ジンさんは包容力がある?
ハグとは?
抱きしめること。または抱擁とも言う。
英語で書くと『hug』。
脳内に駆け巡ったのはなぜか国語辞典のハグ解説だった。
「い、嫌ですよ! なんで私がジンさんにぎゅってされなくちゃいけないんですか!」
「なんでとはなんでだ。別になんでもよかろう、ちょっと抱き締めるだけだぞ?」
「『ちょっと』ってなに!? いきなり異文化コミュニケーション止めてください! 闇属性のヲタクはそういう不意打ちに死ぬほど弱いんです! 大体いきなりおかしいでしょ、セクハラかこの野郎!? そっちがその気なら法的な手段を取りますから! 腕利きの弁護士をひとりお願いします!」
紬はMAX混乱中である。
体温は上昇しきって足の先から溶け出しそうだし、意味もなく両手を顔の前でバタつかせて拒絶の意を示しているし、顔どころか全身がいまや赤い。
ついでに思考も喋っていることも支離滅裂で、『民事訴訟』って言いにくいよね噛みそうだよねとか関係ないことばかり考えている。
ジンと不本意な同居をはじめてそこそこ経つというのに、こういったことへの免疫は驚くほど紬にはなかった。
さすがのジンも、「むむむ」と躊躇いを見せる。
「そ、そこまで嫌なのか? ただ我はいま、ツムギを甘やかしてやりたい気分なだけなのだが……」
「う」
尻尾を萎れさせ、子犬のようにしょんぼりするジンはあざといと紬は思う。彼女はジンのこのモードにはめっぽう弱かった。
スーハーと無理やり深呼吸をして、紬はひとまず逸る心臓を落ち着ける。
……ジンにやましい他意などこれっぽちもないことは、紬もちゃんとわかっている。
おそらく彼のこの行動は、ジンなりに紬の過去を聞いて、ただただ寄り添いを見せようとしているのだ。
気を遣ってほしいわけじゃないって言ったのに……と内心でブツブツ文句を呟きながらも、紬はそろそろと床を這ってジンに近付いた。
傍から見れば、警戒心バリバリの猫が初対面の人間におそるおそるアタックしようとする有様だ。紬は猫ではないし、ジンは人間ではなく魔人だが。
「……ああ、もう!」
本日のジンの恰好は、露出度の高いコスチュームを纏った魔法少女、つまりアニメキャラの描かれたプリントTシャツだ。そのキャラに向かって叫んだかと思えば、紬は意を決してポスンとジンの胸元に体を預けた。
間近でプラチナブロンドの髪が揺れる。
鼻孔を満たす柑橘系の匂いが、我が家の安物シャンプーの香りなのがなんとも言えなかった。
「よーし、よしよしだぞ、ツムギ」
「あやすな……くそう」
やんわりと大きな片手で小柄な体を抱き込んで、もう片手でジンは紬の頭をやさしく撫でる。子供をあやすようなその仕草を、悪態をつきながらも紬は甘受する。
「過去のことは辛かったな、よくがんばって立ち直ったぞ。人間は我々より寿命が短いからか、儚いはずの人生にいろいろなものを詰め込んで生きておるな。その中でツムギが曲がらず、漫画という手段でやり直せたことは、我にとっても僥倖であった。感謝するぞ」
「言い回しが大袈裟……。なんでジンさんが感謝なんてするんですか」
「出会ったときに言ったはずだが? 我は魔界では長らく孤独で、退屈な日々に飽いていたと。ツムギの漫画が我に『楽しさ』を思い出させたのだ。作者である貴様に感謝するのは当然のこと。なにより……」
こうしてツムギに会えたからな!
そう、ジンは屈託なく微笑んだ。
紬はもうなにがなんだかどうしていいかわからなくて、内側からじわじわ込み上げるむず痒い感情に堪えきれず、無様に呻いてジンの胸に顔を埋める。
下手をしたら泣きそうだった。
Tシャツのアニメキャラと目が合う。
無駄にでかい目玉しやがって。顔の半分が目玉じゃないか。今度定規で図ってやろう。
もちろん、現実逃避である。
「ジンさんのばーか……なんでこんなときだけ、まともなことばっか言うんですか。ばか、ぼけ、おたんこなす、爬虫類」
「こ、この尻尾は爬虫類のものではないぞ!」
「最初は竜の尾みたいだなって思っていたんですけど、最近はカメレオンの尻尾に近いなって思い直していたんです。今度から認識を改めます」
「改めるな! 我はカメレオンではない!」
「うるさい、カメレオン魔人」
もう一度「ばーか」と呟いて、紬はぐりぐりと額をこすりつける。ジンが「くすぐったいぞ!」と紫の瞳を細めて笑って、なんだこのバカップルみたいなやり取り……と紬の脳が一瞬だけ冷静になってツッコミを入れた。
だけど存外、こうしてくっつくのは気持ちが落ち着いて悪くなく、いろいろと諦めて紬はしばらくこのままでいることにした。
「あー……なんか眠くなってきました。貴一に精神力を吸いとられたせいかな。私は一眠りするので、ジンさんはベッド役に徹していてください」
「承知した。ゆりかごだな」
「赤ちゃんじゃん……普通にベッドでいいですから」
「子守唄でも歌うか? 温かいミルクでも飲むか?」
「赤ちゃんじゃん……」
むしろジンはベッドやゆりかごというより、人をダメにするソファといった感じだ。
紬は本格的に訪れた微睡みの中で、信じていた先輩から手酷く裏切られたときのことを思い返す。
大袈裟かもしれないが、あのときは本気で家族以外の誰も信じられないし、信じたくないと悲嘆に暮れていた。そして引きこもった部屋の片隅で、いつか家族も離れてひとりぼっちになるかもしれないと、後ろ向きに後ろ向きに考えて怯えていたのだ。
……いまとなっては、過ぎたことだけれど。
「ジンさん……ジンさんは私を裏切らないで……離れていかないでくださいね……」
ほとんど意識がない中で口をついた懇願は、それこそぐずる赤子のような響きを伴っていた。
そんな紬の頭をまた撫でながら、ジンがなにかを呟いたのだが、生憎と紬の耳には届かなかった。
お兄さん編はここで終わり、次回は関話です!
壬生兄妹の昔話。





