閑話 壬生兄妹の昔の話
貴一の妹である紬は引きこもりだ。
中学の途中から、それまでは普通に通っていた学校に、訳あって通えなくなった。
おっとりした両親は「しばらく様子を見ましょうか」などと悠長に構えているが、貴一は学校に復学するうんぬんは抜きにしても、妹にはなにか前向きになれるきっかけが必要だと考えていた。
そうして、その『前向きになれそうなもの』を持って、今は自宅の固く閉ざされた紬の部屋の前にいる。
「おーい、紬! 開けろー!」
「……」
「お兄さまだぞー! 開けろって!」
「……」
「紬ちゃーん? 紬さーん? つむつむー?」
「……」
「開けないとお前の黒歴史をご近所中に言いふらす!」
「あーもう! うるさい!」
耐えかねた紬が、バンッとついに天岩戸から出てきた。
頭からすっぽりタオルケットを被った、お化けみたいな格好だ。
貴一は整った顔に爽やかな笑みを乗せて、「さっさと開ければいいんだよ、邪魔するぞー」と威嚇してくる妹を押し退けて中に入る。その両手には大めな段ボールが抱えられていた。
これといって特徴の少ない紬の部屋の真ん中に、ドンッとその段ボールを置く。
「なによ、それ」
「んー? これは漫画だよ、漫画」
「漫画?」
タオルケットの中から、紬は段ボールの中身にいぶかしげな視線を送る。
彼女はヲタクに偏見があるわけではないが、漫画やアニメなどにはあまり触れたことのない非ヲタだ。
兄がそういったものを好むことは知っていたが、なにが面白いのかは知らない。
「部屋の中に引きこもって、繰り返し同じ純文学の小説読んだり、ネットニュース見たりしているだけなんて暇だろう? 俺のマイコレクションを貸してやるから、騙されたと思って読んでみろって」
「ふーん……」
紬は一冊手にとって見てみる。
セーラー服姿の女の子がパンチラしている表紙は、知識のあるものなら「学園物の萌え系か……」と判断できるところ、知識不足の紬は「へえ、可愛い絵だな」くらいしか思わなかった。
「それな、ちょっとエッチな学園ハーレムラブコメなんだけど、全巻そろってるから」
「はーれむ……? らぶこめ……?」
「他にもファンタジー系やミステリー要素のあるもの、異世界転生ものもあるぞ。異世界転生と一言で言ってもいろいろあるけどな。でもそのハーレムラブコメが俺的には一番オススメかな」
矢継ぎ早に喋る貴一に、紬はポカンと佇んで置いていかれていたが、手にした漫画は多少は気になった。
ボソボソと「じゃあ、試しに読んでみようかな……」とこぼしたのが運の尽きだ。
貴一はこのとき、作戦の第一段階が終了したと、内心でにんまりチェシャ猫のようにほくそ笑んでいた。
――それから貴一の思惑通り、紬は面白いくらいに『漫画』という媒体にハマってくれた。
初めて漫画を貴一が届けてから、二週間ほどたったある日。
貴一は堂々と紬の部屋に居座って、自身は課金ありのソシャゲをしていたのだが、そこに紬が漫画本を片手におずおずと尋ねてきた。
「ね、ねえ、貴一。この漫画って続きないの?」
「あー、それか。それの単行本はまだまだ先だな」
「ウソ!? どうしよう、主人公がどうなるのかめちゃめちゃ気になるのに……」
「雑誌ならもっと早く読めるぞ」
「雑誌って漫画雑誌?」
「おう」
ここで作戦の第二段階が発動し、貴一はあらかじめ用意しておいた漫画雑誌を紬に手渡した。
そこには、新人漫画家を発掘する、いわゆる『新人賞』の応募ページが載っており、貴一は紬に見せるためにわざわざページに付箋を貼っていた。
案の定、目に留めた紬は「そっか、漫画って自分でも書けるんだ……」なんて目から鱗みたいな顔をしている。
貴一の目がギラリと光った。
「いっそさ、お前も漫画を描いてみたらどうだ?」
「え……私が?」
「ああ。お前はもともと絵を描くこと好きだろう? 試しに描いてみればいいじゃん」
『絵を描くこと』は、いまや紬にとって一種のトラウマだ。
信じていた人から、手酷く裏切られた苦い経験と直結する。
だけど貴一が、あまりにも「気軽にやってみればいいんだよ」と適当な感じで言うから、すでに漫画というものに魅了されきっていた紬は、心の天秤が傾いた。
……貴一に唆される形で初めて描いた漫画は、まあそれは酷いもので、編集気取りの貴一にボロカスにダメ出しされたが。
紬は「じゃあもっと面白いもの書いてやるよ!」と兄への反骨精神で向き合い、貴一のアドバイスや要望も山ほど取り入れて『恋はギガンティック!』なる作品を完成させた。
ついに、鬼編集な貴一にOKをもらって、もったいないからと応募したら、まさかの漫画家デビュー。
読みきり版だった『恋ギガ』は見事に連載化して、貴一が考えた死にたくなるペンネームも世に出回ることとなったのだ。
「――それで自信もついて、脱引きこもりも成功したんだから、全部お兄ちゃんのおかげだよな」
ジンと別れて、紬の家から出た貴一は、歩道を歩きながらそんな独り言を落とした。
脳内に浮かべていたのは昔のことだ。
それから、現在の妹の顔と、妹のアシスタントだというイケメンくんの顔を思い出して、「ははっ」と小さく笑う。
「いつの間にか、いい相棒もできたみたいだし」
もう心配いらねえなと、妹の知らぬところで過保護な兄は呟いて、アスファルトを真っ直ぐ歩んで行った。
次で最終章です!
最後までよろしくお願いします(書籍化情報もまたお届け致します)





