夏目漱石「それから」本文と評論17-1「木の葉の如く、遅疑(ちぎ)する様子もなく、くるり/\と焔(ほのほ)の風に巻かれて行つた」
◇本文
代助は夜の十時過ぎになつて、こつそり家を出た。
「今から何方へ」と驚ろいた門野に、
「何一寸」と曖昧な答をして、寺町の通り迄来た。暑い時分の事なので、町はまだ宵の口であつた。浴衣を着た人が幾人となく代助の前後を通つた。代助には夫れが唯(たゞ)動くものとしか見えなかつた。左右の店は悉く明るかつた。代助は眩しさうに、電気燈の少い横町へ曲つた。江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。黒い桜の葉が少し動いた。橋の上に立つて、欄干から下を見下ろしてゐたものが二人あつた。金剛寺坂では誰にも逢はなかつた。岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道を塞いでゐた。
平岡の住んでゐる町は、猶静かであつた。大抵な家は灯影を洩らさなかつた。向ふから来た一台の空車の輪の音が胸を躍らす様に響いた。代助は平岡の家の塀際迄来て留つた。身を寄せて中を窺ふと、中は暗かつた。立て切つた門の上に、軒燈が空しく標札を照らしてゐた。軒燈の硝子に守宮の影が斜めに映つた。
代助は今朝も此所(こゝ)へ来た。午からも町内を彷徨いた。下女が買物にでも出る所を捕まへて、三千代の容体を聞かうと思つた。然し下女は遂に出て来なかつた。平岡の影も見えなかつた。塀の傍に寄つて耳を澄ましても、夫れらしい人声は聞えなかつた。医者を突き留めて、詳しい様子を探らうと思つたが、医者らしい車は平岡の門前には留らなかつた。そのうち、強い日に射付けられた頭が、海の様に動き始めた。立ち留つてゐると、倒れさうになつた。歩き出すと、大地が大きな波紋を描いた。代助は苦しさを忍んで這ふ様に家へ帰つた。夕食も食はずに倒れたなり動かずにゐた。其時恐るべき日は漸く落ちて、夜が次第に星の色を濃くした。代助は暗さと涼しさのうちに始めて蘇生つた。さうして頭を露に打たせながら、又三千代のゐる所迄 遣つて来きたのである。
代助は三千代の門前を二三度行つたり来たりした。軒燈の下へ来るたびに立ち留つて、耳を澄ました。五分乃至十分は凝としてゐた。しかし家の中の様子は丸で分からなかつた。凡てが寂としてゐた。
代助が軒燈の下へ来て立ち留まるたびに、守宮が軒燈の硝子にぴたりと身体を貼り付けてゐた。黒い影は斜に映つた儘 何時でも動かなかつた。
代助は守宮に気が付く毎に厭な心持がした。其動かない姿が妙に気に掛かつた。彼の精神は鋭どさの余りから来る迷信に陥いつた。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつゝあると想像した。三千代は今死につゝあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに息を偸んで生きてゐると想像した。代助は拳を固めて、割れる程平岡の門を敲(たゝ)かずにはゐられなくなつた。忽ち自分は平岡のものに指さへ触れる権利がない人間だと云ふ事に気が付いた。代助は恐ろしさの余り馳け出した。静かな小路の中に、自分の足音丈が高く響いた。代助は馳けながら猶恐ろしくなつた。足を緩めた時は、非常に呼息が苦しくなつた。
道端に石段があつた。代助は半ば夢中で其所へ腰を掛けたなり、額を手で抑えて、固くなつた。しばらくして、閉いだ眼を開けて見ると、大きな黒い門があつた。門の上から太い松が生垣の外迄枝を張つてゐた。代助は寺の這入り口に休んでゐた。
彼は立ち上がつた。惘然として又歩き出した。少し来て、再び平岡の小路へ這入つた。夢の様に軒燈の前で立留つた。守宮はまだ一つ所に映つてゐた。代助は深い溜息を洩らして遂に小石川を南側へ降りた。
其晩は火の様に、熱くて赤い旋風の中に、頭が永久に回転した。代助は死力を尽して、旋風の中から逃れ出様と争つた。けれども彼の頭は毫も彼の命令に応じなかつた。木の葉の如く、遅疑する様子もなく、くるり/\と焔の風に巻かれて行つた。 (青空文庫より)
◇評論
「夜の十時過ぎになつて、こつそり家を出た」のは、心にやましくとがめるものがあるからだ。彼は三千代の少しでも近くまで訪れようとしている。
「江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。黒い桜の葉が少し動いた。橋の上に立つて、欄干から下を見下ろしてゐたものが二人あつた」。
「暗」く「黒い」、不吉なものに包まれる代助の未来。「橋の上に立つて、欄干から下を見下ろしてゐたものが二人」は、そのまま代助と三千代であり、ふたりはやがて心中するのではないかということを暗示する。
「岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道を塞いでゐた」。
「岩崎家」…三菱財閥。その邸は台東区池之端(上野公園不忍池の南西)にあった。(角川文庫注釈)
これまではそちら側であった代助は、もう富とは無縁の存在になろうとしていることの比喩。
「平岡の住んでゐる町は、猶静かであつた」。
三千代の心臓の鼓動もひっそりとしている比喩。
「大抵な家は灯影を洩らさなかつた」。
代助を照らすものはないことの比喩。
「向ふから来た一台の空車の輪の音が胸を躍らす様に響いた」。
この「胸を躍らす」は、楽しさのドキドキではなく、心臓に危害を加えるかのように響く「空車の輪の音」だったということ。
この部分は、物語冒頭の、「誰か慌たゞしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下がつてゐた」と呼応している。静かな中だから、余計音が響く。これは、神経が過敏となっている代助の様子を表すとともに、この物語においては良くないことが起こる前触れ。
「代助は平岡の家の塀際迄来て留つた。身を寄せて中を窺ふと、中は暗かつた。立て切つた門の上に、軒燈が空しく標札を照らしてゐた。軒燈の硝子に守宮の影が斜めに映つた」。
この時の代助は、理性や高尚な趣味を持つ存在ではなくなっている。もはや人ではなく、他人の家の中の様子をうかがう「守宮」に堕している。彼は三千代にへばりつこうとする。狂気の中にある代助にとって、三千代は「獲物」と化している。「暗」い部屋の中に眠る三千代は、あの世に近づいているだろう。
「平岡」という、名前だけで実質を伴わない標札は「空し」い。
【参考】芥川龍之介「羅生門」より。下人が羅生門の二階にいる老婆の様子を探る場面。
「下人は、やもりのように足音をぬすんで、やっと急なはしごを、いちばん上の段まではうようにして上りつめた。そうして体をできるだけ、平らにしながら、首をできるだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内をのぞいてみた」
次には、ストーカーとなった代助の様子が描かれる。
「代助は今朝も此所(こゝ)へ来た。午からも町内を彷徨いた」。しかし下女にも医者にも会えない。「平岡の影」もない。「塀の傍に寄つて耳を澄ましても、夫れらしい人声は聞えなかつた」。
「そのうち、強い日に射付けられた頭が、海の様に動き始めた。立ち留つてゐると、倒れさうになつた。歩き出すと、大地が大きな波紋を描いた」。
神経が錯乱しはじめる様子。愛する人に会うことがかなわず、心の鬱屈が極点に達しようとしている。神経衰弱によるめまいが代助の平衡感覚を激しく乱す。
「苦しさを忍んで這ふ様に家へ帰」り、「夕食も食はずに倒れたなり動かずにゐた」。「其時恐るべき日は漸く落ちて、夜が次第に星の色を濃くした。代助は暗さと涼しさのうちに始めて蘇生つた。さうして頭を露に打たせながら、又三千代のゐる所迄 遣つて来きたのである」。
この時の代助には、「日」が恐怖の対象になっている。
この物語において「日」(太陽)、強い日差し、「赤」は、代助の運命を激しく揺さぶり狂わせる要素として登場する。
「代助は三千代の門前を二三度行つたり来たりした。軒燈の下へ来るたびに立ち留つて、耳を澄ました。五分乃至十分は凝としてゐた。しかし家の中の様子は丸で分からなかつた。凡てが寂としてゐた」。
まさにストーカーそのものだ。何とか情報を得ようとしても叶わぬ代助。彼の焦燥は募るばかりだ。
「守宮」は相変わらず「軒燈の硝子にぴたりと身体を貼り付けてゐた。黒い影は斜に映つた儘 何時でも動かなかつた」。それはまるで代助の分身のようだ。
「代助は守宮に気が付く毎に厭な心持がした。其動かない姿が妙に気に掛かつた。彼の精神は鋭どさの余りから来る迷信に陥いつた」。
ヤモリをwebで検索すると、吉兆、縁起がいい、などの文言が出てくる。しかしここではそれがまるで死んだように「動かない」様子から、代助は不吉だと感じたのだろう。「三千代は危険だ」、「三千代は今苦しみつゝある」、「三千代は今死につゝある」、「三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに息を偸んで生きてゐる」、などと想像する。
「代助は拳を固めて、割れる程平岡の門を敲(たゝ)かずにはゐられなくなつた」。しかし「忽ち自分は平岡のものに指さへ触れる権利がない人間だと云ふ事に気が付」く。「代助は恐ろしさの余り馳け出した」。「静かな小路の中に、自分の足音丈が高く響」く。「代助は馳けながら猶恐ろしくなつた」。「呼息が苦し」い。
「道端」の「石段」に、「半ば夢中で其所へ腰を掛けたなり、額を手で抑えて、固くなつた」。
「しばらくして、閉いだ眼を開けて見ると、大きな黒い門があつた。門の上から太い松が生垣の外迄枝を張つてゐた。代助は寺の這入り口に休んでゐた」。これは、「それから」の次作が「門」という題名であることにつながり、やがて代助は救いを求めて「門」の中に入ることになる。
「彼は立ち上が」り、「惘然として又歩き出し」、「再び平岡の小路へ這入」り、「夢の様に軒燈の前で立留つた」。「守宮はまだ一つ所に映つて」いる。「代助は深い溜息を洩らして遂に小石川を南側へ降りた」。
代助にとって三千代は完全なる禁忌となり、彼女に触れることは決して許されない。愛するものとの完全な隔絶。このあたりは、近づくことが許されない代助の心のわだかまりが、短い文章で畳みかけるように綴られる。それによって代助の切迫感を自分の事のように読者は感じるだろう。
「其晩は火の様に、熱くて赤い旋風の中に、頭が永久に回転した。代助は死力を尽して、旋風の中から逃れ出様と争つた。けれども彼の頭は毫も彼の命令に応じなかつた。木の葉の如く、遅疑する様子もなく、くるり/\と焔の風に巻かれて行つた」。
「火」、「赤い旋風」、「焔」により、代助の「頭」は「永久に回転」する。ここでも「赤」が、代助を狂わせる。または狂気が代助に強烈な「赤」をイメージさせる。
この後の代助の人生も、「木の葉の如く」、「くるり/\と焔の風に巻かれて行」くことになるだろう。
「遅疑」…しようかしまいか決しかねて、ぐずぐずすること。
なお、「それから」における「赤」については、全編解釈後にまとめたいと思います。




