095:巡る想いと、爆発する誤解と
クラウド・プロテアは、その死んだ魚のように濁った翡翠の瞳を眇めた。
自前のくすんだ色の金の髪は前髪が少し伸びてきているのか、目に被っていささか鬱陶しい。
そんな前髪を弾きながら、クラウドはある一点を見る。
クラウドがカイム・アウルーラに来た目的は、自分を楽しませることができる女に会う為だ。
決して、こんなところから、気配を隠しつつ彼女を眺めるために来たわけではない。
元々クラウドは興味のあること以外への興味が希薄な人間だ。
基本的には、いかに怪しい男がいようとも、自分に関わらないのであれば、無視してしまうような人間である。
時には自分に関係あっても無視することがあるレベルで、興味外の事柄への反応は薄い。
そんな彼が、とある物陰に隠れている女の様子を窺っている。
その女の動きがとにかく怪しい。
物陰に隠れて、何かを探っているようだが、その動きは完全な素人だ。
事件捜査をしている兵士や綿毛人、あるいは他国からの間諜などの類ではないだろう。
そうであれば、あそこまであからさまな動きはしないハズである。
本来の彼であれば、完全に捨て置くような人物だ。
だが、クラウドが彼女を見ているのはほかでもない。彼女の視線の先にいる人物こそが、最近のクラウドの興味の対象だったのだ。
自分を楽しませることできる女――ユズ。
本当はもっと長い名前だったはずだが、クラウドは人の名前を覚えるのが苦手なので、そんな愛称だけしか覚えていない。
フルネームをちゃんと覚えれば、本気の手合わせをしてくれる約束をしているので、近いうちにちゃんと覚えるつもりではある。
さておき――自分を楽しませてくれる女のあとを付けているあの女は何なのだろうかと、考える。
オレンジ色の髪を帽子の中に入れて目深にかぶっている。
着ている服は、長袖のベストのようなものにキュロット。全体的に茶色でまとめている感じだ。
元々小柄なのもあるのだろうが、その肉付きの薄いシルエットもあいまって、少年のようにも見える。
右手には目を見開き血走った眼をした微妙に可愛くない魚のマスコットのついたペンペンを持ち、左手にはメモ帳を持っていた。
(……素人にしちゃ悪くないと言えなくもない尾行だが……)
クラウドは考える。
こんな素人尾行に、自分を楽しませることのできる女が気づかないわけがない。
彼女は見た目からは想像できないほどの腕が立つ女だ。
自分を楽しませることができるほどの腕前の武人であれば、例え気配察知が苦手であったとしても、あの程度に気づかないわけがない。
ならば――と、クラウドは考える。
(オレを楽しませるコトができる女には気づけない特殊な気配隠しの能力を持ってる可能性があるか)
ある種の極論ではあるが、尾行の極地としては尾行対象に絶対に気づかれなければいいのだ。
それだけの能力を得ている女であれば、自分を楽しませることのできる女も気づかない可能性がある。
ゆえに、クラウドから見ると隙だらけに見えるが、自分を楽しませることができる女は気づくことができていないのではないか。
(なるほど。そう考えると辻褄もあうか)
胸中で自分の推察に納得する。
決して頭が良いとは言えないクラウドであるが、普段の彼であればこんな推察に納得したりはしない程度の理性は存在していたはずだ。
だが、今のクラウドの中で、自分を楽しませることのできる女の占める割合がかなり大きくなっている。
そして、クラウドの仕事の同僚であるサニィとそっくりの顔をしている、自分を楽しませることのできる女の仲間は腕利きだ。その弟子だという小娘も将来有望に見えた。
つまり、自分を楽しませることのできる女と関わる奴は、自分を楽しませることができるかどうかはともかくとして有能であるはずなのだ。
だからこそ、あの素人尾行もまた、何かしら有能な女なのではないかと考えてしまう。
この場に仕事仲間のサニィやレインがいたらならば「いや、ねぇよ」とツッコミを入れていたかもしれない推察だが、二人がいないのだから仕方がない。
こうして、彼は自分の推察を信じて動きはじめるのだった。
クラウドがユズリハを尾行する女を見つけた時間より、少しだけ遡る――
紙が高価ではないこの世界において、新聞や本というのは平民であれ貴族であれ、情報ソースであり娯楽品だ。
情報を売る出版社があるということは、情報を集める者がいるということだ。
基本的には各国の王都などに居を構え、取材の為に世界を巡る者というのは少なからずいる。大半はその国どころか街の中で取材に走っているのだが。
そして、カイム・アウルーラにも出版社はある。
彼女――ネア・ホワモネイトは、そんなカイム・アウルーラの出版社に勤め、日々ネタを求めて街の中を走り回るタイプの女性だった。
彼女は周囲を見渡しながら、カイム・アウルーラの街を歩く。
とはいえ、ネアもこの街で過ごすようになってから十年は経っている。
引っ越してきたばかりの十代の頃ならいざ知らず、さすがにそれだけ経っているのであれば、裏街に入り込まないように気をつけるくらいの分別はあった。
(取材するの、有名人とかがいいよね。
誰がいいかなー……ユノ・ルージュ? でも彼女は気むずかしいコトで有名だし……)
そんな時に目についたのが一人の少女。
黒い髪を肩口で切りそろえ、この辺りでは珍しいキモノを日常的に着ている人物。
ユノ・ルージュと同じくらいこの街では有名な綿毛人の剣士。
(ユズリハ・クスノイ)
彼女も色々と謎多き人物だ。
ユノ・ルージュとよく一緒にいるし、二足歩行するトカゲと一緒にいることもある。
(だいぶ以前から街にいる気がするけど、見た目が全く変わってないのも謎なのよね)
これは取材する価値があるかもしれない。
ネアはニヤリと笑みを浮かべる。
(ユズリハさんのプライベート、いいネタになるかもしれない)
そうして、彼女はユズリハの後を追いかけはじめた。
(う~ん……つけられてるなぁ……)
のんびりと歩きながら、気づいている素振りを微塵も見せずに胸中で嘆息する。
妙に巧妙な気配が一つ。
素人丸出しの気配が一つ。
前者に関しては何となくずっと感じていたのでクラウドだろうと当たりをつけている。
興味対象として自分を観察しているとかそういうところだろう。
ならば問題は後者だ。
素人丸出しではあるのだが、その目的が不明瞭。
何より、素人がユズリハの尾行を始めてからクラウドの気配が変わったことが気になるのだ。
(クラウドは他人にあまり興味を持たない。
こんな素人丸出しの尾行する人が彼の興味の対象になるワケがないと思うんだけど……)
だが、間違いなくクラウドは自分ではなく追跡者を観察しているようなのである。
(……もしかして、素人丸出しのようで、クラウドが興味を持ちたくなるような何かを持っている相手なのかな?)
そうだとしたら、このまま素直に工房へと帰るのはよくない気がする。 クラウドが尾行してくるだけなら別に気にもしなかったのだが……。
(目的を聞き出す? でも素直に吐くかな?
こっちから仕掛けて、周囲を巻き込むようなコトされたらたまったもんじゃないし……)
相手がそれなりに手練れな場合、打って出るにしても場所を考える必要があるだろう。
(この追跡者、クラウドには気づいているのかな?)
ユズリハはクラウドに気づかれぬように一瞬だけ、クラウドがいるだろう方向を見る。
深い理由はなかったのだが、クラウドに気づかれないなら他に気づかれても構わないような視線の向け方だ。
(気配はあれど、パッとは見つからないか)
さすがは戦闘技巧者。尾行だってお手の物なんだね――などと考えながら、ユズリハは職人街にある公園に向けて足を早めた。
ネアがそれに気づいたのは偶然だ。
ユズリハがどこかへと視線を向けた気がした。それだけである。
(虫か何かが目の前を横切ったのかな?)
素人のネアからすればそう感じる程度の仕草でしかない。
だから、ユズリハの視線の先を追いかけたのも、何となくだった。
何となく追いかけて――やっぱりユズリハの視線の先には何もなかった。
やはり、虫やゴミの類がふと目の前を横切った時に、思わず視線で追いかけただけなのだろう。
それなら気にする必要はなさそうだ。
(それにしても職人街まで来て、どこに行くんだろう?
ユノ・ルージュの工房かな?)
そうして、ネアは尾行を続けるのだった。
(あの尾行女……こっちを見た、だとォ――……ッ!?)
自分を楽しませることの出来る女ならいざ知らず、あんな素人丸出しの尾行女がまさかこちらを見てくるとは思わなかった。
そうなってくるとやはり、あの素人丸出し女には何かあるのかもしれない。
正直、自分を楽しませることのできる女からも気づかれていない自信があるのだ。
だというのに。あの素人丸出しの女はこちらを見てきた。
(狙いは……オレを楽しませるコトができる女の暗殺の類か?)
それは非常に面白くない。
素人丸出し女は、どうにも自分を楽しませる女に気づかれない能力の類を持っていそうだ。
その能力を使って近づいてしまえば、例え自分を楽しませることのできうる女であったとしても、やられてしまうかもしれない。
(やらせねぇ……オレを楽しませるコトができる女には、楽しませて貰わなきゃいけねぇんだからよ……。
オレの女に手を出すつもりなら、容赦しねぇぜ……)
ここにサニィやレインがいたのなら、クラウドの思考を読みとって、彼氏面してんじゃねぇよとツッコミが入ったのかもしれないが、生憎と二人ともここにはいない。
職人街にある芝生広がる公園までやってきたユズリハは、その場所の中央くらいまで進んで足を止める。
周辺に遮蔽物がほとんどない。
強いて言えば、公園の外側を囲うような木々や、要所要所にあるベンチくらいか。
ここならば素人っぽい人もクラウドも、自分の尾行を続けるのは難しいはず。
それでも一応、ベンチの裏に隠れたつもりでいる素人の方へと向き直ることにする。
「そろそろ追いかけっこは終わりにしない?」
ベンチの裏に上手く隠れているつもりだったのだが、ユズリハに声を掛けられてしまった。
観念しようと出て行こうとした時、男の声が聞こえてきた。
「さすがはオレを楽しませるコトができる女だ……気づいていたか」
「やっぱりクラウドだよね。まあ気づいていたけど」
二人のやりとりに、ネアは驚愕する。
まさか自分以外にもユズリハを尾行している人物がいるとは思わなかったのだ。
「どこから気づいてた?」
「今朝から。朝市で買い物している辺りからずっとだったでしょ?」
「なんだよ……バレバレか」
頭を掻くクラウドという男性。
(そんなに朝早くからつけていたなんて……ストーカー?)
ネアの脳裏にそんな単語が過ぎるも、ユズリハの方は怒った様子もなくどこか親しげな感じで声をかけている。
(どういう関係なんだろ?)
興味津々に二人のやりとりを窺っていると、クラウドの方から何やらシリアスな空気が漂いだす。
「ところで、オレを楽しませるコトの出来る女……気づいているか?」
「何の話?」
「なるほど。やっぱり気づいてねぇか」
「いや本当に何の話?」
「もう一人いるぞ」
瞬間――ユズリハの纏う空気が変わる。明らかな臨戦態勢。
「やっぱり気づいてなかったか」
「どういうコト?」
「オレの推測だが……ターゲットにだけ気配を察知されない特殊な気配の消し方をしているみたいだぜ?」
「つまり、私が狙われてたってコトか。
睨みをきかせてくれてたの?」
「そんなつもりは無かったが、役に立ってたなら何よりだ」
二人のやりとりからして、どうやらもう一人、尾行していた者がいたらしいことが分かる。
ユズリハとクラウドの言葉や立ち振る舞いからして、かなりの腕前の強者だ。
だとしたら、素人の自分などとっくに気づかれていたことだろう。
本来ならここで自分も呼ばれたのかもしれないが、それ以上に危険なもう一人とやらが存在している以上、迂闊に出て行くこともできなそうだ。
自分は特ダネを探すために無茶をすることはあるが、だからといって命を狙われているかもしれない人の自衛を邪魔する気などありはしない。
(もう少し、ここで様子をみましょうか)
二人にはバレバレだとしても、二人の邪魔はしたくないのだ。
「オレを楽しませるコトが出来る女には気づかれてないようだが、オレにはバレバレだぜ。そろそろ出てきたらどうだ?」
風が吹く。
もう一人とやらは動く様子はない。
(逃げ出した? そんなハズないか)
自分はどのタイミングで出ていけばいいのだろうか。
「出て来いって言ってんだよッ!」
クラウドが大声を上げた瞬間――全身に鳥肌が立った。
(怖い。怖い。怖い……)
これが本物の殺気という奴なのだろうか。
僅かでも動くとクラウドに殺されてしまうのではないかと錯覚する。
(やばい、泣きそう……。漏らしそう……)
色んな意味でネアが限界を迎えそうになっていた時、新たな声がそこに現れた。
「クラウド。平和な公園でなんて殺気をだしているのですか」
「お。レインか」
「こんにちわ~」
「ええ、ユズリハさんこんにちわ」
殺気はそのまま、非常にフレンドリィに言葉を交わす三人。
「それでこの馬鹿は何をやってるんですか?」
「なんか私を尾行している人がいるんだって」
レインと呼ばれた少女の問いに、ユズリハが答える。
するとレインは眉を顰め、ネアが隠れているベンチを示した。
「あの人でなく」
その指先に合わせるようにクラウドの殺気が飛んでくる。
怖すぎて、完全に涙が零れだしていた。
「なんかもう一人いるらしいよ」
「……本当に? 何の気配もありませんよ?」
「だから警戒してるんだけど……」
「なるほど……」
レインからもピリっとした緊張感が生じ――
「もう一人ってあのベンチだぞ」
「え?」
「え?」
そしてユズリハとレインの緊張感が霧散した。
「素人じゃん」
「素人ですよね?」
「あれ? オレを楽しませるコトの出来る女、あいつの気配に気づいてないんじゃなかったのか?」
「気づいてたけど素人臭かったから放置してた。
むしろ、クラウドがあの人を気にかけてたから、何かあるのかなって……」
ユズリハの言葉に、レインが呆れた顔をする。
「貴方が原因じゃないですか」
そうして、クラウドの殺気もなくなり、こぼれた涙はともかく、ネアのもう一つの尊厳は守れたのだった。
「尾行した上に色々と誤解させてすみません」
ネアと名乗った女性は、ペコリと頭を下げる。
ユズリハとしても、別に怒るつもりはなかった。
「まぁ尾行は感心しないけど、そこまで目くじらは立てないから気にしないで」
「むしろ、わたしの友人が怖い想いをさせたコトを謝罪したいくらいです」
「えー……オレ、悪いコトしたかー?」
クラウドの態度はともかく、ユズリハとレインの態度を見てネアは大きく安堵の息を吐く。
その上で、やはり彼女はどこまでも記者気質だったので問いかけた。
「あの――一つ伺ってもいいですか?」
「内容にもよるけどね」
ユズリハがうなずくと、レインとクラウドも同じようにうなずく。
「クラウドさんの言うオレを楽しませるコトの出来る女って何ですか?」
「あー……」
思わずといった感じで、ユズリハとレインは同時に天を仰いだ。もしかしたら、あまり聞かない方が良かったのだろうか。
「そのまんまの意味だぜ。
オレを楽しませるコトが出来るのは、こいつだけなんだよ」
「え?」
何という大胆な言葉だろう――ネアは素直にそう思った。
「ユズリハさん。今、彼女は盛大に誤解しましたよ」
「それは見れば分かるんだけど解くの難しくないッ!?」
何やらこそこそと言い合っているレインとユズリハの横で、クラウドは大変良い笑顔を浮かべている。
「クラウドさんを楽しませるコトが出来るのがユズリハさんだけって……。
もしかして――」
「おうよ」
(やはり、ベッドの上の話……ッ!)
顔が赤くなってしまうのを感じながらも、メモを書く手が止まらない。
「絶対に今、盛大にすれ違ったッ!」
「ネアさん。この男にそんなロマンチックを期待してはいけません!」
ユズリハとレインが叫ぶようにツッコミを入れる。
「そうそう。ぶっちゃけ魔獣みたいなモノだからね? ね?」
続けてユズリハが、ケモノのように何も考えない馬鹿だからと告げたのだが、ネアはそれを曲解した。
「け、ケダモノのような方なんですね……!」
「違うッ! 間違ってないけど違うッ!!」
うーがー! と叫びながらユズリハは頭を抱える。
「ははッ、難しいコト考えねぇで、ケモノみてぇに暴れる方が好きなのは間違いないぜッ!」
「ここで余計なコトを言うんじゃありませんよッ!」
このおバカ! とレインがツッコミを入れたが、時すでに遅し。
ネアは完全に誤解していた。
「や、やっぱりケダモノ系の……!」
その様子に、ユズリハは白目を剥きながら天を仰ぐ。
「やっぱ爆破? 爆破オチにしないとダメ?」
「ユズリハさん、現実逃避してないでちゃんと誤解を解かないと」
レインに正気を呼び戻され、何とかユズリハは言葉を紡ぐが――
「あのねネアさん。こいつ別に私のカレシとかじゃないからね?」
「え? 恋人とかじゃないんですか?」
「ああ。それは違うな。こいつはオレにとってすげぇ都合の良い女ってだけなんだよ」
「ええッ!?」
――クラウドの余計な一言で再び誤解が爆発した。
「あーもーッ!」
「この男はーッ!!」
そのまま四人はしばらく似たようなやりとりを繰り返し、ようやくネアの誤解が解けたあたりでお開きとなるのだった。
「……本当に、誤解が解けて納得したのかな……」
「そこは彼女を信じるしかありませんが……って、あ」
「え? レイン? どうしたの?」
「記事にしないようにと釘を刺してませんでしたが、大丈夫ですか?」
瞬間、ユズリハは青纏を発動して、公園から飛び出していくのだった。
「なんか大変だなー、お前ら」
近くの屋台で、おやつとして売っていたチョコバナナを買ってきたらしいクラウドは、まるで他人事のような顔をしている。
その顔に若干イラっとしながら、レインは告げた。
「その顔、ユズリハさんが見てたら殴ってましたよ絶対」
「マジか。今度試そう。軽くでも手合わせしたかったんだよなー」
「…………」
なんだかどうでも良くなってきたレインは天を仰ぎながら、ふと思う。
(そう言えばわたし、どうしてユズリハさんの誤解を解くのに必死になっていたのでしょう?)
勢いでやってしまったのだが、そもそもの根幹からどうでも良い話題だったはずだ。
少し考えたところで、答えが出なかったのでレインは一つの結論をこじつけることにする。
「クラウドが全部悪い」
思わず口から出た言葉に、当の本人はバナナを口にくわえたまま不思議そうな顔で首を傾げた。




