまう。
「ツムギは……よく寝ておるな」
「そうか? 案外タヌキ寝入りかもしれないぜ」
遠くでジンとマオの声が聞こえる。いい加減、ベランダから戻ってきたようだ。
口振りからしてマオは紬の盗み聞きに気付いていたようだが、意識に限界が来て、紬はゆるゆると眠りについてしまった。
朝なんて、来なくていいのに。





