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夏目漱石「それから」本文と評論17-3 本文最終回「代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した」

◇本文

「姉さんは泣いてゐるぜ」と兄が云つた。

「さうですか」と代助は夢の様に答へた。

「御父さんは怒つてゐる」

 代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る眼をして、兄を眺めてゐた。

「御前は平生から()く分からない男だつた。()れでも、いつか分かる時機が来るだらうと思つて今日迄 交際(つきあつ)てゐた。然し今度と云ふ今度は、全く分からない人間だと、おれも諦めて仕舞つた。世の中に分からない人間程危険なものはない。何を()るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は()れが自分の勝手だから()からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は()つてゐるだらう」

 兄の言葉は、代助の耳を(かす)めて外へ(こぼ)れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼は彼の頭の(うち)に、彼自身に正当な道を(あゆ)んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であつた。彼等は赫々(かく/\)たる炎火(えんくわ)(うち)に、二人を包んで焼き殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此 (ほのほ)の風に早く己れを焼き尽くすのを、此上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭を支へて石の様に動かなかつた。

「代助」と兄が呼んだ。「今日はおれは御父さんの使ひに来たのだ。御前は此間から家へ寄り付かない様になつてゐる。平生なら御父さんが呼び付けて聞き糺(たゞ)す所だけれども、今日は顔を見るのが厭だから、此方(こつち)から行つて実否を確かめて来いと云ふ訳で来たのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、――御父さんは()う云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。何処(どこ)へ行つて、何をしやうと当人の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又親とも思つて()れるな。――尤もの事だ。そこで今御前の話を聞いて見ると、平岡の手紙には嘘は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて御父さんに取り成し様がない。御父さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。()いか。御父さんの云はれる事は分かつたか」

「よく分かりました」と代助は簡明に答へた。

「貴様は馬鹿だ」と兄が大きな声を出した。代助は俯向(うつむ)いた儘顔を上げなかつた。

「愚図だ」と兄が又云つた。「不断(ふだん)は人並以上に減らず口を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に黙つてゐる。さうして、(かげ)で親の名誉に関はる様な悪戯(いたづら)をしてゐる。今日(こんにち)迄何の為に教育を受けたのだ」

 兄は洋卓(てえぶる)の上の手紙を取つて自分で巻き始めた。静かな部屋の中に、半切(はんきれ)の音がかさ/\鳴つた。兄はそれを元の如くに封筒に納めて懐中した。

「ぢや帰るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、

「おれも、もう()はんから」と云ひ捨てて玄関に出た。

 兄の去つた後、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち(あが)つて、

「門野さん。僕は一寸(ちよつと)職業を探して来る」と云ふや否や、鳥打帽を(かぶ)つて、傘も指さずに日盛りの(おもて)へ飛び出した。

 代助は暑い中を()けない(ばかり)に、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直に射下ろした。乾いた(ほこり)が、火の()の様に彼の素足を包んだ。彼はぢり/\と()げる心持がした。

「焦げる/\」と歩きながら口の内で云つた。

 飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、

「あゝ動く。世の中が動く」と(はた)の人に聞える様に云つた。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に(ほて)つて来た。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。

 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘(かうもりがさ)を四つ重ねて高く()るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる/\と渦を()いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角を曲がるとき、風船玉は追懸(おつか)けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包み郵便を載せた赤い車がはつと電車と()れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤(まつか)になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と(ほのほ)の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。 (青空文庫より)


◇評論

「姉さんは泣いてゐるぜ」という兄の言葉は、代助にとって痛かっただろう。彼女は彼を唯一信頼し、見込んでいる存在だからだ。だから代助は、「さうですか」と「夢の様に答へた」。


「御父さんは怒つてゐる」。父の怒りはもっともだと納得する部分も代助にはある。だから「答を」せず、「たゞ遠い所を見る眼をして、兄を眺めてゐた」。


「御前は平生から()く分からない男だつた。()れでも、いつか分かる時機が来るだらうと思つて今日迄 交際(つきあつ)てゐた」…天爵的に精神の貴族となった代助を理解することは、他者には困難だろう。


続いて兄は代助に告げる。

「今度と云ふ今度は、全く分からない人間だと、おれも諦めて仕舞つた」…兄の代助理解のあきらめ。

「世の中に分からない人間程危険なものはない。何を()るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない」…代助への不信。

「御前は()れが自分の勝手だから()からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は()つてゐるだらう」…父や兄の「社会上の地位」や「家族の名誉」という観念に対し、代助は価値を置かない。従って、「兄の言葉は、代助の耳を(かす)めて外へ(こぼ)れた」。

しかし、父や兄の「社会上の地位」や「家族の名誉」という観念を汚すことは、自分という美的存在の継続を不可能にすることは、代助も知っている。「彼はたゞ全身に苦痛を感じた」。


「彼は彼の頭の(うち)に、彼自身に正当な道を(あゆ)んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた」…自分が最も価値を置くものは三千代への愛である。今もそれは変わらないし、それが得られた「満足」がある。しかし「その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた」。


「三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であつた」…社会規範や道徳、倫理、家族などの価値観を超えたところに自分はいると代助は自覚する。だから、三千代以外の他者、自分たちを取り巻く環境などはすべて「敵」となる。


「彼等(敵)は赫々(かく/\)たる炎火(えんくわ)(うち)に、二人を包んで焼き殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此 (ほのほ)の風に早く己れを焼き尽くすのを、此上もない本望とした」…「敵」から放たれた「赫々(かく/\)たる炎火」・「焔」は、「二人を包んで焼き殺さうとしてゐる」。三千代と愛で固く抱き合う代助は、焔に焼かれて死んでもいい・本望だと思っている。


「彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭を支へて石の様に動かなかつた」…自分たちの愛を説明しても兄は理解できないだろう。三千代との愛を確信する代助は、焔に焼かれてもじっとそれに耐える。


石のように動かず、何の言い訳も反応もしない代助の様子に、兄は最後通牒を渡す。

父…「もう生涯代助には逢はない。何処(どこ)へ行つて、何をしやうと当人の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又親とも思つて()れるな」。

兄…「貴様は馬鹿だ」と大声で怒鳴る。また「愚図だ」と言い、「不断(ふだん)は人並以上に減らず口を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に黙つてゐる。さうして、(かげ)で親の名誉に関はる様な悪戯(いたづら)をしてゐる。今日(こんにち)迄何の為に教育を受けたのだ」と、代助を責める。これが先ほど兄が述べた、「()く分からない男」、「全く分からない人間」の内容だ。完全なる理解不能の他者に、突然豹変した弟への不安。

「おれも、もう()はんから」。


「兄の去つた後」、「しばらくして元の儘じつと動かずにゐた」代助は、「門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち(あが)つて、「門野さん。僕は一寸(ちよつと)職業を探して来る」と云ふや否や、鳥打帽を(かぶ)つて、傘も指さずに日盛りの(おもて)へ飛び出した」…これまでさんざん愚物だと蔑視した対象の門野に対し、「門野さん」と急に「さん」付けする代助。代助の気持ちになって考えてみる。

「門野は体だけは達者だが、頭の動きは不出来だ。しかし少なくとも他者にそれほどの迷惑はかけずに生きている。それに比べて自分は今、三千代との愛の確立のために、父や兄の「名誉に関はる」問題を起こしてしまった。一般的な社会の価値や道徳を守るという観点からは、自分の行為は許されるものではない。家族とも断絶してしまった。それらに価値を置き、顧みる自分ではないのだが、しかしこれからの自分と三千代の人生を鑑みると、不安が胸を焼く。生きるためには働かなければならない。それは今まで自分が一番忌避してきたことだ。美的生活ももう求め得ないだろう。しかしそれもしょうがない。三千代との愛ある暮らしを成り立たせるためには」。

代助は今、自分という存在が、実は門野とそれほど変わりのない位置にいることに思い至ったのだ。高尚な思考、芸術への関心、労働に汚されない時の流れ。それらはすべて父と兄の労働のおかげだった。他者によって生かされてきた自分。他者を裏切り、独立の思想を持つことの不可能性。理想の自己の保持のためには、他者に頼らざるを得ない甘えた自分。労働を徹底的に嫌う代助の頭には、これらの事柄が渦を巻いていただろう。


代助は決して思わない。

「愛する人を守るためには、自分の積極的な労働が必要だ。

愛する人との幸福な暮らしを成り立たせるために、これから一生懸命働こう。

労働の後には、彼女と会える。

そのひと時が今から楽しみだ。

自分は大学まで出ている。

この学歴と教養を生かす道はあるはずだ。

平岡には本当に済まないことをした。

何度でも謝罪し、償いをしなければならない。

そのためにも、一生懸命働く必要がある。

何よりも彼女との生活が待っている。

少しでも幸せに近づくために、これから頑張ろう」

世の人間は、自分が生きるために、愛する人との幸せのために、頑張って働いている。代助にはその考えがないのが不思議だ。自分の生活も支えられない者が、他者を守ることはできないではないか。


このように考えてくると、三千代を愛し、共に歩む人生を求める資格は代助にはないということになる。愛してもいいが、心でそっと思うにとどめるべきだ。平岡から無理やり奪い取っても、彼に三千代を幸せにすることはできないだろう。

だから代助の三千代への愛は、単なるエゴ、わがままだとしか言えない。こんな男に愛され、共に生きようとする三千代に、幸せは訪れない。

代助の愛は、真実・崇高な愛ではない。ふたりが世の倫理や道徳を超えてもかまわない。しかしふたりで生きていくための手段・方法を確保すべきだ。それが人を愛する者には求められる。

端的にまとめると、三千代を選ぶならば今までの価値観を変え、積極的・能動的に働くべきだ。それが嫌なら三千代はあきらめるべきだ。


「三千代ちゃんが好きなんだ。誰にも渡せない。だから平岡君から奪い取った。だって、ボクたちの愛はとってもすばらしいんだよ。他の人には理解できないかもしれないけどさ。世の決まりなんで関係ない。ボクたちの愛は真剣だし、何ものにも侵されない崇高なものなんだ。

でもね、ボク、働きたくない。30歳になるまで一度も働いたことなかったし、どうしていいかわからないから。仕事はボクの精神性を汚すんだよ。そんなことできるわけないじゃん。あ~あ。仕事のことを考えると、チョー憂鬱」

引きこもりの道まっしぐらですね、これは。

そうして実際、次作「門」でふたりは、世を忍びひっそりと隠れるように暮らすのだった。


次に代助は、いやいやながらも職を求めて動き出す。その姿は、自己破滅へと向かうようだ。不吉な「赤」が彼に押し寄せる。

これまでと違い、「代助は暑い中を()けない(ばかり)に、急ぎ足に歩いた」。不吉な「日」が彼の「頭の上から真直に射下ろした」。「乾いた(ほこり)が」まるで「火の()の様に彼の素足を包んだ。彼はぢり/\と()げる心持がし」、「焦げる/\」と歩きながら口の内で云つた」。

代助を乗せ、電車はスピードを上げて「真直に走り出した」。「あゝ動く。世の中が動く」というつぶやきが「(はた)の人に聞え」ても気にする余裕もない。「頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に(ほて)つて来た。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた」。

「忽ち赤い郵便筒が眼に付」き、「其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた」。「傘屋の看板」の「赤い蝙蝠傘(かうもりがさ)」「の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる/\と渦を()いた」。「大きい真赤な風船玉」が、「電車が急に角を曲がるとき」、「追懸(おつか)けて来て、代助の頭に飛び付いた」。「小包み郵便を載せた赤い車がはつと電車と()れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた」。「烟草屋の暖簾が赤かつた」。「売出しの旗も赤かつた」。「電柱が赤かつた」。「赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた」。「仕舞には世の中が真赤(まつか)になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と(ほのほ)の息を吹いて回転した」。

人生の不幸を象徴・予期させる不吉な「赤」に囲繞(いにょう)されるばかりか、それらがやがて頭や体の中にまで侵入するかのような感覚に襲われ、代助の精神は崩壊寸前となる。


リアルな話をすると、こんな人に労働は無理だ。大学卒業後、30歳までずっとニートで職業経験皆無。たとえ仕事に就くことができたとしても、すぐに鬱病となり、病休となるだろう。そうして職場に居づらくなり退職。代助に病気の三千代を幸せにすることはできない。彼に三千代を愛する資格はない。


「代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した」。

これが何を意味するかだが、二つ考えられる。

①「自分の頭が焼け尽きる」ことは、簡単に言うと死に向かうということ。自己存在が完全に否定されるまで「電車に乗って行かう」では、就職する前に死んでしまう。本当に職探しをする気はあるのかということになる。

②「自分の頭が焼け尽きる」が、これまでの自分の考えや生き方を変えるため(ことを表す)のであるならば、代助はその「決心」をし、本気で職探しに向かったということになる。代助の精神の真の転換、人生の変革の意味。これならば、三千代との生活を営むことができるだろう。

私は①のような気がする。今の代助に、自己変革は無理だ。会社の入り口にたどり着く前に、彼はまさに燃え尽きてしまうだろう。積極的・意欲的・能動的に働こうとする意志が感じられないからだ。


次回は「それから」における「赤」の持つ意味についてまとめます。

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