大聖者流英才教育
この話は第二章読了後に読むことをお勧めします。
これは現在から五年前のこと。
小鳥の鳴き声が響く早朝。エルデカ王国の辺境にある山の中に建てられた一軒家にて、一人の少年が目を覚ます。
アラン・アートノルト。この時の彼はまだ十二歳。シリノアの修行を受け始めてから、まだ三カ月ほどしか経っていない。
ベッドから起きたアランは服を着替えて、洗面所で顔を洗う。洗面所の鏡には憂鬱そうな自分の表情が映っていた。
「はぁ…………行くかぁ」
玄関に行くと、一枚の地図が置いてあった。
地図には、この山の地形が記されている。これもシリノアが用意したものだ。
地図上の山道には、赤い線が引かれている。地図の縮尺から考えると、線の長さは十キロ以上の距離に相当する。
アランは地図をポケットに仕舞い込み、外に出た。軽く柔軟体操をすると、前を見る。
目の前には早速、森林が広がっている。整備など微塵もされていない。
そんな森の中へ、アランは独り駆け出した。
学園入学前、アランは修行のルーティンが決まっていた。
起床時刻は朝の五時。起床後、アランはすぐに山の中をランニングするよう、シリノアに言われていた。修行前のウォーミングアップである。
ランニングの距離はいつも10キロ〜15キロほど。ランニングのコースは毎日、シリノアが考えて用意している。
それが、シリノアが玄関に置いていた地図に記されている赤い線だ。
平地から急斜面、岩場、崖、湖、洞窟など、コースには毎度、過酷な道が設定される。さらにコース上には、野生動物や魔法生物も多くいる。
これを十二歳の少年に独りで走破させるのは過酷な話だが、このランニングの最も恐ろしい点はそこではない。
ランニング中、アランは『魔法や魔導器などの使用を一切禁止』されている。
つまり、アランは身体強化や回復などの魔法による補助を使わずに、己の身一つで山を走らなければならないのだ。
そんなウォーミングアップと呼ぶには、あまりにも鬼畜なルーティンに、当時のアランはもちろん苦しめられていた。
「はぁ……はぁ……足場、悪過ぎ……だろ……」
地面に散乱する草や枝木を踏み越えながら平地を走るだけでも、かなり疲れる。
走る最中、何度も体勢を崩して転びそうになった。だが転けて怪我をしても、魔法を禁止されているアランに回復手段はない。
一度でも怪我をすれば、怪我を負ったまま、その後も走らなければならないのである。
それを避けるため、アランは怪我しないよう気を付けながら走っていた。しかし、慎重に走ろうとするアランに、自然はさらなる鞭を撃つ。
「グルルゥゥゥゥゥ……」
アランの行く先に、魔法生物の一種・フェンリルの群れがいた。
フェンリルの数は十匹ほど。フェンリルの前には十二歳の無防備な少年が一人。
今のアランは、フェンリルにとって餌に他ならない。
『グオオオォォォォッ!!』
「くそったれぇぇぇぇぇ!!」
追ってくるフェンリルから、アランは全速力で逃げ出した。
この時のアラには卓越した体術も、優れた身体能力も、ずば抜けた知能も無い。魔法という唯一の武器を封じられている今は、必死に逃げるしかなかった。
このように、ランニング中に敵から逃げる事は珍しくない。重要なのは、ここからどうリカバリーを効かせるかだ。
逃げ切った時には、指定のコースから外れていた。こうなると、まず自分がどこに居るかを把握するところから始まる。
似たような景色が続く山中で、自分の居場所を把握するのは難しい。余分に体力を消耗している状況では尚更だ。上手くコースに戻れず、遭難しかけた事も多々あった。
どうにか指定のコースに戻ったアランは、疲労を堪えながらランニングを再開した。
だが疲弊した少年を待ち構えていたのは、劣悪な地形の数々であった。
「駄目、だ……腕、痺れてきた……」
時には断崖絶壁の岩肌を登った。
岩肌の僅かな起伏や、岩肌に生えた枝木を利用し、全身を使ってよじ登る。
危険度で言うなら、この崖上りが一番だ。瞬時に周囲の状況を把握し、登るべき道を判断する。失敗すれば、地面まで一直線だ。
アランは何度か崖から落ち、骨を折ったこともある。もちろん骨折した場合、そのままランニングを継続しなければならない。
「か、はぁ……つ、冷たい……苦し……」
ランニング中、アランが一番苦労したのは、湖や川を泳ぐ瞬間だ。特に道中で負傷していると、ここで地獄を味わうことになる。
師範であるシリノアも泳ぎ方を知らなかったので、泳法は独学だ。慣れない内は適当に水をかき、冷水を泳いでいた。
水上を泳げる日はまだ良い。時には、水面のすぐ上に岩肌が広がる洞窟の中で、水に潜って泳いだ事もあった。
何度も溺れかけた。途中で体温低下と息切れで気絶し、知らない場所まで波に流された事もあった。水中にいる魔法生物に襲われた時もあった。
それでも泳ぎ抜き、濡れた体でまた陸地を走った。
もちろんランニング中は、他にも地獄のような状況が多々あった。
だが忘れてはならない。このランニングは、あくまで修行前の『ウォーミングアップ』に過ぎない。むしろ、ランニングが終わった後が本番である。
「も、戻って、これた……」
二時間以上かけ、なんとかランニングを終えたアランは家に帰ってきた。
玄関扉を開けると、シリノアが出迎えた。
「戻ってきたか。所要時間は2時間28分……遅いな。午後のトレーニングはもう少しキツくしよう」
「…………」
アランのランニングが遅いと、シリノアは罰と言わんばかりに、その後の修行をより過酷にするのである。故にアランは一切手を抜くことが許されない。
「取り敢えず風呂に入れ。それから朝食を作ってくれ。その間に教材を用意しておく」
「はい……」
アランは浴室に向かい、汗や泥で汚れた体を洗った。ランニング中に怪我をした場合、ここで魔法で傷を治している。怪我の治癒も自分でやらなければならないのだ。
その後は朝食の時間になる。シリノアは昔から料理ができないので、朝昼晩の全ての料理をアランが担当していた。
疲弊した体で朝食を作り、シリノアと共に食べ終えると、いよいよ次の修行に移る。
ランニング後、いつもアランは昼過ぎまで勉強していた。シリノアが買った、もしくは作った教材を使い、シリノアから勉学を教わっていた。
勉学の内容は様々ある。多かったのは魔法学、生物学、物理学、化学、数学、医学、言語学など。他にも学園の入学試験や入学後の授業に付いていくための勉強もした。
量が多い上に、内容も難しい。少なくとも十二歳の少年に教えるものではない。
だがシリノアは甘えを一切許さなかった。昼までの四時間ほどで何十、何百ページ分の内容をアランに叩き込み、その上で理解度を試すテストを行った。
なおテストの結果が悪いと、後の勉強がさらに厳しくなる。アランは必死にシリノアの勉強に付いていった。
十二時を迎えると勉強は中断され、二人で昼食を摂る。
昼食後が修行の本番だ。ここからは戦闘訓練。シリノアが考えた訓練をひたすらアランはこなす事になる。
最初は魔法や体術の基礎訓練。シリノアが相手となり、アランに魔法と体術を覚え込ませる。
シリノアの教育方針は一貫して『習うより慣れろ』だ。必要最低限のことだけを教え、あとは実践しながら理解・習得させていく。
基礎訓練が終われば、戦術や駆け引き、戦闘中の心理変化などを理解させ、戦略的思考と洞察力を身につけさせる。現在のアランの頭脳戦の基礎となる訓練である。
アランの基本訓練の多くはこの流れだ。この次は、『魔法崩し』の練習をしていた。
シリノアがひたすら魔法を撃つ。アランはその魔法を瞬時に見抜き、対応する逆術式を魔力で練り上げ、魔法を無力化するという流れを繰り返す。
最初は一発づつ、ゆっくりと魔法が放たれる。それにアランが慣れたら、次第に魔法の弾数や種類、速度が上昇していく。
まだ『魔法崩し』をマトモに扱えていなかったどころか、大した反射神経も洞察力も知識も備わっていなかった当時のアランは、数えきれない程にシリノアの魔法に直撃した。
「痛ッッッて!!指……指が、ァ……」
「指が抉れた程度で何を倒れている。さっさと治せ。でなければ次の魔法を撃ち込むぞ」
アランがシリノアの魔法で負傷しても、シリノアが攻撃の手を緩めることは無かった。
修行中、アランが一番負傷したのは『魔法崩し』の訓練と、この次に行っていた魔法生物との実戦訓練である。
シリノアの聖装能力は『現実空間の指定範囲内、もしくは自身が創造した空間内のあらゆる情報を操作』できる。
この力で修行相手となる魔法生物と環境を創り、アランと戦わせていた。
この実戦訓練で、アランはシリノアから学んだ魔法や体術、知識、戦術などを試しながら磨いていく。
地上に限らず、空中や水中、暗闇など、様々な環境で魔法生物と戦った。時には格上の魔法生物と戦わされ、大怪我を負った事もあった。
どうにか実戦訓練をやり遂げた時には、日は暮れ、夜になっていた。
「訓練はここまでだ。風呂は沸かしてるから、先に入ってこい。それから夕食だ」
午後八時頃、実戦訓練を終えたアランは朝と同じように、浴室で体を洗った後、夕飯を作ってシリノアと共に食べる。
この時には、いつもアランの体は限界だった。今すぐにでも寝て休みたいところだが、ここで終わらないのが大聖者の修行である。
夕飯後、アランは就寝時刻の午後十一時になるまで勉強を繰り返す。
アランが疲れ切っていると分かっていながら、シリノアは一切加減することなく、大量の知識と知恵をアランに叩き込んでいた。
そうして、ようやく迎えた午後十一時。
アランは寝るために自室に戻った。一方、シリノアは自室の机で、手記に何かを書き込んでいた。
書いているのは、全てアランの修行に関する記録だ。
今日やらせた事、アランの成長した箇所、まだ出来ていない事、克服させるべき事、これから試すべき修行内容など、全てを記録している。
この記録をもとに、いつもシリノアは修行の計画を立てている。アランが起きている間はほぼアランに付きっきりなので、アランが寝ている間くらいしか、計画を練る暇が無いのだ。
(…………少し、やり過ぎたか?)
修行の記録を見返したシリノアは、改めてそう思った。
シリノアは今まで弟子を持ったことも、誰かに教育を付けたことも無い。故に正しい修行の仕方というのが分からないのだ。
アランの修行はシリノアにとっても試行錯誤の繰り返しだ。有効と思われる修行を試し、アランの成長を見て、今後の方針を考えている。
今のところ、アランは着実に成長している。喜ばしい事だが、まだまだ不十分だ。
この成長速度では、アランはエルデカ王国立聖装士学園に入学しても、すぐに実力不足で振り落とされるだろう。
聖装士の才能を持つ者が、『聖装契約の儀』で聖装具を手にするのは一般的に五歳前後。
学園にいる生徒たちは、子供の頃から十年以上の時間をかけ、徐々に実力を磨いた上で入学している。アランと他の聖装士たちでは、入学までの鍛錬期間に倍の差がある。
さらにアランには、聖装具を使えないという致命的な欠陥がある。才能や時間に於いて、大きなハンデを抱えているアランが学園での教育に付いていくには、他の聖装士より何倍も努力しなければならない。
そのため、シリノアはアランに過酷な修行を強いてきた。アランが血を流しても、骨を折っても、風邪を引いても、何があろうと、構わず修行を続けた。
(あの子は、この現状をどう思っているのだろうか……)
これ程の過酷な修行を喜んで受ける者など、いるはずがない。それはアランも同じだ。
アランはいつも苦痛を必死に堪えている。修行中に泣いた事もあった。そもそも、修行をする事や学園に入学する事すら、アランは否定的だった。
こんな生活をアランはどう思うか。現状を招いたシリノアをどう思うか。
シリノアはそれが少し気掛かりであった。
「はぁ…………おかしな事を気にするようになったな、私も」
手記を片付け、シリノアはベッドに腰掛ける。
アランから好かれたいわけではない。
ただ■■■■■■■■として、責任を果たす。そしてアランが健やかに成長できるよう、全力を尽くす。
自分はそれさえ考えていればいい。だが長くアランの面倒を見てきたせいか、妙な愛着が湧いてしまった。今まで誰かと深い交流を持ったことがないシリノアには、初めてのことだった。
(…………やめだ。さっさと寝よう)
修行の方針や、弟子との付き合い方など、悩みはいくつもある。まさかこの歳になって悩みが増えるとは、シリノアは夢にも思わなかった。
しかし、悩むのは今でなくても良い。部屋の明かりを消し、ベッドに横になろうとしたところで、部屋の外にある気配に気付く。
誰がいるのかは分かっている。何のつもりで来ているのかも予想できる。
「入っていいぞ」
「…………」
声をかけると、無言でアランが部屋に入ってきた。
見慣れた表情だ。意図を察したシリノアは小さく笑い、掛け布団の端を持ち上げる。するとアランは無言のまま、ベッドに入り込んだ。
同居し始めた時から、数日に一度、アランはこうしてシリノアと共に寝たがる日がある。
『原因』は予想が付いている。シリノアは拒むことなく、今までアランと寝ていた。
「……おやすみ」
シリノアに背を向け、アランは目を瞑った。
アランの体はとっくに限界を超えている。一分もしない内に眠りについた。
「…………」
こうしていると、まるで自分達が親子のように思えてくる。
勝手なものだ。自分のエゴでここまでアランの人生を振り回してきたと言うのに、母親気取りとは。
そう思ういながらも、シリノアは手を伸ばした。眠るアランの頭に手を添え、ゆっくりと撫でる。
思うことはあるが、こうしていられる内は、アランは自分に懐いてくれていると思っていいだろう。アランとの付き合い方に悩むのは、その時が来てからにしよう。
「おやすみ………アラン」
呟き、シリノアは目を瞑った。




