夏目漱石「それから」における「赤」の意味について
「それから」には、「赤」が50例登場する。この語は物語において重要な意味を持つ。初めからひとつずつ見ていきたい。なお数字は登場順。
1、「枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確めながら眠りに就いた。
ぼんやりして、少時、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確かに打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像して見た。是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌に応へる、時計の針に似た響きは、自分を死に誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう。けれども――代助は覚えず悚とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鉄槌で一つ撲されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。」(1-1)
この部分には、「赤」の他に「紅」も登場し、この二つはほとんど同じ意味で用いられている。まずここで「赤」は、「赤ん坊の頭」として登場するのだが、それが喩えるものは八重の椿一輪だ。この花については色が説明されないのだが、「赤ん坊の頭」という喩えと、この椿の花から代助は心臓をイメージしていることから、やはり「赤」い椿と考えられる。
「赤」は、代助に「心臓」を想起させ、彼はその「鼓動を検し始めた」。「此鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像し」、「是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌で抑へてゐるんだと考へた」。赤い心臓の鼓動を掌で押さえ、代助は「命」・生を実感する。
「それから、此掌に応へる、時計の針に似た響きは、自分を死に誘ふ警鐘の様なものであると考へた」。「血を盛る袋」は、「時を盛る袋の用を兼ね」ている。赤い心臓の鼓動は、生とともに「死に誘ふ警鐘」のようにも感じられる。鼓動の一つ一つが打つたびに、時々刻々自分を死へと確実に向かわせる実感。
「赤」い「心臓」は、「命」とともに「死」を想起させる装置であるということ。
2、「代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ彎げて蔑む様に笑つた」(2-1)
代助の唇が若々しく「赤」い血色であることを表す。唇の実際の「赤」さ。
3、「「細君はまだ貰もらはないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。」(2-1)
代助が赤面した場面。代助の顔の「赤」さ。
4、「両人は其所で大分飲んだ。(省略) 平岡は頬杖を突ついて、眼鏡の奥の二重瞼を赤くしながら聞いてゐた」(2-3)
飲酒により平岡の顔が実際に「赤」くなっている場面。
5、「平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃めいた。赤い眼を据ゑてぷか/\烟草を吹かしてゐる。」(2-3)
4と同じで、飲酒により平岡の顔が実際に「赤」くなっている場面。なお4と5は、飲酒によりふたりの会話が熱を帯びている。
6、「両人は又電車の通る通りへ出た。平岡は向ふから来た電車の軒を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ出した。代助はさうかと答へた儘、留めもしない、と云つて直ぐ分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄歩いて来た。そこで、
「三千代さんは何うした」と聞いた。
「難有う、まあ相変らずだ。君に宜しく云つてゐた。実は今日連れて来やうと思つたんだけれども、何だか汽車に揺れたんで頭が悪いといふから宿屋へ置いて来た」」(2-5)
「赤い棒の立つてゐる停留所」の「赤」は「それから」のテーマにつながるモチーフとなっている。ここでの「赤」は、この「赤い棒」を起点として物語が展開していくことを表す。代助・平岡・三千代の三人の人間関係が動き出し、この物語の核心があらわになろうとする場面だ。
「赤」を契機に代助は、「三千代さんは何うした」と聞く。いよいよ代助は、今回の面会の目的である三千代を話題に出す。
7、「代助は机の上の書物を伏せると立ち上がつた。縁側の硝子戸を細目に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。さうして鉢植のアマランスの赤い瓣をふら/\と揺かした。日は大きな花の上に落ちてゐる。(中略)
「蟻でも付きましたか」と門野が玄関の方から出て来た。袴を穿いてゐる。代助は曲んだ儘顔を上げた。
「もう行つて来たの」
「えゝ、行つて来ました。何ださうです。明日御引移りになるさうです。今日是から上がらうと思つてた所だと仰いました」」(4-2)
ここは実際に「鉢植のアマランスの赤い瓣」を表す。また、平岡の引っ越しと、彼が代助のもとを訪ねるという、物語の展開の場面でもある。
8、「代助の方から神保町の宿を訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには居つた。が、洋服を着た儘、部屋の敷居の上に立つて、何か急わしい調子で、細君を極め付けてゐた。――案内なしに廊下を伝つて、平岡の部屋の横へ出た代助には、突然ながら、たしかに左様取れた。其時平岡は一寸振り向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも快さゝうな所は見えなかつた。部屋の内から顔を出した細君は代助を見て、蒼白い頬をぽつと赤くした。代助は何となく席に就き悪くなつた」(4-2)
ここは実際に三千代の頬が赤くなった様子を表す。また、これにより、三千代の羞恥と代助の気まずさが分かる。
作者は細部まで計算して物語を作っている。そこに登場する色も、単純な色合いだけを表すのではなく、登場人物の心情や物語の展開に関係しており、必要だからその色にしているのだ。
9、「代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。例なら調戯ひ半分に、あなたは何か叱られて、顔を赤くしてゐましたね、どんな悪い事をしたんですか位言ひかねない間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後から其場を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も一寸出なかつた」(4-4)
これは、用例8の場面の後日談。代助の家を訪れた三千代への思いが述べられている。
10・11、「「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、額の所へあらはして、一寸下を見たが、やがて頬を上げた。それが薄赤く染つて居た。
「実は私少し御願ひがあつて上つたの」
勘が鋭い代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識の下で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し御金の工面が出来なくつて?」
三千代の言葉は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥かしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた」(4-5)
借金を、顔を「赤」くしながら申し出る三千代の様子。彼女の羞恥が表れる。
(これ以降はnoteをご覧ください。なお有料となります)




