夏目漱石「それから」本文と評論16-9「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
◇本文
「ぢや」と平岡は稍声を高めた。「ぢや、僕等二人は世間の掟に叶ふ様な夫婦関係は結べないと云ふ意見だね」
代助は同情のある気の毒さうな眼をして平岡を見た。平岡の険しい眉が少し解けた。
「平岡君。世間から云へば、これは男子の面目に関はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する為に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して来るのは已を得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」
平岡は何とも云はなかつた。代助も一寸控えてゐた。烟草を一吹吹いた後で、思ひ切つた。
「君は三千代さんを愛してゐなかつた」と静かに云つた。
「そりや」
「そりや余計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛してゐる」
「他の妻を愛する権利が君にあるか」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、心迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は其所迄は届きやしない。だから細君の愛を他へ移さない様にするのが、却つて夫の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己を抑える様に云つた。拳を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を更へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其時の記憶が君の頭の中に残つてゐるか」
代助の頭は急に三年前に飛び返つた。当時の記憶が、闇を回る松明の如く輝いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「貰いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「二人で、夜上野を抜けて谷中へ下りる時だつた。雨上がりで谷中の下は道が悪かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋の所迄来た時、君は僕の為に泣いて呉れた」
代助は黙然としてゐた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉しくつて其晩は少しも寐られなかつた。月のある晩だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の様に云つた。それを平岡は打ち切る勢で遮つた。――
「君は何だつて、あの時僕の為に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為に三千代を周旋しやうと盟つたのだ。今日の様な事を引き起す位なら、何故あの時、ふんと云つたなり放つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐を取られる程、君に向つて悪い事をした覚えがないぢやないか」
平岡は声を顫はした。代助の蒼い額に汗の珠が溜つた。さうして訴たへる如くに云つた。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪かつた。今位頭が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為ばかりぢやない。実際君の為に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐を取られて、君の前に手を突いて詫つてゐる」
代助は涙を膝の上に零した。平岡の眼鏡が曇つた。 (青空文庫より)
◇評論
今話は全編を通して表現も内容も前近代的なにおいを感じる。大げさな表現で、人情を主とした内容。
「ぢや、僕等二人は世間の掟に叶ふ様な夫婦関係は結べないと云ふ意見だね」。
この平岡の見立ては間違っている。そもそも代助は前話で平岡夫婦を、「世間の掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がつた夫婦関係とが一致」していないとしたのであり、「世間の掟と定めてある夫婦関係」は平岡夫婦において成立している。だからここで平岡は、自分たちの夫婦関係について、「「自然の事実として成り上がつた夫婦関係」とは言えないのだね」と言うべきだった。(これは、漱石段階での誤りだろうか)
「平岡君。世間から云へば、これは男子の面目に関はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する為に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して来るのは已を得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」。
ここで代助はなぜ互いに「学生時代」に戻ろうと呼びかけたのか。ふたりが以前のようなふたりに戻ることはできない。ふたりは過去に戻ることはできない。このふたつの拘束と、この場面での判断によって、ふたりの未来は決定される。そのことを自分自身分かっているはずなのに、過去にすがろうとする代助。
これを承けて平岡はどうしたものかと考え、「何とも云はなかつた」のだ。
「烟草を一吹吹いた後で、思ひ切つた」。
よくこの場面でタバコが吸えるものだと思う。代助は謝罪する側なのだ。平岡でなかったら、「馬鹿にするな」と言いたいところだ。しかもその後に代助の口から出た、「君は三千代さんを愛してゐなかつた」という言葉。しかもそれは、罪人の余裕を持った「静か」な物言い。平岡の三千代への愛の深さは、誰にも測れない。それを他人である代助が断定的に言う不遜。喧嘩になってもおかしくない「余計な事」だ。
代助は偉そうに続ける。「だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」。まるで探偵のような態度。
(コナン君でなくても、すべての原因は代助にあり、犯罪者が平岡を責める資格はないと断言するだろう)
「事件」や「解決者」という喩えは、この場にふさわしくない。
「「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛してゐる」」
「君には責任がないのか」の答えは、責任があるか無いかのどちらかであり、「僕は三千代さんを愛してゐる」というのは、答えになっていない。はぐらかしの論理。代助の論理では、「三千代への愛」は「責任」を超えることになってしまう。もちろん責任があるのは代助の方だ。それを認めずに三千代への愛を標榜する資格は、代助にはない。
代助に教えるためにまとめると、平岡夫婦の不仲と、代助が三千代を好きなこと(と言い寄ること)は、全く別の事柄・問題だ。代助はそれを自分の都合のいいように混同している。平岡の夫婦仲がうまくいっていないことについて、他者は、静観すればいいし、そうするしかない。三千代が好きだからといって、他人の代助があれこれ言うことができるはずもない。平岡にすれば大きなお世話だ。自分の方が三千代を深く愛しているという事実でもって現在の夫の平岡を責める資格は代助にはないのだ。そこを代助は分かっていないしはき違えている。愛はすべてに優先するわけではない。
従って、「他の妻を愛する権利が君にあるか」という平岡の主張はもっともなものとなる。そんな権利を代助は持ちえない。
しかし代助は「仕方がない」と粘る。
「三千代さんは公然君の所有だ」が、「物件ぢやない人間だから、心迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は其所迄は届きやしない」。三千代という「人間」の「心」は、誰にも「所有」・「命令」(支配)することはできない。それはたとえ「夫」であっても同じだ、と、代助は主張する。
そこまではいい。しかしこれに続く「だから細君の愛を他へ移さない様にするのが、却つて夫の義務だらう」は余計・大きなお世話だ。そんなことを他人に言われる筋合いはない。だから、ここで話が切れてもおかしくなかった。
しかし平岡は対応を続ける。この後の描写が浪花節・通俗的になる。シナリオ化してみる。
平岡「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」
代助「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
平岡「さうだ。其時の記憶が君の頭の中に残つてゐるか。三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
代助「貰いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
平岡「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡「(しばらく瞑想し)二人で、夜上野を抜けて谷中へ下りる時だつた。雨上がりで谷中の下は道が悪かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋の所迄来た時、君は僕の為に泣いて呉れた」
代助、黙然。
平岡「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉しくつて其晩は少しも寐られなかつた。月のある晩だつたので、月の消える迄起きてゐた」
代助「(夢のように)僕もあの時は愉快だつた」
平岡「(打ち切る勢で遮り)君は何だつて、あの時僕の為に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為に三千代を周旋しやうと盟つたのだ。今日の様な事を引き起す位なら、何故あの時、ふんと云つたなり放つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐を取られる程、君に向つて悪い事をした覚えがないぢやないか」(声が震えている)
代助「(額に汗を浮かべ、訴えるように)平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺める。
代助「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪かつた。今位頭が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為ばかりぢやない。実際君の為に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐を取られて、君の前に手を突いて詫つてゐる」(涙を膝の上に零す)
平岡の眼鏡が曇る。
この場面は全体的にとても芝居がかっている。(のでシナリオのようだ)
「~は君だ」。「~は君だ」。の応答は演じられた役者のセリフとしては有効だろうが、そうでなければやや滑稽(な言い回し)だ。
代助と平岡の関係性をまとめる。
・「三年前」に、平岡と三千代は結婚。
【代助】
・三千代を平岡に「周旋」
・平岡の「為に泣い」た
・「あの時は愉快だつた」
・平岡よりも「前から三千代さんを愛してゐた」
・自分の「未来を犠牲にしても」、平岡の「望みを叶へるのが、友達の本分だと思つた」。「若かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過ぎた」。
・「非常な後悔の念に襲はれてゐる」。「あの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心」を後悔
【平岡】
・「今に至る迄」代助の「厚意を感謝してゐる」。
・「貰いたいと云ふ意志を」代助に「打ち明けた」。
・「其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉しくつて其晩は少しも寐られなかつた」。
・代助が自分よりも前から三千代を愛していたことを知らなかった。
その他の内容としては、
・「僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」という理由付けは、代助が平岡から三千代を今奪っていい理由・免罪符にはならない。そのことをどうやら平岡は知らなかったようだが、このようにもったいぶって言うことでもない。
・「若かった」こと、「余りに自然を軽蔑し過ぎた」ことが理由で、「僕の未来を犠牲にしても、君の望みを叶へるのが、友達の本分だと思つた」。
「あの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心」を「後悔」している。この「自然」は、三千代に対する自分本来の気持ちや考えに従うこと。「若かった」代助はそれを軽視し、「義侠心」を優先した。それは不自然なことだった。
・「君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐を取られて、君の前に手を突いて詫つてゐる」。
これは謝罪にはならない。代助は平岡に謝罪していない。
「どうぞ勘弁して呉れ」の相手は、「君」であるはずだ。それなのに「僕は此通り自然に復讐を取られて」と続いてしまっている。これでは代助は、「自然」に対して謝っていることになってしまう。代助が「手を突いて詫つてゐる」前にいるのは、「自然」だ。こんな謝罪にもならない謝罪をされても、平岡はとうてい納得できないだろう。なぜ代助は、こんな者の言い方をするのだろう。心の中で思っていても、それをそのまま口に出して相手に伝える必要はない。そのようなことができない男なのだ。バカ正直で、幼い代助。
「あの時は自分の気持ちをごまかして、三千代さんを君に譲った。しかし彼女への思いを押しとどめることができなくなってしまった。三千代さんも同じ気持ちだ。すまないが彼女と別れてくれないか」
こう言うことはできないものか。こう言っても修羅場は待っているが。
繰り返しになるが、「自然に復讐を取られて、君の前に手を突いて詫つてゐる」という言い方では、代助は平岡ではなく「自然」に謝罪しており、それに無理やり頭を下げさせられているということになる。これは謝罪する者の言葉・態度ではない。
(私なら絶対に許さない。謝る相手が違う)
ここで、「こころ」との対比を見ておきたい。
〇主人公である代助と先生
代助…平岡よりも先に三千代が好きだったが、結婚できなかった
先生…kよりも先にお嬢さんが好きで、結婚
結婚の有無で異なる。
〇愛する人を手に入れた平岡と先生
平岡…愛する三千代と結婚。しかし不仲。
先生…愛するお嬢さんと結婚。しかし暗い夫婦生活。
以上から、平岡と先生は、状況としては似通っている。
〇愛する人を失った代助とk
代助…愛する三千代を平岡に周旋。それを後悔し、三千代を奪おうとする。
k…自殺。
このふたりを比較すると、代助は過去を取り戻そうと三千代に接近するのに対し、kは完全なる自己否定へ向かうという両極の対応をする。
〇平岡とk
平岡…代助よりも後に三千代を好きになるが、三千代と結婚。
k…先生よりも後にお嬢さんを好きになるが、お嬢さんとは結ばれない。
愛する人と結ばれるかどうかで異なる。
まとめると、「それから」の代助は、「義侠心」から友人に三千代を周旋したことを後悔しているのに対し、「こころ」の先生は、エゴのために友人からお嬢さんをむりやり奪ったことを後悔するという逆の関係・設定になっている。前者は、「義侠心」は「自然(本心、本来の願い)」に反していたと考え、後者は、エゴがすべての人を不幸にしたとする。先生のエゴは「自然」の範囲に属するだろう。




