第肆壹(65)章:加賀の役 -1
難波田の戦いで勝利した垣屋軍は、なぜか敗走する武田軍を追撃することはなかった。それを知ってか知らずか、武田国信は辛くも空襲を切り抜けて若狭への帰還に成功した。そして、盟友細川政元へ速やかに垣屋続成のことを訴えることにした。そう、そのつもりだった。だが……。
文明十七年五月十日、難波田の戦いからまだ日も変わらぬ頃のことである。ほうぼうのていで命からがら若狭へ帰還した国信は速やかに上洛、つまりは幕府に敵軍の無道を訴えるための準備を行い始めた。だが、皮肉なことにそれこそが国信を黄泉の国への片道切符に直行させる選択肢であった……。
文明十七年五月十二日、愛発関近郊にて。
「! 貴様等、何者だ!」
「あの世で鬼に聞いてこい!」
……武田国信が消息を絶った原因は、諸説ある。だが、その中でも最も有名な説である「甲賀者説」を本作品では採用させていただくことにしよう。
文明十七年五月十三日、観音寺城にて六角行高は甲賀忍軍の持ってきた武田国信の首級を見て上機嫌であった。無理もあるまい、これで近江が北から攻められる可能性が減り、また同時に場合によってはかの軍事大国である幼君・垣屋続成に恩も売れるからだ。そして、武田国信の首級を挙げた隊長である高安と彼は密談していた。
「全く、かの幼君も詰めが甘いのう」
「とはいえ、仕留めはしました。これで恩も売れるでしょう」
「じゃのう。……さて、首級はどこに晒すか……」
「水坂峠がよろしいかと」
「うむ、高安に委細任せるとしよう」
そして、若狭・近江国境にほど近い水坂峠に武田国信の首級が晒されたことを幕閣が知るのは、意外にも下旬となってからであった……。
難波田の戦いの翌々日、垣屋続成が若狭に入国した際に書かれた近臣の日記には以下の通りに書かれている。
「小浜の地、活気はなく(中略)そして殿は、管領家である武衛様に越前を進呈する旨を呟いた」
――――景清日記より一部略し抜粋
この当時、すでに垣屋続成が応仁の乱の採決をひっくり返すために進軍していたことを見抜いた人間は、同時代人にはいなかった。何せ、現代でも「論理的ではない」と一蹴する学者すらいるのである、同時代人に理解できないのも、無理からぬことであった……。
そして、垣屋続成は越前へ向かうことにした。今でこそ加賀越中の一向一揆撲滅作戦の一環であると判明しているが、同時代人の多くは、朝倉討伐であると確信しきっていた。何せ、朝倉側ですら一向一揆の撲滅のためだけに越前を通るとは思っておらず、一乗谷城へ軍勢を集結させていたのだから、推して知るべしであろう。