1 ラジオヨハンナ
『……今朝の気温はマイナス三十度だねぇ。天気は猛吹雪。軽い人なら吹き飛ばされちゃうから、外出は控えたほうがいいねぇ』
店内のスピーカーから、女の声が聞こえていた。
『まあ、こんな日に外出したくなる気持ちも、わからなくはないけどねぇ。ふっふっふ。それでは、次の曲、行ってみようかねぇ……』
軽快なポップソングが流れ始めた。
ヴィルテ・コントリマイテは、スマートフォンから顔を上げた。
「……」
どこかで聞いたような声だった。
妙に間延びした口調。
それから、笑い方。
「……」
ヴィルテは少し考えた。
いや。
まさか。
そう思って、またスマートフォンに視線を戻した。
午前九時過ぎ。
ヴィルテは、Oic Cornerの窓際に座っていた。
目の前には、空になった紙カップが二つ。
LサイズとXLサイズ。
どちらにも、少しだけ蕎麦の汁が残っている。
朝食としては、十分すぎる量だった。
むしろ食べすぎた。
「……」
ヴィルテはお腹に手を当てた。
満腹だった。
外は猛吹雪。
学校は休校。
帰宅しようにも、歩いて帰れるような天候ではない。
どうしようかな。
そんなことを考えながら、ヴィルテは店内に掲示されていたQRコードを読み取っていた。
表示されたのは、Oicホールディングスの公式サイトだった。
店舗紹介。
サービス案内。
利用規約。
施設設備。
ヴィルテは画面をスクロールした。
自分がいるのは、Oic Corner Japoniskai。
日本風の軽食を中心に提供する、Oic Cornerの一業態らしい。
はるか遠い東洋の島国、日本。
その国にある立ち食い蕎麦屋や牛丼屋などを、コンビニエンスストアと組み合わせた店舗なのだという。
「……へえ」
ヴィルテは店内を見渡した。
蕎麦。
うどん。
ラーメン。
おにぎり。
寿司。
牛丼。
お茶漬け。
それから、十八種類のシリアル。
日本風と言いながら、シリアルまである。
そのあたりは、Oicらしいのかもしれない。
もっとも、ヴィルテはOicについて、まだそれほど詳しくなかった。
サイトによれば、Oic Cornerには他にもいろいろな種類があるらしい。
Oic Corner USA。
ハンバーガーやホットドッグなど、アメリカ風のジャンクフードを中心に提供する店舗。
Oic Corner EU。
サンドイッチやスープ、パンなど、ヨーロッパ風の軽食を扱う店舗。
その他にも、地域や需要に応じて、いくつかの業態が存在するようだった。
「……」
ヴィルテは画面をスクロールした。
店舗の写真が並んでいる。
大きな窓。
長いカウンター。
クッションのついた椅子。
テーブル。
コンセント。
充電設備。
場所によっては、デスクトップパソコンまで置かれていた。
ゲームをしている人。
勉強している学生。
ノートパソコンを広げている人。
コーヒーを飲みながら本を読んでいる人。
みんな、ずいぶんくつろいでいる。
「……」
ヴィルテは、ちらりとカウンターを見た。
店員がいた。
金髪の若い男。
先ほど、蕎麦を注文したときに対応してくれた店員だった。
彼はレジの前に立ち、何やら作業をしている。
ヴィルテは視線を戻した。
実は、さっきから少し気になっていた。
店員の視線である。
何度か、こちらを見られたような気がする。
気のせいかもしれない。
しかし、蕎麦を二杯食べ終わっているのに、まだ店にいる。
しかも、これから帰る予定もない。
長居していると思われているのだろうか。
そう考えると、なんとなく居心地が悪かった。
だから、QRコードを読み取った。
この店に興味があります。
企業について調べています。
そういう顧客を演じてみたのである。
我ながら、よくわからない行動だった。
しかし。
「……」
ヴィルテは画面を見つめた。
どうやら、そんな必要はなかったらしい。
Oicホールディングスは、イートインスペースでの長時間滞在を推奨していた。
勉強。
仕事。
読書。
ゲーム。
休憩。
飲食以外の目的でも、自由に利用できるという。
店内設備の案内には、電源の利用方法や、持ち込み機器についての説明まで載っていた。
「……なんだ」
ヴィルテは小さく呟いた。
つまり、いていいらしい。
蕎麦を食べ終わっても。
何も注文しなくても。
ここに座っていていい。
ヴィルテは背もたれに身体を預けた。
椅子にはクッションがついていた。
柔らかかった。
「……ふう」
楽になった。
店員がこちらを見た気がした。
ヴィルテは、もう気にしなかった。
◇
窓の外は、白かった。
建物。
街路樹。
歩道。
道路。
何もかも、吹雪の向こうに霞んでいる。
ときどき、突風が吹く。
そのたびに、雪が横向きに流れていった。
ごう。
ごう。
窓ガラスが小さく震える。
ヴィルテは頬杖をついた。
何もすることがない。
スマートフォンでゲームをしてもいい。
動画を見てもいい。
本を読んでもいい。
しかし、今はどれもあまり気が進まなかった。
ただ、ぼんやりしていたい。
そんな気分だった。
ヴィルテは窓の外を眺めた。
ごう。
白いものが流れていく。
雪。
雪。
雪。
それから。
「……?」
何かが流れていった。
右から左へ。
窓の向こう。
猛吹雪の中を。
何か。
人のような。
見覚えのある。
金髪の。
くるくる回っている。
「……」
ヴィルテは目を凝らした。
もういなかった。
吹雪に運ばれて、通りのはるか先へ流れていったらしい。
「……?」
ヴィルテは首を傾げた。
今のは。
いや。
まさか。
「……」
少し考えた。
そして、考えるのをやめた。
世の中には、気にしてもしょうがないことがある。
それを、昨晩学んだばかりだった。
いや、正確には今日の未明だった。
ヴィルテは背もたれに身体を預けた。
悟りヨハンナ。
あの人の顔が浮かんだ。
『食は人生を豊かにしてくれるからねぇ』
「……」
ヴィルテは空の紙カップを見た。
蕎麦。
Lサイズ。
XLサイズ。
二杯。
十分だった。
もう食べられない。
悟りヨハンナなら、まだ食べるかもしれない。
いや、食べるだろう。
おかわりができないと、しゅんとしていたくらいだから。
「……」
ヴィルテは小さく笑った。
あの人は、今ごろ何をしているのだろう。
Oic Placeで寝ているのか。
シリアルを食べているのか。
それとも。
ヴィルテは窓の外を見た。
白い。
「……」
まあ、いい。
◇
ポップソングが終わった。
最後の音が消え、短いジングルが流れる。
そして。
『……さて』
女の声が戻ってきた。
『それでは、次のコーナーは占いだねぇ』
ヴィルテは顔を上げた。
『みんなは星座占いと血液型占い、どっちがいいかい?』
「……」
『ふっふっふ。そうだったねぇ。わたしも日本に行くまで知らなかったんだけどねぇ、日本には血液型占いというものがあるのさ』
ヴィルテは眉をひそめた。
また、この声だ。
『日本人は、血液型をそれなりに意識しながら生活していてねぇ。A型は几帳面、B型は自由奔放、O型はおおらか、AB型は……なんだったかな。ふっふっふ』
何だったかな、ではない。
ヴィルテは思った。
ラジオの女は、構わず続けた。
『もちろん、科学的な根拠があるというわけではないんだけどねぇ。こういうのは、会話のきっかけとしては面白いものさ』
少し間が空いた。
『……おや、日本人からのコメントかな?』
また間が空く。
『「それほど気にしてないっす」』
「……」
『ふっふっふ、なるほどねぇ』
納得したらしい。
『まあ、そうだろうねぇ。日本人といっても一億人以上いるわけだからねぇ。みんなが同じことを考えているわけじゃないのさ』
ヴィルテは頬杖をついた。
もっともなことを言っている。
『あとは、あの国には干支もあってねぇ』
話が変わった。
『十二種類の動物を使って、生まれた年を表す文化があるのさ。ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ……ふっふっふ。面白いねぇ』
ヴィルテはスマートフォンを置いた。
なんだか、妙なラジオだった。
話題があちこちへ飛ぶ。
話す速度は遅い。
間が長い。
そして、ときどき笑う。
『ちなみに、日本の朝のニュース番組では、毎日占い結果が流れることもあるんだよ。今日の運勢がいいとか悪いとかねぇ』
ヴィルテは窓の外を見た。
猛吹雪。
マイナス三十度。
学校は休校。
朝から蕎麦を二杯。
昨夜は、ほとんど眠っていない。
そして、窓の外を何かが流れていった。
今日の運勢は、どうなのだろう。
『さて、じゃあ今日は星座占いにしようかねぇ』
ラジオの女が言った。
『ふっふっふ。血液型の話をしたばかりだけど、星座占いにしよう』
「……」
なぜだ。
『まずは牡羊座からだねぇ。今日の牡羊座は……』
紙をめくるような音がした。
『……』
沈黙。
『……ふっふっふ』
笑った。
『……なるほどねぇ』
何がなるほどなのか。
ヴィルテはスピーカーを見上げた。
『今日の牡羊座は、予想外の出来事に注意、だそうだよ』
「……」
『まあ、予想外の出来事というのは、予想できないから予想外なんだけどねぇ』
ヴィルテは、少しだけ口元を緩めた。
確かに。
『でも、何が起こるかわからないからこそ、人生は面白いのさ。ふっふっふ』
ラジオの女は、楽しそうだった。
ヴィルテは窓の外を見た。
ごう。
雪が流れていく。
何も見えない。
また、何かが流れていくかもしれない。
できれば、流れていってほしくなかった。
『……さて、次は牡牛座だねぇ』
女の声が続く。
ヴィルテは頬杖をついた。
どこかで聞いたような声。
どこかで聞いたような口調。
どこかで聞いたような笑い方。
いや。
まさか。
ヴィルテは首を振った。
そんなはずはない。
そんなに何人もいるわけがない。
……いや。
何人もいるのだった。
「……」
ヴィルテは天井のスピーカーを見つめた。
ラジオの女は、相変わらず楽しそうに喋っていた。
『……というわけで、今日もラジオヨハンナがお送りしているよ。ふっふっふ』
「……」
ヴィルテは目を閉じた。
ゆっくりと。
深く。
そして、呟いた。
「……またか」
窓の外は、猛吹雪だった。




