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夏目漱石「それから」の構成とテーマについて~「三四郎」の構成との比較

○構成について

「それから」は、次のように始まる。


(だれ)(あは)たゞしく門前(もんぜん)()けて行く足音がした時、代助(だいすけ)の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)(くう)から、ぶら下がつてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして()が覚めた。

 枕元(まくらもと)を見ると、八重の椿(つばき)一輪(いちりん)畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕(ゆふべ)(とこ)(なか)で慥かに此花の落ちる(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が()けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、(あばら)のはづれに正(たゞ)しく(あた)()(おと)(たし)かめながら(ねむ)りに就いた。

 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を()てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の(みやく)()いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて(たし)かに打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、(あたたか)(くれなゐ)の血潮の緩く流れる(さま)を想像して見た。是が(いのち)であると考へた。自分は今流れる命を(てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌に(こた)へる、時計の針に似た響(ひゞ)きは、自分を死に(いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、――血を()る袋が、(とき)を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何(いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に(せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助は覚えず(ぞつ)とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳(ちゝ)の(した)に手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。」(1-1)


この評論として私は以前、次のように述べた。

「この物語は、いきなり夢落ちで始まる点に特徴がある。素直な読み手は、初め「代助」の空想かと思いながら読んでいると、それは夢だったと突然知らされる。語り始めがこの調子では、語り手の語りの手法についていくためには、用心・注意が必要だと、読み手は警戒するだろう。従って、緊張感をもってこの後の語りを読み進めることになる。

 また、長編小説の最後の部分に再び夢落ちが使われるのではないかとか、登場人物が夢のような世界へ迷い込むのではないかといった想像が容易につく。結末部分のページを開くことはしばし我慢して、初めから順に読み進めていく。」

「冒頭部は、どこまでが夢で、どこからが現実なのかが曖昧で、夢の世界がずっと続くような、不安定な感覚を抱く。そう考えると、もしかしたらこの物語は、円環を描くのではないか。つまり、「誰か」とは代助であり、彼自身が「大きな俎下駄」を履き、「(あは)たゞしく門前(もんぜん)()けて行く」ことになるのではないか。ということを想像させる。さらに言うと、自ら振ったサイコロの目によって、振り出しに戻された代助を予兆しているように読める。つまり、代助は、その運命からは決して逃れることはできず、また、自らの宿命を永遠にぐるぐる回りつづけることを表している。

この予測を検証しながら、これ以降を読んでいきたい。」

この予想は当たることになる。次に終末部を掲げる。


「兄の去つた後、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち(あが)つて、

「門野さん。僕は一寸(ちよつと)職業を探して来る」と云ふや否や、鳥打帽を(かぶ)つて、傘も指さずに日盛りの(おもて)へ飛び出した。

 代助は暑い中を()けない(ばかり)に、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直に射下ろした。乾いた(ほこり)が、火の()の様に彼の素足を包んだ。彼はぢり/\と()げる心持がした。

「焦げる/\」と歩きながら口の内で云つた。

 飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、「あゝ動く。世の中が動く」と(はた)の人に聞える様に云つた。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に(ほて)つて来た。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。

 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘(かうもりがさ)を四つ重ねて高く()るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる/\と渦を()いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角を曲がるとき、風船玉は追懸(おつか)けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包み郵便を載せた赤い車がはつと電車と()れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤(まつか)になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と(ほのほ)の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。」(17-3)


「傘も指さずに日盛りの(おもて)へ飛び出した」代助を待っていた「乾いた(ほこり)」が、「火の()の様に彼の素足を包」む。代助は「ぢり/\と()げる心持がし」、「「焦げる/\」と歩きながら口の内で」つぶやく。電車の動きは「世の中」の動きを感じさせ、「彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に(ほて)つて来た。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた」。

次にはこの世に存在するすべての「赤」が代助を襲う。そうして「其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた」。「仕舞には世の中が真赤(まつか)になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と(ほのほ)の息を吹いて回転した」。周囲を「赤」で囲繞された代助は、その身も心も真赤に塗りつぶされ、狂気の世界で燃えながら回転し続ける。「自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した」代助の行きつく先は、狂気と崩壊の世界だろう。


このように「それから」は、夢と現実のあわいから現実世界へと移行した男が、再び夢か現実か不明な世界へと弾き飛ばされる=舞い戻るという円環を描いている。代助は、夢と現実、愛と狂気のはざまを、ぐるぐる回転し続けるしかない。

現実社会という地獄には、釜が真赤な焔にあぶられ、口を開けて待っている。「不義」という罪を犯した代助は、閻魔によってどのような審判を下されるのだろう。


○前作「三四郎」との構成の比較

「三四郎」の冒頭も同様に、夢から覚める物語となっている。

「うと/\として眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる。此爺さんは慥かに前の前の駅から乗つた田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思つたら脊中に御灸の痕が一杯あつたので、三四郎の記憶に残つてゐる。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を懸けた迄よく注意して見てゐた位である」(1-1)

終末部での登場人物の様子を見てみる。

美禰子は三四郎たちと過ごした自分の姿を絵の中に残し、三四郎の見知らぬ「夫」と去る。その絵に三四郎は「迷羊(ストレイシープ)」と名付け、美禰子との思い出を絵の中に封じ込める。美禰子は現実社会に旅立ち、三四郎は後に取り残される。


○テーマについて

代助の悔恨と恋の苦悩が描かれたのが「それから」なのだが、そこに深みや葛藤が感じられないのは、代助の苦悩の主要な要素が、「職業」だからだ。「結局、働くのがイヤなだけじゃん」のひと言で、代助は黙るしかない。【愛と「職業」のはざまで苦悩する高等遊民】という設定は、読者の共感を得にくい。

彼がもし経済的に独立した人だったら、この物語の内容は、もっと濃く深くなっただろう。世の倫理を超えた愛というテーマの輪郭が明確になり、読者も納得できる。

この物語の内容が薄く感じられるのは、これが理由だ。その意味では、漱石さんの設定は良くなかった。(だからこの物語は、あまり人気がないのかも)

また、代助が働くことを妨げる別の理由があれば、違った感想になっただろう。物語終末部の代助の狂気・精神の崩壊に、われわれ読者は共感できないのだ。


代助が蛇蝎の如く忌避する「職業」。彼の美的生活・命は、彼が蔑視し「敵」と認識する父や兄によって、また彼らの「職業」・働きによって成り立っている。父や兄の現実社会での苦闘が、代助の命を支え、高尚な精神世界を支えているのだ。

三千代とともに生きる道を選ぶということは、彼が嫌う「職業」を認め、愚劣な社会の一員になることを意味するし、その決断とセットになることを肯定しなければならない。不義を働いたことを平岡、父や兄、嫂に謝罪し、父と兄・嫂にはこれまでの経済的援助を感謝しなければならない。

しかし代助は、これらの事柄を整理しはっきりと認めることをせずに、いきなり自分の欲しいものを手に入れようとする。そこに読者は甘えや認識不足を感じるのだ。これでは彼が愛する三千代が幸福にたどり着く道筋が見えない。彼女は必ず不幸になる。

そしてそれらの事に代助は気づいていない。自己のエゴを貫くことしか考えない。これは単なるわがままだ。

確かに三千代はいま、愛のない生活だ。彼女の命の灯火は消えようとしている。しかしその命を少しでも長く延ばそうとするのであれば、彼女は現実社会と向き合い働きはじめた平岡と一緒にいた方がいい。環境の激変による代助との「それから」に、明るい未来はない。彼女の命は必ず縮むだろう。愛だけで人は生きてはいけない。

愛には責任が伴うのだ。「職業」による狂気に向かおうとする代助に、三千代を愛する資格はない。真に三千代を愛するならば、彼は自分の愛を心に深く秘めなければならなかった。代助は三千代を平岡に返すべきだ。


「醜い社会から認められず疎外されたふたりの美しく純粋な愛」。漱石はそれを目指した部分もあるのかもしれないが、それは失敗したと言うしかない。代助の三千代への愛の理由、三千代の代助への愛の理由、代助が平岡に三千代を譲った、「義侠心」以外の理由、平岡の三千代への心情、3人の悔恨。それらの説明・描写が、圧倒的に不足している。それを描くのが小説であり、作者の仕事だ。3人の人間関係・物語の上っ面をなぞられただけでは、登場人物の心に入り込めないし、物語を楽しむことができない。

更に言うと、代助と三千代は不幸になってもいいのだ。そこに読者が納得できるものがあれば。

これでは、「世慣れぬアラサーニートの恋の自己満足の物語」でしかない。(もしそれを描こうとしたのであれば、半ば成功しているとは言える)


(次回からは「三四郎」を解説していきます。これからもどうぞお付き合いください)

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