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夏目漱石「それから」本文と評論16-3「放つて置いたつて、永く生きられる身体ぢやないぢやありませんか」

◇本文

 「僕には夫程信用される資格がなささうだ」と苦笑しながら答へたが、頭の中は焙炉(ほいろ)の如く火照(ほて)つてゐた。然し三千代は気にも掛からなかつたと見えて、何故とも聞き返さなかつた。たゞ簡単に、

「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は真面目になつた。

「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より頼りにならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話して仕舞ふが」と前置きをして、()れから自分と父との今日迄の関係を詳しく述べた上、

「僕の身分は是から先何うなるか分らない。少くとも当分は一人前ぢやない。半人前にもなれない。だから」と云ひ淀んだ。

「だから、何うなさるんです」

「だから、僕の思ふ通り、貴方に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです」

「責任つて、()んな責任なの。もつと判然(はつきり)仰しやらなくつちや解らないわ」

 代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の満足に価しないと云ふ事丈を知つてゐた。だから富が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、()れより(ほか)に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた。

「徳義上の責任ぢやない、物質上の責任です」

「そんなものは欲しくないわ」

「欲しくないと云つたつて、是非必要になるんです。是から先僕が貴方と()んな新らしい関係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」

「解決者でも何でも、今更 左様(そん)な事を気にしたつて仕方がないわ」

「口ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは眼に見えてゐます」

 三千代は少し色を変へた。

「今貴方の御父様の御話を伺つて見ると、()うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。貴方だつて、其位な事は()うから気が付いて()らつしやる筈だと思ひますわ」

 代助は返事が出来なかつた。頭を抑えて、

「少し脳が()うかしてゐるんだ」と(ひと)り言の様に云つた。三千代は少し涙ぐんだ。

「もし、夫れが気になるなら、私の方は何うでも()う御座んすから、御父様と仲直りをなすつて、今迄通り御 交際(つきあひ)になつたら好いぢやありませんか」

 代助は急に三千代の手頸(てくび)を握つてそれを振る様に力を入れて云つた。――

「そんな事を()る気なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから貴方に(あやま)るんです」

「詫るなんて」と三千代は声を(ふる)はしながら(さへぎ)つた。「私が源因(もと)左様(さう)なつたのに、貴方に詫らしちや済まないぢやありませんか」

 三千代は声を立てゝ泣いた。代助は慰撫(なだめ)る様に、

「ぢや我慢しますか」と聞いた。

「我慢はしません。当り前ですもの」

「是から先まだ変化がありますよ」

「ある事は承知してゐます。何んな変化があつたつて構やしません。私は此間(このあひだ)から、――此間から私は、()しもの事があれば、死ぬ積で覚悟を()めてゐるんですもの」

 代助は慄然(りつぜん)として(おのの)いた。

「貴方に是れから先 ()うしたら好いと云ふ希望はありませんか」と聞いた。

「希望なんか無いわ。何でも貴方の云ふ通りになるわ」

「漂泊――」

「漂泊でも好いわ。死ねと仰しやれば死ぬわ」

 代助は又 (ぞつ)とした。

「此儘(このまゝ)では」

「此儘でも構はないわ」

「平岡君は全く気が付いてゐない様ですか」

「気が付いてゐるかも知れません。けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時(いつ)殺されたつて好いんですもの」

「さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない」

「だつて、放つて置いたつて、(なが)く生きられる身体(からだ)ぢやないぢやありませんか」

 代助は(かた)くなつて、竦(すく()むが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里(ヒステリ)の発作に襲はれた様に思ひ切つて泣いた。

(青空文庫より)


◇評論

今話は、覚悟を決めた女とふがいない男が対照的に描かれる。


「「僕には夫程信用される資格がなささうだ」と苦く笑しながら答へた」は、前話の、「貴方あなたは夫程僕を信用してゐるんですか」「信用してゐなくつちや、斯かうして居られないぢやありませんか」を承けた部分。

「信用される資格」が無いのであれば、早々に退散すべきだ。(が、代助はそうしない)


「代助は真面目になつた」の後には、「これから仕事を探そうと思う」が続くと思いきや、「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より頼りにならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな話して仕舞ふが」という言葉が続く。ふがいなく頼りない代助の様子に、こんな男だったのかと幻滅する女性も多いだろう。

この後代助は、「自分と父との今日迄の関係を詳しく述べ」、「僕の身分は是から先何うなるか分らない。少くとも当分は一人前ぢやない。半人前にもなれない。だから」と言いよどむ。そもそも彼は、「職業」を忌避している。身分がどうなるかわからないレベルではない。従ってここで代助は、自分を少しでも良く見せようとしている。三千代を愛するならば、彼女に関わってはいけない男なのだ。彼女を不幸にするだけだ。


「だから、何うなさるんです」という三千代の当然の追及に、「だから、僕の思ふ通り、貴方に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです」。「責任が尽せない」者に、三千代を愛する資格はない。

「責任つて、()んな責任なの。もつと判然(はつきり)仰しやらなくつちや解らないわ」とさらに追及する三千代。

「物質的状況」、「貧苦」、「富が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、()れより(ほか)に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた」。三千代には代助への愛がある。それさえあれば、何でも乗り越えられると彼女は考えている。そこが、「物質的状況」にこだわり第一に考える代助との大きな違いだ。

「富」について三千代は、「そんなものは欲しくない」、「今更 左様(そん)な事を気にしたつて仕方がない」と断ずる。愛は貧苦を超えるのだ。


「口ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは眼に見えてゐます」と、あくまでもこだわる代助に、「三千代は少し色を変」え、「今貴方の御父様の御話を伺つて見ると、()うなるのは始めから解つてるぢやありませんか。貴方だつて、其位な事は()うから気が付いて()らつしやる筈だと思ひますわ」と、客観的事実を論理的に組み立てて述べる。彼女の言うとおり、まさに「()うなるのは始めから解つてる」・「其位な事は()うから気が付いて」いることだ。代助はこの点について盲目だったというしかない。彼は一番大切な事柄を曖昧に放置していた。自分で自分をごまかしていた。甘ちゃんであり高等遊民極まれりということ。三千代への愛に盲目となり、その成就のためには働かねばならないことをわざと看過してきた。

このように三千代に冷静に諭され、当然「代助は返事が出来」ず、「頭を抑え」ることになる。ふだんあれほど頭脳明晰な代助がこの体たらく。「「少し脳が()うかしてゐるんだ」と(ひと)り言の様に云つた」情けない男に、「三千代は少し涙ぐんだ」。

そうして彼女は再び客観的にしかも冷たく告げる。「もし、夫れが気になるなら、私の方は何うでも()う御座んすから、御父様と仲直りをなすつて、今迄通り御 交際(つきあひ)になつたら好いぢやありませんか」。まさに彼女の言うとおりだ。結局代助は、今までの親がかりの生活を続けたいのだ。楽に遊んで暮らしていけるし、美的空想の世界にたゆたうことができる。


三千代の言葉に「代助は急に三千代の手頸(てくび)を握つてそれを振る様に力を入れて云つた。――「そんな事を()る気なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから貴方に(あやま)るんです」」。

この代助の反論はおかしい。

三千代の、「もし、夫れ(金)が気になるなら、私の方は何うでも()う御座んすから、御父様と仲直りをなすつて、今迄通り御 交際(つきあひ)になつたら好いぢやありませんか」への反論には、「いや、父親との仲直りも、今まで通りの交際も考えていない。あなたとの生活に必要な金は、私がちゃんと働いて稼ぐから、安心しなさい」と言わなければならない。それなのに代助は、「あなたが気の毒で謝りたい」と言う。何を言いたいのかがわからない、意味不明な謝罪。ここで謝られても三千代はどうしようもないし、何について謝られているのかもわからないだろう。自分との生活によって愛する人が「気の毒」な状態にならないようにするのが代助の努め・義務だろう。平岡から奪おうとしているのだ。それによって一層不幸に陥れるのは、愛人のすることではない。もし代助が三千代に謝るとしたら、「働くのが死ぬほど嫌いな僕を許して」と正直に言わねばならない。代助はやはり、三千代から手を引くべきだった。三千代も代助を見限るべきだった。


しかし三千代は代助の論理に乗りつつ優しく諭す。「「詫るなんて」と三千代は声を(ふる)はしながら(さへぎ)つた。「私が源因(もと)左様(さう)なつたのに、貴方に詫らしちや済まないぢやありませんか」」。代助の論理は無茶苦茶なのだが、彼女はそれに沿って代助を慰めた。

三千代は代助の何に惚れたのだろう?


「三千代は声を立てゝ泣いた」。彼女のこの涙には、さまざまな辛いものが含まれている。世間からは認められない代助への愛の苦しみ。平岡との夫婦関係。これからの自分たちの行く末の頼りなさ。


「代助は慰撫(なだめ)る様に、「ぢや我慢しますか」と聞いた」。この「我慢」には様々な意味がある。代助は生活の困窮を「我慢」できるかと尋ねているが、三千代にしてみればこんな頼りない男との生活が「我慢」できるかと問われているのと同じだ。


「我慢はしません。当り前ですもの」

この三千代の言葉の意味は、どんな困難にも耐えてふたりの人生を生きていくという宣言。


「「是から先まだ変化がありますよ」

「ある事は承知してゐます。何んな変化があつたつて構やしません。私は此間(このあひだ)から、――此間から私は、()しもの事があれば、死ぬ積で覚悟を()めてゐるんですもの」

 代助は慄然(りつぜん)として(おのの)いた」。

三千代の愛は「死」を「覚悟」した命がけのものだ。「慄然(りつぜん)として(おのの)」く代助には、その覚悟が無かったことが分かる。世から弾き飛ばされようとしている自分たちの運命を、彼はとても甘く考えている。見通しの甘さが決定的だ。

それに気づいた代助も、ここで「覚悟」を決めるべきだった。「自分も働き、ふたりの生活を成り立たせる覚悟だ」と。


それで終わるべきなのに、まだ彼は三千代に尋ねる。聞かんでもいいこと、聞いても仕方が無いことを。

「貴方に是れから先 ()うしたら好いと云ふ希望はありませんか」。

ここで代助は、「これから自分はこうしたいと考えている」という、自分の考えや方針を示すべきだった。三千代の意向を聞いてもいいが、彼は他者に頼りすぎている。他者によって自分の行く末を決めてもらおうとしている。


「希望なんか無いわ。何でも貴方の云ふ通りになるわ」。三千代は代助との人生を心に決めている。


「漂泊――」。

なぜここでこの言葉が出てくるのだろう。「別の土地で自分が働くから、そこで生活しよう」ではないのか。


「漂泊でも好いわ。死ねと仰しやれば死ぬわ」。

この三千代のセリフはやや前近代的だ。世に認められぬ恋に待つのは「死」しかないという考え方。


「代助は又 (ぞつ)とした」。三千代の覚悟におののく代助。


「此儘(このまゝ)では」。その程度の覚悟では、ふたりの人生を歩むことはできないだろう。三千代の覚悟に対し、弱気になる代助。


「「平岡君は全く気が付いてゐない様ですか」

「気が付いてゐるかも知れません。けれども私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて何時(いつ)殺されたつて好いんですもの」」

「殺される」も前近代的だ。刃傷沙汰に及ぶ可能性を示す三千代。また、確かに平岡の動向は気になるだろうが、三千代にとってそれはもはやどうでもいいことだ。ここに代助と三千代の「覚悟」の落差が表れる。


「さう死ぬの殺されるのと安つぽく云ふものぢやない」。代助はやや冗談めかして「安つぽく」と述べたが、三千代は本気だ。


「だつて、放つて置いたつて、(なが)く生きられる身体(からだ)ぢやないぢやありませんか」。これがこの時の三千代の現実。彼女は命がけで代助への愛を貫き通そうとしている。

そのことにまるで気づいていないかのような愚鈍な代助は、「(かた)くなつて、竦(すく()むが如く三千代を見詰め」ることしかできない。三千代が「歇私的里(ヒステリ)の発作に襲はれた様に思ひ切つて泣いた」のには、自分の命のはかなさ、真の愛が世間から祝福されない辛さ、過去の自分たちの選択が決定的に誤った悔恨、などの様々な感情がいっぺんに彼女の胸を襲ったからだ。

これに付け加えて読者は、代助の余りのふがいなさに、三千代の哀れを感じるだろう。


死を自覚した三千代は、せめてわずかに残された人生を、真に愛する人のために生きたいと思ったのだ。自分の心をごまかさずに生きること。それは世の道徳・倫理に反することであっても、この愛を貫きたい。

彼女の命がけの愛は尊いが、その相手の男が何とも頼りない。彼女の決意の言葉によって彼は初めて自分の立つ位置を自覚する。このような愛がハッピーエンドで終わることは難しいだろう。最後の愛に生きようとした女の不幸は、読者をやりきれない気持ちにさせる。


男が抱える欠点や見誤り、コミュニケーション不足によって、そのそばにいる女も不幸になる物語が、漱石の作品には描かれる。愛する者を幸せにするための「職業」(仕事・労働)を徹底的に忌避する代助が、平岡から三千代を奪う資格があるのかどうか。彼は自身にそれを問うことをしない。

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