第肆月(76)章:はじめてのろんこーこーしょー 01
山名家此隅山城山麓部において、いつもの通り軍議、というか会議が開かれていた。今回の議題は言うまでもない、論功行賞である。播磨、備前、そして美作を征伐し終え、順当に征服したこともあって、さすがに完全に平定したわけではないのだが、だからこそ家臣に分け与える必要があった。だが、それより先に告知すべき事態が存在した。それは……。
「諸君、まずは山陽征討戦、大儀であった」
『ははっ』
「本来ならば論功行賞を行うべきなのだが……、その前に、一つ触れておくことがある」
『…………』
「……常豊が、死の淵から回復したことは知っておろう。だが、それですぐさま俊豊から常豊に後継を戻すのは混乱の元になる。そういうわけで、常豊には備前守護になってもらい、俊豊には但馬守護についてもらう。儂は、隠居してもいいんじゃが、もう一働きしようかの。播磨守護になっておく」
『ははっ』
そう、山名政豊が嫡男、常豊は垣屋続成の手当てによって死神から逃れ、まだ白い着物ではあったものの論功行賞の場にも立ち会える程に回復していた。そして、一同が礼をして、それを満足そうに見つめた後、山名政豊は垣屋続成の父、すなわち宗続に呼びかけることにした。
「さて、宗続」
「はっ」
「宗収は恐らく但馬に留まるであろう。播磨か備前、どちらの守護代職が欲しい」
守護代とはすなわち、殆どその国を治めるという意味であったのだが、通常ならば播磨と備前では言う必要も無い程に播磨の方を欲しがるであろうに、敢えて垣屋宗続は備前を欲することにした。と、いうのも……。
「……畏れながら、備前に致しまする」
「む? ……別に、遠慮せんで良いぞ。播磨守護代なれば、その辺の一国の守護よりも収入は大きかろうに」
播磨とは上国どころか大国である。当然ながら、そこの守護代である場合は中国や下国の守護よりも、身代が大きいのは確定であった。当然、備前もそれなりの地ではあったのだが、彼は貫高よりももっと大きなものを見ていた。
「……それなので、ございますが……」
「……まさかとは思うが、孫めに何か入れ知恵でもされたか」
「……御意」
……と、いうよりは、孫め、つまりは続成の入れ知恵によって、垣屋宗続は仕方なく、播磨の守護代ではなく備前の守護代を求めることにしたようだ。
「おーい、孫」
「ははっ」
そして、「孫」と呼ばれた続成は、何故播磨ではなく備前を欲しがったのかを問い質されることになった。勿論、答えは用意してあったのだが。
「おぬし、何故播磨より備前を欲しがる? 播磨なれば、先程も言うた通り、かなりの収穫を誇るぞ?」
太閤検地によれば、播磨国は概ね36万石、備前国は22万石であるという。尤も、この当時はそこまでの石高はないものの、どちらの面積の方が広いかは、まあ、言う必要も無い。備前も面積の割には石高は高い方であったが、如何せん播磨に比べて、備前という地域は狭すぎた。だが。
「……備前には、長船が御座いまする」
「……おう、あるのう」
「それがし、長船の鍛冶屋集団が欲しくて欲しくてたまらないのでござる」
……そう、垣屋続成は端っから備前を治める氣は、さらさら無かった。否、与えられたのならば治めることも「覚悟」していたが、この当時彼がもくろんでいたのは備前長船の鍛冶屋集団を以て、技術革新を行い、軍事力を隔絶させることであった。すなわち、それは。
「お、おう?」
戸惑う、政豊。それも無理からぬことで、通常ならばこの当時、土地というものは、特に米の取れる土地というものは文字通り「一所懸命」で守り抜くものであった。だというのに、この孺子は。
「それがしは、備前長船に武器の研究所を作りたいので御座います」
「……けんきゅうじょ?」
「はい、長船には鍛冶屋集団がございましょう。すなわち、工業技術力が高い地域にございます。故に、備前長船の鍛冶屋集団に知恵を与え、新しい武器を作り上げ、それを以て奉公致したく存じ上げます」
「……故の、備前か」
「はい」
……すなわち、そういうことであった。垣屋続成は端っから、いちいち石高を以て治めるのではなく(と、いうよりは、彼はそもそも農業技術にあまり適性が存在しなかったこともある)、技術を以て全国を支配下に治め、外征を行い、アメリカ合衆国を滅ぼすためだけに、富良東大陸に自身を皇帝とする政権樹立を行うことしか、考えていなかったらしい。当然ながら、政豊はそれに対して、動揺と共に続成に、重ねて問うた。
「……それ、宗続や政忠は了承して居るのか?」
「説得は、致して御座います」
「……そうか。なれば、おぬしの最初の着任地は備前長船で良いのだな?」
そして、垣屋続成の振り出しが行われた。一応、摂津の分郡守護ではあったものの、それは飽く迄山名家中での話であり、同時にそれは幕府の承認したものではなく、言ってしまえばまだ「正統な」守護というわけではなかった。故の、保険としての備前長船、ということも存在していた。
「ありがたきしあわせ」