二話目
そういえばコハルさんは手紙、電子テキストその他諸々が好きではない。むしろ嫌悪していると言っても過言ではない。だから年賀状を送ろうものなら窓を乱暴に開け、「たった5メートルの運搬に50円もかけるな!」と大声を張り上げ、送った年賀状を紙飛行機にして飛ばしてくるのである。めでたい年始めに、お礼を言われるならまだしもこんな仕打ちを受けるので、まだ精神が未熟だった幼い僕にとってトラウマになったのは言うまでもない。とはいえ、「コハルさんが僕のために折ってくれたから」と言って、涙目で庭先にまで下りていき、土のついたその紙飛行機を大事に取っておくような人間だったので、常軌を逸しているのは僕もお互い様なんだろう。
彼女がそれまでして手紙が嫌いと言う理由は明白で、明らかにその"能力"のせいだろう。彼女は書かれた文字に対して自由に操れる能力を持っている。だからもし僕がコハルさんを忌み嫌い、その能力について罵詈雑言をしたためた手紙を送りつけたとしても、何の造作もなく季節の挨拶とかがきちんと書いてある普通の手紙に、僕と全く同じ筆跡で"書き直す"ことが可能だ。だがもちろんそんな手紙を僕からもらったという記憶は塗り替えることは出来ないだろうし、まして僕がコハルさんを嫌っているという点は変わりない。あっもちろん、僕がコハルさんが嫌いという到底成り立たない仮定の上でだが。そんな表面的な部分を取り繕ってもその分空虚な気持ちになってしまうのだろう、現実から目を背けてるようで。僕ら一般人からしたら、手紙という媒体は最も確実な媒体で「あの人からもらった大切な手紙だから」と捨てられずずっと手元に置くようなものだが、彼女にとってはそうではないのだろう。自分が自由に想いを書き換えられるような最も不確かな媒体。
ところかわって僕はというと、その純粋すぎる狂気を育むことなく、まっとうに育ってきた、つもりだ。だからコハルさんと人並みのコミュニケーションが取れるように工夫してきた。
糸電話をやったこともあった。まるで青春小説のひとコマみたいだったが、天候が悪いと使い物にならなかったし、生まれつき僕の耳が悪いせいか会話のキャッチボールが成り立たなかったし、最たるものはなんと言っても受話器(という呼び方であってるのだろうか)をずっと糸が張るように持ってないといけないことだ。持つのが面倒なコハルさんが眠ったのに気づかず、必死に呼び掛けていて両親に怒られたこともあった。そんな涙ぐましい(主に僕の)創意工夫により今のシステムが開発された。
僕はSNSでコハルさんにむけてメッセージを書き、コハルさんは僕への返信を電話でするというものだ。僕は当時、親友に余計な一言を言って泣かせてしまった直後だったので、会話する上でぽろっと出た一言で人を傷つけてやしないかと恐れていた。だからこそ、口に出す前に理性が検閲してくれる書き言葉でのやりとりを好み、脊髄反射で会話してしまうのは苦手だった。
そう考えてみると、コハルさんに大きく譲歩してもらってる気がする。結局僕はコハルさんの嫌いな文章で伝えていたわけだから。SNSでの言葉は手紙のものとは違い、そこまで熟慮して書いたものじゃないから良かったのだろうかとふと思った。そこまで穿ってしまうのはやはり僕の申し訳無さとかふがいなさとかから来るものなのだろうか。
僕たちの連絡手段の説明に戻るが、電話会社が通話代で利益が取れないとわかっているこのご時世なので、2、3時間通話しようと学生の財布を圧迫するようなことは無い。大変ありがたい時代である。だがこのコミュニケーションの欠点と言えば、全く事情を知らない人たちが僕らを見たとき、とてもとても慈愛に満ちた目を向けてしまうだろうということだ。僕の部屋にも、コハルさんのワンルームにも来客なんぞいないから、現実的な話でなく構わないのだが、想像すると少し恥ずかしい。片方は、携帯を耳にあてているのに一言も発することなく、目の前のパソコンにたたたと文章を打ち込んでいるし、もう片方ももう片方で、パソコンに流れてくるSNSのメッセージに対して笑ったり怒ったり話しかけているようにしか見えない。セラピーか心療内科を勧められるだろうな。
でも一番自分を出すためには、お互いにこんなちぐはぐなボールを投げ合うしかないのだ。常人には理解できないだろう。でも僕の投げるボールに対して辟易としないのは彼女しかいないし、彼女の投げるボールに辟易としないのもしかりなのだ。だからこそ彼女は持ち味とも言えるゼロ距離での言葉の暴力を振るうし、僕だって敬語という形式だけのグローブをはめて右ストレートを打ち返せるのだ。そんな僕たちの関係に名前は付けられないだろう。前例があるのだろうかこんな奇妙な関係性に。
神様を信じるたちではないが、こんな素敵な関係が生まれたのはただならぬ神様とやらのおかげに違いない。その高揚感に浮かされて「この奇妙な関係が生まれた偶然に祝福を」などと言うと彼女は鼻をつまむだろうから、今日も代わりにこう言うのだ。
「ただいま」




