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輝鑑 後世編纂版  作者: 担尾清司
第二部第一話:垣屋続成、管領細川政元の仕掛けた罠に対して高らかに嗤い上げるのこと
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第參貳(50)章:嗤う左近衛権少将

 大饗が次に向かったのは、美濃であった。同じく西軍である土岐家への使者、というよりは足利義視・義材親子を確保しておくためである。無論、大饗一人では軍事力を使った奪取作戦は不可能であるし、物理的に確保する意味合いはあまり存在しない。

 それはあくまでも義視・義材親子に垣屋家の名を売っておく行為に過ぎなかった。そう、そのはずであった……。

 文明十七年、太陽暦に直して2155年、まだ足利義尚の初七日も終わらないうちに続成の目測がいかに甘いものであるかを大饗は知ることになる……。

「今……なんと?」

「そうか、ではもう一度言ってやろう。「甥の葬儀を粗略にした輩に担がれる覚えはない」。それが、今出川様の回答だ」

「……畏まりました。然らば、そのように伝えまする」

「おう、帰れ帰れ」

 ……垣屋続成は、状況を見誤った。足利義視が日野富子と対立するのは今少し先であり、さらに言えば足利義視と足利義尚は家系図を見るまでもなく、叔父と甥の関係である。肉親は、この時代は現在よりも遙かに重いものであった。ゆえに、家督争いというものも起きえたのだが、垣屋続成が足利義視を担ぎ上げようとした行為は、見事に外れることとなる。

 これを続成が知るのは旧暦で五月以降となるが、その一報を聞いた続成は、なぜか安堵したという。曰く、「向こうから蹴ったなら、是非もあるまい」とのことであるが、研究者によってはこの一文を以て垣屋続成は足利幕府を滅ぼす決意を固めたとも言われており、事実垣屋続成は足利幕府を滅ぼしたわけであるが、それは流石に結果論に過ぎようか。

 なんにせよ、足利義視は垣屋続成を担ぎ手として拒絶した。この当時、公方の担ぎ手を蹴られるというのは大変な不名誉であるのだが、右に述べた通り垣屋続成はそれを聞いて安堵したという。その安堵を知る者は、もはや彼しか存在していない。

 そして、足利義尚の初七日が終わった頃、大饗は垣屋続成の下に帰還した。……数々の報告を添えて。文明十七年五月二日のことであった。

「……本当、なのだな?」

 垣屋続成が聞いた報告は左の通りであった。

 ・六角氏の中立宣言

 ・足利義視の拒絶

 ・土岐氏の動静

 ・近隣の情勢

 それは、いずれも垣屋続成にとっては向かい風になる情報ばかりであった。……そう、そのはずだったのだ。

「……ははっ」

「……少将様、気を落とされますな、今出川様が気落ちで仰っただけかもしれませぬ」

「若、一応支度だけはなされませ、大御所様の気が変わらぬとも限りませぬ」

 急いで、北山と斉藤が続成をなだめにかかる。後世の人間からは信じられないかもしれないが、垣屋続成は癇の強い人間であった。生涯、手打ちにした人間はいなかったものの、一向一揆撲滅戦争や南蛮紅毛殲滅戦などを見る限り、それは言う必要も無いほどの証明とも言えた。……だが、続成は……。

「……くくっ」

「若……、若?」

 ……なんと、続成は嗤っていた。嗤っていたのだ。

「わ、若!」

「お気を確かに!」

 あわてだす翁衆。無理もあるまい、彼達は眼前の若があまりの衝撃に狂したと思ったからだ。無論、そうではない。

「そうかそうか、今出川様はかの提案を蹴ったか……」

「若!」

「大丈夫だ大丈夫だ、説得力は無いかもしれんが、俺は正気だ。……そんなことより、大饗」

 嗤いながら、垣屋続成は自身が正気である旨を伝え、その証明がごとくに顔を真剣に戻し、使者である大饗を呼んだ。

「はっ」

 無意識のうちに、固くなる大饗。情勢の責任が彼にあるわけでは無いが、人間心理としてこういう時に責任を押しつけられるのは発信者である。……だが、続成は続成以外の全員の想像を超える発言を言い放った。

「本日限りで楠木に苗字を戻すが良い。俺が許す」

 それは、大饗にとって望外の褒賞であった。言ってしまえば、苗字を変えることを許すというだけのものであったのだが、大饗が楠木に苗字を戻すことを許されるのは、それ以上の大きな意味合いが存在した。

「は……ははっ!!」

 思わず、涙を流しそうになる大饗。どんな土地よりも、あるいは茶器よりも、ひょっとしたら一字拝領よりもその褒賞は、大饗にとっては、重いものであった。案の定、ただの使者にしては重すぎる褒賞であるためか、あるいは苗字変更許可の対象苗字があまりにも影響力が強すぎるためか、翁衆が諫言の姿勢に入った。

「若……」

「よろしいので?」

 今からすれば非常に及びもつかないことであるが、この当時楠木という苗字は賊軍の象徴であった。それもある意味当たり前で、この当時皇族当主、すなわち天皇を務めるのは北朝の人間であった。今もそうである。ゆえに、南朝の忠臣ということは、北朝にとっては比類無き賊軍である。だが、そもそも北朝の正統性というものはなんであるか。そして、それに対して南朝の正統性というものはなんであるか。……続成は、それをよく理解していた。とはいえ、勇気の要る采配であることは、間違いなかった。

「大丈夫だ、陛下より内諾は得られておる」

 そして、陛下、すなわち天皇よりその内諾を得られていると言い張る続成。実はこれ、虚喝であった。一応、後に本当に天皇家から楠木家の賊軍指名を撤回させる旨を詔勅で出してもらっているのだが、この当時はそんな事実は存在せず、前後関係が逆になっているのだ。とはいえ、一応はある年代から見れば、それは理に適っている行為として認められるわけで、垣屋続成がいかにその渾名――いわゆる、「無欲律儀の富良東殿」である――を利用していたかが伺える話として引用されることの多い逸話である。

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