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夏目漱石「それから」本文と評論16-5「えゝ、何でも奥さんが御悪い様です」

◇本文

 翌日は平岡の返事を心待ちに待ち暮した。其明日(そのあくるひ)()てにして終日 (うち)にゐた。三日四日と経つた。が、平岡からは何の便りもなかつた。其中(そのうち)例月(れいげつ)の通り、青山へ金を貰ひに行くべき日が来た。代助の懐中は甚だ手薄になつた。代助は此前父に逢つた時以後、もう宅からは補助を受けられないものと覚悟を()めてゐた。今更平気な顔をして、のそ/\出掛て行く了見は丸でなかつた。(なに)二ヶ月や三ヶ月は、書物か衣類を売り払つても()うかなると腹の中で(たか)を括(くゝ)つて落ち付いてゐた。事の落着次第 (ゆつく)り職業を探すと云ふ分別もあつた。彼は平生から人のよく口癖にする、人間は容易な事で餓死するものぢやない、何うにかなつて行くものだと云ふ半諺(はんことわざ)の真理を、経験しない前から信じ出した。

 五日目に暑さを冒して、電車へ乗つて、平岡の社迄出掛けて行つて見て、平岡は二三日出社しないと云ふ事が分つた。代助は表へ出て薄汚ない編輯局の窓を見上げながら、足を運ぶ前に、一応電話で聞き合はすべき筈だつたと思つた。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、夫れさへ疑はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを出したからである。帰りに神田へ廻つて、買ひつけの古本屋に、売払ひたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ。

 其晩は水を打つ勇気も失せて、ぼんやり、白い網襯衣(あみしやつ)を着た門野の姿を眺めてゐた。

「先生今日は御疲れですか」と門野が馬尻(ばけつ)を鳴らしながら云つた。代助の胸は不安に()されて、明らかな返事も出なかつた。夕食のとき、飯の味は殆んどなかつた。呑み込む様に咽喉(のど)を通して、箸を投げた。門野を呼んで、

「君、平岡の所へ行つてね、先達(せんだつ)ての手紙は御覧になりましたか。御覧になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて来て呉れ玉へ」と頼んだ。猶要領を得ぬ恐れがありさうなので、先達てこれ/\の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して聞かした。

 門野を出した後で、代助は椽側に出て、椅子に腰を掛けた。門野の帰つた時は、洋燈(ランプ)を吹き消して、暗い中に(じつ)としてゐた。門野は暗がりで、

「行つて参りました」と挨拶をした。「平岡さんは御居でゞした。手紙は御覧になつたさうです。明日の朝行くからといふ事です」

左様(さう)かい、御苦労さま」と代助は答へた。

「実はもつと早く出るんだつたが、うちに病人が出来たんで遅くなつたから、(よろ)しく云つてくれろと云はれました」

「病人?」と代助は思はず問ひ返した。門野は暗い中で、

「えゝ、何でも奥さんが御悪い様です」と答へた。門野の着てゐる白地の浴衣(ゆかた)丈がぼんやり代助の眼に入つた。夜の明りは二人の顔を照らすには余り不充分であつた。代助は掛けてゐる籐と椅子の肱掛(ひぢかけ)を両手で握つた。

「余程悪いのか」と強く聞いた。

()うですか、能く分かりませんが。何でもさう軽さうでもない様でした。然し平岡さんが明日御出でになられる位なんだから、大した事ぢやないでせう」

 代助は少し安心した。

「何だい。病気は」

「つい聞き落しましたがな」

 二人の問答は夫れで絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入つた。静かに聞いてゐると、しばらくして、洋燈(ランプ)(かさ)をホヤに()つける音がした。門野は灯火(あかり)()けたと見えた。

 代助は夜の中に猶 (じつ)としてゐた。凝としてゐながら、胸がわく/\した。握つてゐる肱掛(ひぢかけ)に、手から(あぶら)が出た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。門野のぼんやりした白地が又廊下のはづれに現れた。

「まだ暗闇ですな。洋燈を点けますか」と聞いた。代助は洋燈を断つて、もう一度、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為だか、()うだか、と云ふ点に至る迄、考へられる丈問ひ尽した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な(あて)ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人で黙つてゐるよりも(こら)(やす)かつた。 (青空文庫より)


◇評論

「心待ちに待ち暮」す代助だが、「平岡の返事」はなかなか来ない。彼はこの物語において、待たされる人だ。先日は、父との面会に待たされた。


其中(そのうち)例月(れいげつ)の通り、青山へ金を貰ひに行くべき日が来た。代助の懐中は甚だ手薄になつた」。「(なに)二ヶ月や三ヶ月は、書物か衣類を売り払つても()うかなると腹の中で(たか)を括(くゝ)つて落ち付いてゐた」。金に困ったことのないお坊ちゃんの、甘く見通しのない考え。

「事の落着次第 (ゆつく)り職業を探すと云ふ分別もあつた」。今の代助は、「事の落着」を待てる身分ではない。いかにものんびりした様子は、語り手からも批判される。「彼は平生から人のよく口癖にする、人間は容易な事で餓死するものぢやない、何うにかなつて行くものだと云ふ半諺(はんことわざ)の真理を、経験しない前から信じ出した」。


「五日目に暑さを冒して、電車へ乗つて、平岡の社迄出掛けて行つて見て」も、やはり平岡にはなかなか会えない。

「帰りに神田へ廻つて、買ひつけの古本屋に、売払ひたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ」のは、いくらかでもこれからの生活費を捻出するため。

「其晩は水を打つ勇気も失せ」、「胸は不安に()され」、「夕食のとき、飯の味は殆んどなかつた。呑み込む様に咽喉(のど)を通して、箸を投げた」。三千代の様子が気になり、また早く平岡に会って処決したいのにそれがなかなか叶わない鬱屈。

代助は門野を走らせ、やっと、「手紙は御覧になつたさうです。明日の朝行くからといふ事です」という返事を得る。


これに続く、

「実はもつと早く出るんだつたが、うちに病人が出来たんで遅くなつたから、(よろ)しく云つてくれろと云はれました」

「病人?」と代助は思はず問ひ返した。門野は暗い中で、

「えゝ、何でも奥さんが御悪い様です」との答えに、読者も思わず「エッ」と思っただろう。はかなく一途な三千代への感情移入が、それだけ進んでいるからだ。これに対し代助には、「しっかりせい」と活を入れたくなる。三千代の一途さと、代助の頼りなさの対照が際立つ物語。


しかしそれ以上の情報を、門野からは得られない。「二人の問答は夫れで絶えた」。

「自分の部屋へ這入」り、「夜の中に猶 (じつ)としてゐ」る彼は、「凝としてゐながら、胸がわく/\した。握つてゐる肱掛(ひぢかけ)に、手から(あぶら)が出た」。この「わくわく」は、喜びの高揚ではなく、体調不良の三千代が心配で、胸がドキドキしていたことを表す。


「代助は又手を鳴らして門野を呼び出した」。「もう一度、三千代の病気を尋ねた」が、やはり「門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な(あて)ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人で黙つてゐるよりも(こら)(やす)かつた」。

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