第二話 見えてるの?
――コン。
音は、玄関の向こうから来た。硬いもので木を叩くような、乾いた響き。相馬隼太は、ドアノブに伸ばしかけた手を止め、玄関を見たまま動けなくなった。
数秒が過ぎる。それだけで、部屋の空気がやけに重くなった気がした。
何も聞こえない。換気扇の音も、隣室のテレビの音も、いつもならうるさいくらいの生活音が、今はぴたりと止んでいる。玄関のドアは閉まっている。鍵も掛けた。さっき紙袋を外へ出したあと、自分の手で確認した。金属のつまみを回し、施錠のクリック音まで聞いた。それは覚えている。
隼太はゆっくりスマートフォンへ目を落とした。画面の光が、暗くした部屋の中で妙に眩しい。
二十三時四十八分。
「……隣だわ、きっと」
誰に聞かせるでもなく口にする。声は、自分で思っていたより小さく、震えていた。
「古いアパートやし。音くらい響くだろう」
そう言い切ることで、自分を落ち着かせようとした。京都の実家も古かった。木の軋む音、水道管の唸る音、そういうものには慣れているはずだった。
――コン。
表情が固まった。背中に冷たい汗が伝う。首の後ろから、シャツの中まで、一筋。
今度は玄関じゃない。
部屋の奥だ。
隼太は振り返った。心臓が、耳の後ろで脈打っているのが分かる。
六畳ほどの居室。ベッド、小さなテーブル、クローゼット。見慣れ始めたばかりの一人暮らしの部屋には、何もいない。段ボールに入れっぱなしの本、まだ壁に貼っていないポスター、実家から持ってきた座布団。上京してからまだ数日しか経っていない、生活の匂いが薄い部屋。
「…………」
――コン。
クローゼット。折戸の隙間から、闇が覗いている。
「いやいや、事故物件とか聞いてないって」
一歩、後ろへ下がる。足の裏がフローリングを擦る音が、やけに大きく聞こえた。
――コン。
今度は近い。もっと近い。
「……いやいやいや、かんべんしてくれ」
どこから鳴ったのか分からない。天井にも聞こえる。壁にも、床にも。音は一つの場所から来るのではなく、部屋そのものが叩かれているようだった。
隼太はスマホのライトを点けた。白い光が、狼狽した手の動きのぶんだけ、壁を斜めに走る。
「ネズミ」
白い光で床を照らす。
「ネズミであれ」
しゃがみ込み、恐る恐るベッドの下へ光を差し込む。ホコリと、まだ開けていない引っ越しの箱が一つ。
何もいない。
「東京のネズミ、ノックするのね」
自分で言って、自分でぞっとした。
――コン。
「何もない……」
声が擦れた。もう無理だった。理屈でどうにかできる段階を、身体が先に越えてしまっていた。
隼太は玄関へ向かい、鍵を開ける。ドアノブを回し、そのまま外へ出ようとして――止まった。
廊下に、さっきの紙袋が置かれている。
数分前、自分の手で外へ出したはずのそれが、玄関先の同じ場所に、まるで最初からそこにあったように立っている。側面には部屋番号だけが印刷されたラベル。
《203》
紙袋は微動だにしない。廊下の常夜灯に照らされて、輪郭だけがくっきりと浮いていた。
「お前か?」
当然、返事はない。紙袋が返事をするはずがない。分かっていても、聞いてしまった。
「まさか~」
――コン。
紙袋が、わずかに揺れた。内側から押されたような、それとも外から風が吹いたような、どちらとも判断できない揺れ方だった。
「…………」
一秒。頭の中で、祖母の声がした気がした。――知らない荷物は、玄関より奥へ入れたらあかん。何の関係もない場所で、なぜ今それを思い出すのか分からなかったが、身体はもう答えを出していた。
「ギルティ……」
隼太は飛び出した。
紙袋を大きく避け、階段へ向かう。素足に近い靴の履き方のまま、蹴るように床を捉える。
ガン! ガン! ガン!
二段飛ばしで駆け下りる。財布、スマホ、鍵。それ以外は何も持っていない。手すりを掴む手が、汗で滑った。
――コン。
振り返らない。振り返ったら足が止まる、という確信だけがあった。
――コン。
一階。
――コン。
アパートを飛び出し、そのまま道路へ出る。夜気が肺に入り込み、走っているうちに冷たさが痛みに変わっていく。
隼太は走った。
深夜の住宅街。街灯、自動販売機、遠くを走る車。静まり返った街に、自分の荒い呼吸と足音だけがやけに大きく響く。長距離走をやっていた頃の呼吸のリズムが、無意識に戻ってくる。吸って、吐いて、また吸う。恐怖と体力の配分を、身体だけが冷静に処理していた。
何度か後ろを確認する。
誰もいない。
それでも走る。角を曲がると、コンビニの白い光が見えた。あの光を目指して、最後の数十メートルだけ足が軽くなった。
自動ドアが開く。
明るい店内。有線放送。レジの電子音。商品を並べている店員と、棚を眺めている客が一人。
あまりにも普通だった。数分前まで自分がいた場所と、同じ世界とは思えないほどに。
隼太は入口付近で立ち尽くす。息が整わない。
「いらっしゃいませー」
「…………」
店員がちらりとこちらを見る。
「……あ、どうも」
「……いらっしゃいませ」
なぜ自分も挨拶を返したのか分からない。ただ、誰かの声に人間らしい返事ができたことに、少しだけ安堵した。
隼太は店の奥へ進み、飲料棚の前で立ち止まった。冷蔵ケースの低い駆動音が、耳に心地よかった。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
冷蔵ケースから水を一本取り出し、スマホを開く。手のひらに、ペットボトルの冷たさが染みる。
検索欄に文字を打ち込んだ。
《紙袋 ノック 怪奇現象》
そこまで入力して、指が止まる。文字の並びを見て、自分が本当にこれを検索するつもりなのかと、少し恥ずかしくなった。
全部消した。
代わりに、
《アパート 壁 コンコン 原因》
検索結果には、配管、温度差、建材の収縮といった言葉が並んだ。どれも、聞いたことのある、安心できる単語だった。
「……ほら。何ビビってるんや、俺は」
ちゃんと理由はある。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。夜の照明と冷房で冷えた身体に、ようやく実感のようなものが戻ってくる。
だが、画面をスクロールしていた指が止まる。
「……そういえば、紙袋は?」
建材の収縮は、紙袋を揺らすんだろうか。
検索結果は何も答えてくれない。当たり前だ、と思いながらも、その当たり前さが今は少しも慰めにならなかった。
時計は午前零時十六分。
「…………帰りたくない」
本音だった。声にしてから、その本音の重さに自分でも驚いた。
とはいえ、コンビニで一晩を明かすわけにもいかない。奨学金と仕送りで綱渡りをしている生活に、時間を無駄にする余裕はない。
隼太は水を持ってレジへ向かった。
*
空が白み始めた頃、隼太は再びアパートの前に立っていた。
一晩、コンビニの明るさと店員の視線の中で耐えた末に、結局戻ってくるしかなかった。片手にはコンビニ袋。寝不足の目で建物を見上げる。二階の窓には、まだ夜の名残の暗さが残っている。
「……大学初日から何をしてるんだ、俺」
自分に向けたはずのぼやきが、朝の静けさの中でやけに大きく響いた。
階段を上がる。一段ごとに、昨夜の記憶が足に絡みつくようだった。
二階。二〇三号室。
紙袋は――なかった。
「…………」
左右を見る。廊下の常夜灯は、朝の光にすっかり存在感を失っていた。
ない。
「管理人さんか?」
こんな時間に?
自分で言っておいて無理がある。管理人が深夜零時前に廊下の荷物を片付けに来るとは思えなかった。
隼太は鍵を開け、室内を覗いた。
何もない。
スマホのライトを点ける。玄関、床、テーブル、ベッド、クローゼット。念入りに確認する。折戸を開け、隙間の奥まで光を差し込んだ。
異常はなかった。少なくとも、目に見える範囲では。
ドアを閉め、鍵を掛け、チェーンまで掛ける。指先が、まだかすかに冷たい。
そこで力が抜けた。
玄関に座り込み、長く息を吐く。安心と疲労が同時に押し寄せてきて、うまく形にならない。
「もう、お腹いっぱい……」
ベッドまでたどり着くと、そのまま倒れ込んだ。上京してから買ったばかりの安いマットレスに、身体が沈んでいく。
目を閉じる。
静寂。
一秒。二秒。三秒。
何も鳴らない。
そのことを確認するより先に、隼太の意識は落ちていった。
*
スマホのアラームが鳴った。
「……うるさ……」
手探りで止める。眠りの底から、ようやく指先だけが戻ってきた。
時刻を見た。
「…………」
一瞬で目が覚めた。眠気が、恐怖よりも早く消え去った。
「やっば!」
飛び起きて顔を洗い、服を着る。バッグに必要なものを放り込み、玄関へ急ぐ。手も足も、まだ本調子ではないのに、頭だけが強制的に動き出す。
そこで、一瞬だけ時間が止まった。
昨夜、紙袋が置かれていた場所。
何もない。当然だ、と分かっているのに、確認せずには前に進めなかった。
「…………」
隼太は靴を履いた。爪先を鳴らして踵を合わせながら、自分に言い聞かせる。
「疲れてんだな。うん」
外へ出る。朝の空気は、昨夜の冷たさとはまるで違う、生活の匂いを含んだ空気だった。
「それでいこ」
階段を下りた。
朝の東京には、通勤する会社員も、通学する学生も、車も自転車もいる。エンジン音、信号の電子音、誰かの自転車のベルの音。すべてが、ありふれた朝の音として鳴っている。
昨日と同じ街だ。
隼太も、その中へ混ざっていった。
駅の改札を抜け、ホームへ続く階段を下りる。人の流れに紛れると、少しだけ気持ちが軽くなった。
スマホを確認しながら歩いていると、ふと視界の端に人影が入った。
ホームの端に女が立っている。
二十代くらいだろうか。白いブラウスに黒っぽいスカート。長い髪。ホームの喧騒の中で、その一角だけが、妙に静かに見えた。
隼太は一瞥しただけで、スマホへ視線を戻した。寝不足の頭には、それ以上の判断をする余裕がなかった。
電車が入ってくる。ホームの人々が動き、次々と車内へ吸い込まれていく。
女は乗らなかった。
隼太も混雑した車内を見て、一本見送ることにした。乗り込む気力すら、今日はまだ残っていない。
電車が発車する。
ホームの人が一気に減った。空いたホームに、風だけが残る。
女はまだ、同じ場所に立っている。
何となく気になって、もう一度見る。
女は線路を見つめていた。視線の先には何もないのに、じっと、何かを待つように。
隼太も視線を外す。関わりたくない、という直感だけが働いた。
電光掲示板を見ると、次の電車まであと二分。
前方から会社員が歩いてきた。スーツにビジネスバッグ、片手にスマホ。よくある朝の一場面。
その進行方向には女がいる。
避ける気配がない。会社員は女の存在に気づいている様子すらなかった。
ぶつかる。
そう思った瞬間――会社員の身体が女と重なった。
「……え?」
会社員は何事もなかったように通り過ぎていく。歩調も表情も変わらない。
女は動いていない。
隼太は目を擦った。
見間違いだ。寝不足なんだから、それくらい――。
もう一度、女を見る。
女がこちらを向いていた。
目が合った。
女の顔に浮かんだのは、驚きだった。何かを見つけた者の、隠しきれない驚き。
「…………」
「…………」
そして女は、確かめるように口を開いた。
「……見えてるの?」
隼太の身体が固まった。関節という関節が、まとめて動作を拒否したような感覚だった。
「ねえ」
反射的に目を逸らし、スマホを見る。画面が意味のない光の板になった。
「私」
足音がする。ホームの床を踏む音。それが確実にこちらへ近づいているのが分かる。
「見えてる?」
答えない。
画面を見つめる。だが、そこに何が表示されているのか一文字も頭に入ってこない。文字の並びが、意味を持たない模様に見えた。
足音が止まった。
すぐ近くだ。
「やっぱり」
隼太は目だけを上げた。
女がいる。
さっきより、ずっと近い。息が触れそうな距離ではないが、視線を合わせずにいられる距離でもなくなっていた。
「見えてるんだ」
女が微笑んだ。喜びと、どこか安堵の混じった笑み。
「…………誰?」
言ってから気づいた。
やってしまった。祖母の言葉が、遅れて頭の奥で鳴った。――夜に名前を呼ばれても、すぐ返事をするな。今は夜ではないし、名前を呼ばれたわけでもない。それでも、応じてはいけない何かに、たった今、応じてしまった気がした。
女の笑みが、深くなる。
「ねえ」
女がホームの端を指差した。線路との境目、黄色い点字ブロックのすぐ向こう。
「こっち来て」
「いや、撮り鉄違うし」
即答した。
自分でも何を言っているのか分からない。頭より先に口が動いた、というのが一番近い。
「大丈夫だよ」
「何が」
「すぐだから」
「何がすぐなんだよ」
「怖くないよ」
「いや怖いよ」
隼太は後ろへ下がろうとした。
――右足が前へ出た。
「……は?」
自分の意志と、足の動きが噛み合わない。まるで、身体の中に別の指示系統が入り込んだようだった。
もう一歩。
女が嬉しそうに笑った。
「ほら」
隼太は上半身を後ろへ引く。腰から上だけが必死に逆方向を向いている。
なのに、足だけが前へ進む。
「待て」
「大丈夫」
「待て待て!」
一歩。
ホームの端が近づく。足の裏に、点字ブロックの凹凸を感じた。
「私も」
「待てって!」
「怖くなかったから」
「俺は怖いんだよ!」
近くの柱へ手を伸ばした。
掴む。掌にコンクリートの粗い感触と冷たさが伝わる。
身体が前へ引かれる。指に力を込める。爪の先まで、白くなるほど。
「っ……!」
女を見る。
違う。
さっきと違う。
乾いていたはずの長い髪から、水が落ちていた。
ぽた。
ぽた。
床に落ちる水音だけが、やけに生々しく聞こえた。
白いブラウスはびっしょりと濡れ、肌に張りついている。
裸足だった。
そして、その足首は不自然な方向へ曲がっている。関節の在り方として、あり得ない角度だった。
「一緒に行こう?」
「行かん!」
ホームに接近放送が流れた。
『まもなく――』
隼太の顔から血の気が引く。
線路の向こうに光が見えた。二つの光が、少しずつ大きくなっていく。
電車が来る。
女が笑った。
「来たよ」
「……っ!」
身体を引く力が、一気に強くなった。まるで背中に紐が結ばれ、その紐を誰かが全力で引いているようだった。
柱を掴んでいる指が滑る。
「もう少し」
「やめろって!」
「もう少しだから」
――パァァァァァァン!
警笛がホームを切り裂いた。
強烈な前照灯。轟音。レールから伝わる振動。巻き上がる風。すべてが一度に押し寄せ、思考する余裕を奪っていく。
その瞬間。
女の姿が――乱れた。
ほんの一瞬だけ。輪郭が、テレビの走査線が乱れるときのように震えた。
同時に、勝手に動いていた隼太の右足が止まる。
「…………!」
理由なんて考えなかった。考える時間もなかった。
柱を蹴る。
身体を横へ投げ出す。
ホームに転がった。肩と腰が硬い床にぶつかり、鈍い痛みが走る。
痛い。
でも動く。動くということが、何より大事だった。
すぐに立ち上がり、走った。
「待って」
「嫌や!」
「待って!」
視界に非常通報装置が入った。赤いボタンの色だけが、やけにはっきり見えた。
隼太は迷わず押した。
警報音が鳴る。ホーム全体に、それまでとは違う緊張が走る。
『どうかされましたか!?』
「人が……!」
言葉が止まる。何をどう説明すればいいのか、自分でも分からなかった。
女がこちらへ歩いてくる。濡れた足跡が、床に一歩ごとに残っていく。
「……っ」
隼太は柱の反対側へ回り込み、女から視線を切った。視線を合わせないことだけが、今できる唯一の対抗手段のように思えた。
『もしもし! どうなさいましたか!?』
「人が……線路に……」
いない。
そんな人間は、最初から誰にも見えていない。周りの乗客は、いつもと同じ顔で電車を待っている。
「……落ちそう、で」
咄嗟に出た言葉としては、悪くない説明だった。
『そこを動かないでください!』
足音が近づいてくる。駅員の靴音、それに交じって、もう一つの濡れた足音。
駅員だけではない。何事かとこちらを見る乗客もいる。
隼太は柱の陰で息を殺した。呼吸の音すら、女に聞かれてはいけない気がした。
柱の向こう。
女の足元だけが見える。
裸足。曲がった足首が、床のタイルに水の跡を作っていく。
その足が止まった。
すぐ向こう側にいる。柱一枚を隔てただけの距離に。
隼太は口を押さえた。
「…………」
女の声がした。
「どこ?」
隼太は目を閉じる。目を閉じれば見えなくなる、という道理でもないと分かっていながら。
「ねえ」
駅員の声が近づいた。
「大丈夫ですか!」
隼太がもう一度目を開けたとき、女の足は消えていた。
誰もいない。床の濡れた跡も、いつの間にか見当たらなかった。
代わりに駅員が駆け寄ってくる。制服の色と、心配そうな表情に、ようやく人間の世界へ戻ってきた実感がした。
「どうしました?」
「…………」
「気分悪いですか?」
「……はい」
「え?」
「めちゃくちゃ悪いです」
嘘ではなかった。今日ほど気分が悪い朝は、記憶にない。
ホームへ電車が入ってきた。次の一本が、当たり前のように滑り込んでくる。
いつもの朝だった。
乗客が降り、別の乗客が乗り込んでいく。誰も濡れた女を探していない。誰も裸足の足跡を気にしていない。世界は、何事もなかったことにする速度だけは異様に速かった。
隼太は柱にもたれたまま、線路を見た。
女はいない。
「…………何だよ」
声が震えた。
「何だよ、この感じ……」
*
駅の外へ出ると、朝日が眩しかった。
人混み。車。信号。街の雑音。
全部、いつも通りに見える。だが、その「いつも通り」が、今の隼太には少し薄っぺらく感じられた。
隼太は歩きながら何度も後ろを確認した。誰かの視線を、まだ背中に感じているような気がしてならない。
誰もいない。
ようやく少しだけ息を吐く。
交差点で赤信号に捕まった。
向こう側にはランドセルを背負った小学生たち。会社員。自転車。ごく普通の、朝の交差点の光景。
その中に――裸足の老人が立っていた。
俯いたまま、動かない。周りの誰とも違う体温を持っているかのように、そこだけ景色から浮いて見えた。
隼太の視線が止まる。
老人の横を人が通っていく。
誰も避けない。誰も気づいた様子がない。
老人も動かない。
「…………」
老人が、ゆっくり顔を上げ始めた。
隼太は即座に目を逸らした。今度は、迷う前に身体が動いた。
信号が青になる。
歩く。
早足で。靴の裏がアスファルトを叩く感覚だけに集中する。
「見てへん」
歩く。
「俺は何も見てへん」
背後から声がした。
「…………おい」
足が止まりそうになる。
止めない。膝に力を入れ、そのまま歩幅を保つ。
「おい」
「…………」
「お前」
歩く。
「見えて――」
「見えてないって!」
思わず声が出た。自分の声の大きさに、自分でも驚いた。
周囲を歩いていた会社員が振り返る。
隼太も一瞬止まり、その男と目が合った。何の関係もない相手に、変な人だと思われている確信だけがあった。
「……すんません」
再び歩き出す。頬が熱い。
もう絶対に振り返らない。
人混みの中へ入っていく。人の多さが、今だけは頼もしかった。
朝の東京。
昨日までと何も変わらない街の中を、隼太だけが何かから逃げるように歩いていった。




