プロローグ 寄生虫
酒は不味かった。喉を通った瞬間、苦味と冷たさが入り混じり、胃の奥までむかついてくる。
何気なく窓の外に目を向けると、そこにはやはり平和な光景が広がっていた。そう、虚しいほど平和だった。
だが、俺は知っている。
ちょうど二分後、この村は炎に包まれる。
◇ ◇ ◇
ギルド近くの酒場は今日も騒がしかった。
今日仕留めた魔物の大きさを誇張して吹聴する奴もいれば、次の依頼で一儲けしてやると大口を叩く奴もいる。
そんな喧騒の中、俺はいつもどおり隅の席に座っていた。くたびれた鎧に錆びついた剣。俺が魔物だったなら、依頼掲示板の一番下にでも名前が載っていたことだろう。
『あの人たちはいいよな……』
何がそんなに楽しいのかは理解できなかったが、だからといってわざわざ輪に加わる気もなかった。周囲の騒ぎをBGM代わりに、一人で酒をあおる。
一杯。
二杯。
三杯。
何杯目なのか数えるのも面倒になってきた、そのときだった。
「お、おい! 外を見ろ!」
突然の叫び声に、一斉に窓の外へと視線が向けられる。騒いでいた冒険者たちも、一人、また一人と席を立ち始めた。
『……何だよ。何でこんなに騒がしいんだ?』
酒で重くなった頭を振りながら、窓の外に目を向けた瞬間だった。
──!?
「な……何だ、あれ……!?」
夜空を呑み込むほどの炎が見えた。
崩れ落ちた屋根から火の粉が降り注ぎ、風に煽られた炎が別の家の壁へと燃え移る。通りには悲鳴を上げて逃げ惑う人々と、その途中で転んで起き上がれなくなった人々が入り乱れていた。まるで村全体が巨大な炉に放り込まれたかのようだった。
ふと、この酒場からそう遠くない場所に住んでいる少女のことが頭をよぎった。顔を合わせるたびに向こうから挨拶してきて、ときどき食べ物を分けてくれた子だ。
……あの子は、無事に逃げられただろうか。
燃え広がる炎の向こうは、何もかもがまともに見えなかった。
「──っ!」
我に返った瞬間、椅子を押しのけて立ち上がっていた。
迷いはなかった。いや、迷っている余裕すらなかった。今すぐ行かなければ。何としてでも助けなければ。あの炎に、あの子が呑み込まれてしまう前に。
だが、炎は残酷だった。
酒場の扉を蹴破って外へ飛び出した瞬間、頭上からバキッと何かが割れる音が響いた。
「え……?」
顔を上げたときには、もう遅かった。
崩れ落ちた屋根の残骸が視界を埋め尽くし、真っ赤に焼けた金属片が胸を貫いた。
何が起きたのか理解する間もなく、全身から力が抜けていく。熱い何かが喉元までせり上がり、崩れていく視界の向こうで炎が揺らめいていた。
そうして、息が止まった。
……。
「はっ……はあっ……!」
荒い息を吐きながら目を覚ました。
思わず漏れた悲鳴に、酒場の喧騒が一瞬だけ静まる。何人かの冒険者が怪訝そうに振り返ったものの、すぐに興味を失い、再び仲間との会話に戻っていった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
全身が汗でびっしょりと濡れていた。震える手で胸をまさぐり、頭に触れ、手足を確かめる。
ああ。
どこにも傷はなかった。血も、焼け焦げた服の切れ端も、体を貫いた金属片さえも。
それなのに、感覚だけは鮮明に残っていた。
天井が崩れ落ちた瞬間、頭上から降り注いだ瓦礫。胸に突き刺さった、焼けつくように熱い金属片。そして、息を吸おうとしてもどうしても吸えなかった、あのクソみたいな感覚まで。
「ここは……?」
呆然と周囲を見回した。
古びた木のテーブルに、油汚れのついたジョッキ。大声で騒ぐ酔っ払いたち。何もかもが、ついさっきまでと同じだった。
窓の外に見える村も変わらない。炎どころか、煙の一本すら上がっていなかった。
『くそっ、酒を飲みすぎたか。縁起でもない夢を見ちまった……』
無理やり笑みを浮かべ、ジョッキを持ち上げた。
酒を飲めば落ち着くだろう。所詮は夢だ。実際に死んだわけでもないし、村が燃えているわけでもないのだから……。
そう考えながら、酒を喉の奥まで一気に流し込んだ。
それでも、ジョッキを置いた手の震えは一向に止まらなかった。
そして、しばらくすると。
村は、まったく同じように炎に包まれた。
俺は再び死んだ。
そして、また目を覚ました。
いつも同じ酒場、同じ席、同じジョッキ。そして数分後には決まって燃え上がる村。
その中で毎回変わるのは死に方だけだった。
何が起きているのかはよくわからなかったが、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
俺は、これから起こることを覚えている。
最初は夢だと思っていた。だが今では、むしろ逆だった。
これが現実なら、俺の覚えている未来を変えられさえすれば、まだすべてが終わったわけじゃない。
『そうだ。こうなったら、助け出してやる』
拳を強く握りしめた。
「やるしかないだろ。今度こそ、絶対に……!」
神様の祝福なのだと思った。
死を繰り返すこの奇跡のような現象は、あの子を救うために神様が与えてくれた機会なのかもしれない。普段なら想像すらできない運命を変えるチャンスが、何者でもない俺に与えられたのだと。
助け出す。
そう思った。本当にそう信じていた。そう信じるしかなかった。
そうであるべきだった。
そうだったなら。そうだったなら……。
◇ ◇ ◇
炎の中で、俺は何度も少女を救おうとした。
無我夢中で家の中に飛び込んだものの、入口を塞ぐ炎に阻まれることもあれば、窓を叩き割って侵入しようとしたところを、噴き出した火炎に呑み込まれることもあった。
全身を焼かれながら、どうにか扉を開けたと思ったら、踏み込んだ瞬間に崩れ落ちた梁に押し潰されて死んだこともある。
それでも、諦めなかった。
方法はあるはずだ。正面が塞がれているなら裏手に回ればいい。扉が崩れたなら窓を壊せばいい。もう少し早ければ。もう少し慎重に動いていれば。もう少し強ければ……。
そうして何度死んだのか、もうわからなくなっていた。
おそらく、十回目くらいだっただろうか。
初めて、救出に成功した。
炎をかき分けて家の中へ飛び込み、隅でうずくまっていた少女を抱きしめた。
少女は泣いていた。小さな手で俺の服をぎゅっとつかみ、何かを訴えていたが、周囲を呑み込む炎と轟音のせいで、まともに聞き取れなかった。
「大丈夫だ。大丈夫だから……」
そう呟きながら、少女を抱きかかえて走った。
背後で何かが崩れる音が響き、熱気が背中を舐めた。それでも足を止めなかった。肺が裂けそうなほど息が切れ、足元では焼け残った木片が砕け散る。
それでも走った。
目の前には道があった。炎から逃れられる。今度こそ、本当に……。
ようやく燃え盛る村を抜け出したとき、俺は少女を抱きしめたまま、その場にへたり込んだ。
助かった。
助けた、と思った。
小さな体が腕の中で震えていた。生きていた。何度も死んだあの子が、今度は生きたまま俺の腕の中にいた。
少女の背中を抱きしめ、俺は泣いた。
何がそんなに悲しかったのか、何がそんなに嬉しかったのか、自分でもわからなかった。ただ、生きていてくれたことが。俺が救い出せたことが。あまりにも……。
だが──
目を開けると、そこは再び酒場だった。
「……え?」
呆然と自分の手を見下ろした。
ついさっきまで、確かにあの子を抱きしめていた。小さな体の重みも、服をつかんでいた手の感触も、耳元で聞こえた泣き声も、腕の中に残っていたかすかな温もりさえも、まだ指先に生々しく残っているのに。
俺の手にあったのは、冷たいジョッキだけだった。
「え……? ちょっと待て、何で……」
息が詰まった。
慌てて周囲を見回す。酒場は何事もなく、客たちは笑いながら騒いでいた。窓の外の村にも炎はない。
あの子を助けた。確かに助けたんだ。今度は死ななかった。失敗もしなかった。炎の中から連れ出して、生きていることを確かめて、腕の中で泣いていたあの子を……。
『なのに、どうして?』
胃の中がひっくり返りそうになった。熱い何かが喉元までこみ上げ、口を押さえたが、どうしても治まらない。
ついさっきまで確かに存在していたものが、消えた。
すべて、消えてしまった。
それなのに、俺だけは覚えていた。
あの小さな体の重みも、生きていてくれたことへの安堵も、もう大丈夫だと思えたあの瞬間も。
「どうして……どうして、どうして……?」
手からジョッキが滑り落ちた。だが、その音さえまともに耳に入らなかった。
息を吸っても、空気が入ってこないような気がした。頭の中はぐちゃぐちゃに絡まり、何を考えればいいのかさえわからなくなっていた。
さっきまで、嬉しかったのに。確かに嬉しかったのに。
どうして今は何も残っていないんだ?
どうして俺が成し遂げたことは、なかったことにされるんだ?
いったい俺が何を間違えたっていうんだ?
くそ、くそ、くそ、くそ、くそ。
「くそがあああああああっ!!」
血が出るほどの勢いで、テーブルを叩きつけた。
酒場を、痛いほどの静寂が覆った。
目の前が徐々にぼやけていく。噛みしめた唇から血がにじみ、顎を伝って落ちた。
「神様が……神様がチャンスをくれたんじゃなかったのか? 運命を変えられるようにしてくれたんじゃなかったのかよ……!」
返事はなかった。
そこでようやく気づいた。
一人で逃げても、あの子を助けても、たとえ死なずに生き延びたとしても、何の意味もない。
どれだけ足掻こうと、何を変え、どんな結果を生み出そうと、この回帰は俺の意思とは無関係に始まる。
まるで誰かがあらかじめ決めた脚本を広げ、俺がその中でどれだけ足掻こうと構わず、最初から読み直しているかのように。
──!?
その瞬間、心臓を握り潰されるような痛みが内側から込み上げてきた。
目の前に何かが浮かび上がったわけでも、誰かが語りかけてきたわけでもない。ただ、皮膚の下に見知らぬ感覚が広がり、俺は息を呑むことさえ忘れて胸元を押さえた。
「あ、あああ……!」
皮膚の下へ。脳の奥へ。心臓の内側へ。
いや、それよりもさらに根本的な何かへ。
俺が俺であるという、その何かに。
刻み込まれていた。深く入り込んでいた。決して消えない痕跡を残していた。
固有刻印。
回帰認識。
他者の回帰を認識し、その記憶を保持する。
目には見えなかった。それでも、わかった。
何が起きているのか。それが何を意味するのか。なぜそんなことまでわかるのかさえ、ただ理解できてしまう。
まるで生まれたときから知っていた知識のように。指を握ったり開いたりする方法を、誰かに教わる必要がないのと同じように。
その意味は、ごく当たり前のこととして俺の中に根づいていた。
『他者の回帰を認識する……?』
ならば──この回帰を引き起こしているのは、俺じゃない。
俺とは別の誰かが回帰している。
その人物は記憶を持ったまま過去へ戻り、その過程で俺までも過去へと引きずり込んでいる。
何の選択権も与えられず、何が起きているのかも知らされないまま。
『これは祝福なんかじゃない……』
詰まっていた息を、無理やり吐き出した。
「呪いじゃねえか!!!」
なら、その回帰者はいったいどこで何をしているんだ?
燃え盛る家の中で少女が何度も死んでいく間、俺があの子を助けようとして何度も死んでいく間、その人物はいったい何をしていた?
本当に誰かを救うために回帰しているのなら、どうしてこんなことが繰り返される?
未来を変えられるはずなのに、どうしてこの悲劇だけは終わらない?
……。
いや──
『どうして、何も変えようとしないんだ?』
その考えが頭の中に食い込むと、どうしても振り払えなくなった。
その人物が何のために回帰しているのかはわからない。どんな事情があるのかも、何を目的としているのかもわからない。
だが、少なくとも俺にとっては明らかだった。
誰かの意思によって始まった回帰は、俺にとって絶望でしかなかった。
◇ ◇ ◇
何度も死に、何度も繰り返した。
十二回目。転んだ拍子に、後ろから走ってきた人々に踏みつけられ、足が折れていた。
十五回目。崩れ落ちた瓦礫に腕を押し潰された。少女を抱きかかえていた、あの腕を。
十七回目。ただ泣いていた。
そして十八回目の回帰。
炎の中をふらつきながら、俺は呟いた。
「お前が誰だろうと……あんたは英雄なんかじゃない」
炎に焼かれた喉から、かすれた声が漏れた。
「英雄だっていうなら……こんなクソみたいな状況、変えてみろよ! 救ってみろよ!……頼むから……! お願いだから……」
そして、十八回目の死。
再び炎に呑まれ、再び目を覚ました。
『俺は回帰者じゃない……』
ジョッキを握る手が震え、酒がこぼれ落ちた。それでも拭おうとさえ思わなかった。
『俺はただ……誰かの回帰に巻き込まれているだけなんだ。記憶だけを持たされて、何一つ変えられないまま……!』
寄生虫。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
誰かに取りついて生きる。誰かが生きている間は一緒に生き、そいつが死ねば否応なく一緒に引きずられていく存在。
……。
そして、二十二回目。
結局、少女を救えないまま、俺は燃え盛る村をふらつきながら抜け出した。
もう走る力すら残っていなかった。全身は裂け、焼け焦げ、血と灰の混じった服が汗で肌に張りついている。
希望は、とうに潰えていた。
村の入口で倒れ込んだ。
悲鳴が少しずつ遠ざかっていく。もう、あの子の声さえ聞こえなかった。
『俺が何をしたって……結局……』
唇を動かしたが、声は出なかった。
涙の乾いた顔のまま、ゆっくりと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
……。
「……また酒場か」
天井を見上げたが、目に映ったのは酒場の天井ではなかった。
薄い日差しが差し込む窓。見慣れないベッド。そして、薬草の匂い。
村の負傷者たちが集められている宿屋の個室だった。
「……!?」
勢いよく体を起こした。
全身がずきずきと痛んだが、そんなことを気にしている余裕はなかった。ふらつきながら窓辺に歩み寄り、外を覗き込む。
火は消えていた。
いや、消えたどころではなかった。
村は、すでにすべて焼け落ちていた。
笑い声も、泣き声も、あの少女も。
何一つ、残っていなかった。
頭の中が空っぽのまま、俺はしばらく窓の外を眺めていた。
何が起きたのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「……戻るはずだっただろ」
ああ。あああ。
「また……また、あの酒場で目を覚ますはずだっただろ! 火が出る前に、昨夜に戻るはずだったんだ! そうすれば、別の方法を探せたのに……! もう少し考えていれば、もう少し努力していれば……!」
だが、何も起こらなかった。
回帰は止まった。
指先が痺れてきた。自分が息をしているということさえ、実感できなかった。
何度も少女を救い、何度も失敗し、そのすべてを覚えている。
だが、この世界には、そのどれ一つとして残っていなかった。
「は……はは……」
乾いた笑いが漏れた。
もう、どんな顔をすればいいのかもわからなかった。
笑い声はいつしか悲しげな嗚咽に変わり、俺は両手で顔を覆って身を丸めた。
どうして。
どうして、俺だけが覚えていなければならない?
どうして、俺だけがこんな目に遭わなければならない?
どうして、俺が救ったあの子は、何事もなかったかのように消えてしまわなければならない?
……。
いや。
「こんなことをした奴が、別にいるんだろ」
……。
そうだ。
誰かがこの地獄を繰り返させているのなら、俺自身の手で終わらせるしかない。
たった一度で、完璧に。
二度と繰り返されないように。
「……必ず見つけ出して、殺してやる」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
本作は自作の小説を翻訳したものです。
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※本作は『カクヨム』でも投稿しております。




