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夏目漱石「それから」本文と評論17-2 兄「此男の細君と、御前が何か関係があるのかい」

◇本文

 翌日(あくるひ)は又 ()け付く様に日が高く出た。外は猛烈な光で一面にいら/\し始めた。代助は我慢して八時過ぎに漸く起きた。起きるや否や眼がぐらついた。平生の如く水を浴びて、書斎へ這入(はい)つて(じつ)(すく)んだ。

 所へ門野が来て、御客さまですと知らせたなり、入口に立つて、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であつた。客は誰だと聞き返しもせずに手で支へた儘の顔を、半分ばかり門野の方へ向き()へた。其時客の足音が椽側にして、案内も待たずに兄の誠吾が這入つて来た。

「やあ、此方(こつち)へ」と席を勧めたのが代助にはやうやうであつた。誠吾は席に着くや否や、扇子を出して、上布(じやうふ)(えり)を開く様に、風を送つた。此暑さに脂肪が焼けて苦しいと見えて、荒い息遣(いきづか)ひをした。

「暑いな」と云つた。

「御宅でも別に御変りもありませんか」と代助は、()も疲れ果てた人の如くに尋ねた。

 二人は少時(しばらく)例の通りの世間話をした。代助の調子態度は固より尋常ではなかつた。けれども兄は決して()うしたとも聞かなかつた。話の切れ目へ来た時、

「今日は実は」と云ひながら、懐へ手を入れて、一通の手紙を取り出した。

「実は御前に少し聞きたい事があつて来たんだがね」と封筒の裏を代助の方へ向けて、

「此男を知つてるかい」と聞いた。其所(そこ)には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた。

「知つてます」と代助は殆んど器械的に答へた。

(もと)、御前の同級生だつて云ふが、本当か」

「さうです」

「此男の細君も知つてるのかい」

「知つてゐます」

 兄は又扇を取り上げて、二三度ぱち/\と鳴らした。それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段落した。

「此男の細君と、御前が何か関係があるのかい」

 代助は始めから万事を隠す気はなかつた。けれども斯う単簡に聞かれたときに、()うして此複雑な経過を、一言(いちげん)で答へ得るだらうと思ふと、返事は容易に口へは出なかつた。兄は封筒の中から、手紙を取り出した。それを四五寸ばかり()き返して、

「実は平岡と云ふ人が、()う云ふ手紙を御父の所へ宛てゝ寄こしたんだがね。――読んで見るか」と云つて、代助に渡した。代助は黙つて手紙を受取つて、読み始めた。兄は(じつ)と代助の額の所を見詰めてゐた。

 手紙は細かい字で書いてあつた。一行二行と読むうちに、読み終つた分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺余りになつても、まだ尽きる気色はなかつた。代助の眼はちらちらした。頭が鉄の様に重かつた。代助は強いても仕舞迄読み通さなければならないと考へた。総身(さうしん)が名状しがたい圧迫を受けて、(わき)の下から汗が流れた。漸く結末へ来た時は、手に持つた手紙を巻き納める勇気もなかつた。手紙は広げられた儘 洋卓(てえぶる)の上に横たはつた。

其所(そこ)に書いてある事は本当なのかい」と兄が低い声で聞いた。代助はたゞ、

「本当です」と答へた。兄は打衝を受けた人の様に一寸(ちよつと)扇の音を留(とゞ)めた。しばらくは二人とも口を聞き得なかつた。良(やゝ)あつて兄が、

「まあ、()う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆れた調子で云つた。代助は依然として、口を開かなかつた。

()んな女だつて、貰はうと思へば、いくらでも貰へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶黙つてゐた。三度目に兄が斯う云つた。――

「御前だつて満更(まんざら)道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今迄折角金を使つた甲斐がないぢやないか」

 代助は今更兄に向つて、自分の立場を説明する勇気もなかつた。彼はつい此間迄全く兄と同意見であつたのである。 (青空文庫より)


◇評論

今話は、父のもとに届いた平岡の告白の手紙の内容を(ただ)すために来た兄とのやり取りが描かれる。深刻な内容であるにもかかわらず、兄と代助は表面上だけであっても以前と変わらぬやり取りを交わす。兄は代助の不始末に、それほどの「打衝」は受けていないようだ。一方の代助は、精神的に疲れ果てた状態だ。


翌日(あくるひ)」も「又 ()け付く様に日が高く出た。外は猛烈な光で一面にいら/\し始めた」。代助を焼く「日」の「猛烈な光」が、代助を起こす。彼の「眼」は「ぐらつ」き、「書斎」に彼を「(じつ)(すく)」ませる。


急に兄が訪問し、「二人は少時(しばらく)例の通りの世間話をした」。

「話の切れ目へ来た時」、兄は「一通の手紙を取り出し」、「実は御前に少し聞きたい事があつて来たんだがね」と話し始める。封筒には「平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた」。兄から渡された手紙を、「代助は黙つて手紙を受取つて、読み始めた。兄は(じつ)と代助の額の所を見詰めてゐた」。


「手紙は細かい字で書いてあつた」。「読み終つた分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺余りになつても、まだ尽きる気色はなかつた」。細かい字で書いてある長さ60センチ余りの手紙。当然、その長さから、「代助の眼はちらちらした」。またその内容から「頭が鉄の様に重かつた」。代助は、「強いても仕舞迄読み通さなければならないと考へた。総身(さうしん)が名状しがたい圧迫を受けて、(わき)の下から汗が流れた。漸く結末へ来た時は、手に持つた手紙を巻き納める勇気もなかつた。手紙は広げられた儘 洋卓(てえぶる)の上に横たはつた」。身体からすべての力・気力が抜けてしまった状態。


「「其所(そこ)に書いてある事は本当なのかい」と兄が低い声で聞いた。代助はたゞ、「本当です」と答へた。兄は打衝を受けた人の様に一寸(ちよつと)扇の音を留(とゞ)めた。しばらくは二人とも口を聞き得なかつた」。

この部分から、兄は、なかばその手紙の内容を信じていなかったのだろうと察せられる。これまでの付き合いから、兄は弟を信じていたのだろう。手紙の内容がにわかには信じられず、弟の「本当です」という答えに「打衝を受け」、「口を聞き得なかつた」のだ。


「良(やゝ)あつて兄が、「まあ、()う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆れた調子で云つた。代助は依然として、口を開かなかつた。

()んな女だつて、貰はうと思へば、いくらでも貰へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶黙つてゐた。三度目に兄が斯う云つた。――「御前だつて満更(まんざら)道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出かす位なら、今迄折角金を使つた甲斐がないぢやないか」。

手紙の内容が真実と判明してもやはり兄の鷹揚さは変わらない。これは実の兄弟だからなのだろうし、最後の所では弟を見捨てずにいる兄の様子がうかがわれる。この場面の兄の言葉には温かみが感じられる。

「今迄折角金を使つた甲斐がないぢやないか」というのは、大学まで卒業し、美的生活を享受してきた甲斐がない。これまで何を学んできたのだ、ということ。


このこともあって「代助は今更兄に向つて、自分の立場を説明する勇気もなかつた」のだ。自分に目をかけてくれている人を裏切ったのだから。単に事情が複雑で説明が困難だというだけではない。

「彼はつい此間迄全く兄と同意見であつたのである」とは、具体的には、「()んな女だつて、貰はうと思へば、いくらでも貰へる」し、「道楽をした事」のある人間は、「こんな不始末を仕出かす」はずがない、ということ。「今迄」自分にかけられた「金」に見合った処置ができておらず、不体裁だということ。

こんな恋愛沙汰でトラブルになるなんて、遊び人の名にふさわしくないということだ。


〇平岡の手紙について

【外観・形状】

・「封筒の裏」「には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた」。

・「手紙を御父の所へ宛てゝ寄こした」。

・「細かい字で書いてあつた」。

・「読み終つた分が、代助の手先から長く垂れた。それが二尺余りになつても、まだ尽きる気色はなかつた」。長さは60㎝以上。

【内容】

・平岡は「(もと)」代助の「同級生」

・「此男の細君と」、代助の「関係」について書かれている。

・「其所(そこ)に書いてある事は本当」のこと。

・「そんな馬鹿な事」が書かれている。

・「()んな女だつて、貰はうと思へば、いくらでも貰へるぢやないか」

から、代助と三千代の恋愛沙汰の「不始末」が詳細に書かれていることが分かる。

【代助から平岡への事情説明の場面の確認】

「代助は一段声を潜めた。さうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係が()んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り出した。平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。

「ざつと斯う云ふ経過だ」と説明の結末を付けた時、平岡はたゞ(うな)る様に深い溜息(ためいき)を以て代助に答へた」(16-8)

この部分から、平岡夫婦の上京以来の三千代との関係を、1時間余りかけて詳細に平岡に語ったことが分かる。平岡の父宛の手紙はこれを基として、代助と三千代の不倫関係がつまびらかに語られているだろう。

【疑問点と考察】

一連の流れをたどると、なぜ平岡はこの内容の手紙を代助の父宛に送ったのかという疑問がわいてくる。そもそも文句があるなら、代助本人に直接言えばいい。代助は30歳くらいであり、同級生の平岡も同じ年齢だ。いい歳をした大人が、30歳の相手本人でなく、その父親に文句を言っているところに、平岡の幼さがみられる。どう考えても、ののしるべき相手は代助だ。彼はそれができない男なのだ。これでは、いじめっ子の親へのちくり、告げ口、讒言・讒訴と悪口を言われても仕方がない。

一方平岡は、この方法が代助にとって一番ダメージがあると考えたのだろう。実際にこの手紙によって、代助の経済的基盤と家族関係は完全に破壊された。すべては平岡の思惑通りに進んだ。

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