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夏目漱石「それから」本文と評論16-6「私の取計で例月分を送つて上げるから、是で来月迄持ち応へて入らつしやい」

◇本文

 寐る前に門野が夜中投函から手紙を一本出して来た。代助は暗い中でそれを受取つた儘、別に見様ともしなかつた。門野は、

「御宅からの様です。灯火(あかり)を持つて来ませうか」と促す如くに注意した。

 代助は始めて洋燈(ランプ)を書斎に入れさして、其下で、状袋の封を切つた。手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであつた。――

「此間から奥さんの事で貴方も(さぞ)御迷惑なすつたらう。此方(こつち)でも御父様始め兄さんや、私は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御出での時、とう/\御父さんに断然御断りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと諦めてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、後で承りました。其後あなたが御出でにならないのも、全く其為ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上げる日には()どうかとも思ひましたが、矢張り御出でにならないので、心配してゐます。御父さんは打遣(うちや)つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其内来るだらう。其時親爺によく(あやま)らせるが()い。もし来ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは()だ怒つて御出での様子です。私の考では当分昔の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方が入らつしやらない方が却つて貴方の為に()いかも知れません。たゞ心配になるのは月々上げる御金の事です。貴方の事だから、さう急に自分で御金を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で(たま)りません。で、私の取計で例月分を送つて上げるから、御受取の上は是で来月迄持ち(こた)へて入らつしやい。其内には御父さんの御機嫌も直るでせう。又兄さんからも、さう云つて頂く積です。私も()い折があれば、御詫をして上げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が()う御座います。……」

 まだ後が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中に這入つてゐた小切手を引き抜いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。

 代助は洋燈の前にある封筒を、猶つくづくと眺めた。古い寿命が又一ヶ月延びた。(おそ)かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志は難有いにもせよ、却つて毒になる(ばかり)であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭(パン)の為に働らく事を(うけがは)ぬ心を持つてゐたから、嫂の贈物が、此際糧食としてことに彼には(たつと)かつた。

 其晩も蚊帳へ這入(はい)る前にふつと、洋燈を消した。雨戸は門野が立てに来たから、故障も云はずに、其 儘(まゝ)にして置いた。硝子戸だから、戸越にも空は見えた。たゞ昨夕(ゆふべ)より暗かつた。曇つたのかと思つて、わざ/\椽側迄出て、(すか)す様にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた。代助は又蚊帳を(まく)つて這入つた。寐付かれないので団扇をはたはた云はせた。

 家の事は左のみ気に掛らなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭を悩ました。それから平岡との会見の様子も、様々に想像して見た。それも一方(ひとかた)ならず彼の脳髄を刺激した。平岡は明日の朝九時頃あんまり暑くならないうちに来るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて()う切り出さう抔と形式的の文句を考へる男ではなかつた。話す事は始めから(きま)つてゐて、話す順序は其時の模様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく熟睡したいと心掛けて(まぶた)を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕(ゆふべ)よりは却つて寐苦しかつた。其内夏の夜がぽうと(しら)み渡つて来た。代助は(たま)りかねて跳ね起きた。跣足(はだし)で庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出を待つてゐるうちに、うと/\した。 (青空文庫より)


◇評論

「寐る前に門野が夜中投函から手紙を一本出して来た」。「手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであつた」。

嫂の手紙の内容を整理する。

・父…「打遣(うちや)つて置け」。父の怒りは強く深い。

・兄…「困つたら其内来るだらう。其時親爺によく(あやま)らせるが()い。もし来ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやる」。兄は「例の通り呑気」で怒りは父よりは弱く、以前とそれほど変わらず代助を等閑視する。

・「結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい」。これは実際にこの通りかは微妙なところだ。父は自分の事業の支えとするために代助に結婚を勧めていた。従って、父の事業次第の部分がある。だから、「尤も御父さんは()だ怒つて御出での様子です」となる。「当分昔の通りになる事は、六づかしい」。「それを考へると、貴方が入らつしやらない方が却つて貴方の為に()い」。

・「たゞ心配になるのは月々上げる御金の事」。「貴方の事だから、さう急に自分で御金を取る気遣はなからうと思ふ」。気の毒だから、「私の取計で例月分を送つて上げる」。

・「来月迄持ち(こた)へ」ているうちに、「御父さんの御機嫌も直るでせう。又兄さんからも、さう云つて頂く積です。私も()い折があれば、御詫をして上げます」。

日々の金に困る義弟を憐み救おうと、嫂は内々に生活費の援助を申し出る。人情に篤く、義弟思いの嫂の姿が、ここにも表れる。


「まだ後が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた」。これは、代助と一心同体になっている語り手の説明。嫂のサポートはありがたくも手紙は冗長だということ。


「代助は中に這入つてゐた小切手を引き抜いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂に致した」。人情を解する嫂によって、代助は生き延びることができる。「古い寿命が又一ヶ月延びた」。


「梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた」。「字は」「拙」でも、心は温かい。「代助の勧め」に従う唯一の存在。


「古い寿命が又一ヶ月延びた。(おそ)かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志は難有いにもせよ、却つて毒になる(ばかり)であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭(パン)の為に働らく事を(うけがは)ぬ心を持つてゐたから、嫂の贈物が、此際糧食としてことに彼には(たつと)かつた」。この部分も代助の心情と語り手の説明が重なっている。

「平岡と事を決する前は、麺麭(パン)の為に働らく事を(うけがは)ぬ心を持つてゐた」などと悠長なことを言っている場合ではない。すぐにでも職探しをしなければならない。それが三千代のこれからの人生を支えようとする代助にとって、一番大事なことだ。つくづく甘ちゃんで困った男。平岡との対面を戦いに喩えて「事を決する」と言い、またそれに備えた「糧食」と嫂の金を喩えることは、「麺麭(パン)の為に働らく」からの連想表現だろうが、このような表現をここで用いるのは下品だ。


「雨戸は門野が立てに来たから、故障も云はずに、其 儘(まゝ)にして置いた。硝子戸だから、戸越にも空は見えた」。硝子戸の雨戸。


「曇つたのかと思つて、わざ/\椽側迄出て、(すか)す様にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた」。

流れ星は凶兆であり、人魂であるとする地域もある。代助と三千代の未来は暗いことを、代助は更に不安に思い、「寐付かれない」。


「家の事は左のみ気に掛らなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた」。こうは述べているが、「家の事」も「職業」もどうにかする必要があり、ここではとりあえず保留にするということだろう。代助に、「度胸を据ゑ」ることは困難だ。


「三千代の病気と、其源因と其結果」、更には「平岡との会見の様子」が、「一方(ひとかた)ならず彼の脳髄を刺激した」。「成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する」だろうかということ。

「一夜の安静を切に冀」い、「成るべく熟睡したいと心掛けて(まぶた)を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕(ゆふべ)よりは却つて寐苦しかつた」。「其内夏の夜がぽうと(しら)み」、「(たま)りかねて跳ね起き」、「跣足(はだし)で庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏」み、「夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出を待つてゐるうちに、うと/\した」。平岡の来訪までの時間を、まんじりともせず不如意に過ごす様子。

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