第參參(51)章:朝儀 01
文明十七年五月五日、後の暦に直しては2155年5月8日か。端午の節句の節会すらできない状況を、時の天皇――諡は後土御門天皇と記録されている――は嘆いていた。自分の罪障が原因なのか、それとも前世で何かやらかしたからなのか、とにかく何かしらの「不明」があったからこそと考えた後土御門天皇は左の和歌を詠み、神仏に縋った。次の通りである。
「誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ」
……そして、その甲斐があったのか、あるいはまた別の理由があったのか、御仏の遣わした救いの手は、左の内容であった。
「陛下、関白にございます」
「政平か……朕はしばらく誰とも会いとうない、後にはできぬ用事か」
「此度の節会の朝儀、叶うかもしれませぬぞ」
「なにっ」
……皇室を貧窮から救ったのは、公家衆はもちろんのこと皇室にとっても意外な人物であった。
「……政平、真であろうな」
「ははっ、ひとまず節会の儀の費用を一括で負担するという奇特……いや、篤志家が現れましてございます」
「なんと……」
周囲の公家がざわめく。一体どのような人物がそのような行為を為そうとしているのか。……読者の方は、だいたい予想が付いたとは思われるが、今少し引っ張らせて頂きたい。
「……して、何者じゃ」
「近衛少将が一家、富良東宿禰にございます」
「……富良東宿禰?」
「誰じゃ、それは」
周囲の公家が訝しんだ。無理からぬことだ、富良東宿禰の名が通るのは今少し未来であり、さらに言えば後に平安京を大炎上させる張本人であるから名が朝家で通るようになっただけであり、この当時殿上人になったとはいえたかだか正五位の人物を上達部が覚えていることなど希であった。
「そう仰ると思い、連れてきてございます。入れ」
「ははっ」
「……その顔、どこかで見たの」
「田須権少将、罷り越して御座います」
……田須権少将、すなわち垣屋続成であった。
「……どこで見たのだったかの」
「確か、大内大夫の推挙で任官された……」
大内大夫、まあ要するに大内家当主のことであるが、垣屋続成は大内家当主の推挙で殿上人になったことは、多少前を遡って(だいたい、「誕生、富良東宿禰!」の辺り)頂ければご理解戴けると思う。ちなみに、大夫の地位は大抵四位辺りの官位であり、ゆえに正五位が垣屋続成に用意できるギリギリの椅子だったわけだ。
「垣屋続成の方が、名は通っておりましょうか」
そういや、田須万潔の名は儀式だけで使う名だったな。一応こっちの名も名乗っておくか。
「……おお、確かそんな名であったわ」
「して、どちらの名で呼べば良いかの」
「委細、好きなように呼んで下され」
別に、どっちで呼ばれようが特に影響はないだろうしな。「問題ない」と言うのは上の人の立場の言葉だったはずだし、ボロが出んようにせんと。
「それでは、富良東少将。何が望みじゃ?」
そして、公家は対価が何であるか構えはじめた。無理もあるまい、相手が幼少であり特に強欲ではないという評判があるとはいえ、この当時の武家が何らかの金品を献上するということは何らかの対価を要求するのが当たり前であったからだ。だが。
「は……、強いて申し上げれば、後世まで続く、この時期の朝廷を支えたという名声で御座いましょうか」
「……何も、要らぬと申すか?」
「全ては、陛下の御心のままに」
……眼前の「富良東少将」は特に何も要求しなかった。彼は「朝廷が困っている」こととその原因が貧困から来るものであると聞き出した際に「当座でよければ寄付でもするか。うまくいけば後世に忠臣としての名が通るかもしれん」という程度の心持ちで相場の二倍ほどの節会費用を持ってきたのだから!
「ただ、畏れながら……」
「おう、なんじゃ」
「……宋銭が用意できませなんだ。等価の金か銀で支払いますので、それにてご容赦下さいませ」
「……なんと……」
垣屋続成が持参してきたのは、金貨や銀貨による支払いであった。通常、朝儀費用はこの当時宋銭で支払う。それは前例に従う公家衆にとっては常識のことであった。ただ、新興大名である垣屋続成は宋銭の重要さをあまり理解していないこと、そして同じ価値の分の金銀ならば用意できる(お忘れだろうか?彼は多田鉱脈を領地に治めていた)こともあって、金銀で支払いを行おうとしたのだ。それは、眼前の公家衆には豪儀な提案に映った。
「……田須権少将であったな」
「ははっ」
「このまま、対価無しでは朝儀が廃るでな、些少ながら持って行くがよい」
「……ははっ」
ん? 何かくれるのか? まあわざわざ断るのもそれはそれで礼儀に欠けるかもしれんし、もらえるものはもらっておこう。
「これ、あれをもて」
「ははっ」
そして、朝廷から節会費用負担の対価として垣屋続成が賜った「あれ」とは……。




