上京は金欠とともに
「……狭」
東京での新生活。その記念すべき第一声が、それだった。
四月上旬。築年数の経った一K。開けかけの段ボールが床を占領し、窓にはまだカーテンすらない。
その真ん中に座った相馬隼太は、スマホ越しの家族へ不満を訴えた。
『着いて最初の感想がそれ?』
母、美沙の声が返ってくる。
「いや、写真ではもうちょい広かったやろ」
『写真で床面積は増えません』
「広角レンズって人を騙すためにあるんやな」
『五万一千円。管理費込み。東京なら上出来や』
今度は父、隆一だった。
京都で地場の不動産屋を営んでいるだけあって、息子の感想より先に数字が出てくる。
「父さん不動産屋やろ。息子にもうちょい何かないん?」
『あるで』
「あるんか」
『八万出したら』
隼太は一拍黙った。
「その三万は?」
『お前が出す』
「はい却下」
『あんた、奨学金なしで大学通えるんやからありがたいと思いや』
突然、姉の千尋が会話へ割り込んできた。
「なんや、姉ちゃんおったん」
『最初からおるわ。ていうか壁、黄色ない?』
隼太は反射的に壁を見る。
白――だったのだろう。たぶん、昔は。
「照明」
『昼やで』
「味や、味。古民家とかも味って言うやろ」
『古民家とボロアパートを一緒にすんな』
「不動産屋がそれ言う?」
『不動産屋やから言うねん』
隼太は段ボールにもたれ、改めて部屋を見回した。
狭い。古い。壁も黄色い。
それでも表情は悪くない。
ここは東京だ。
明日からは大学生。京都の実家ではなく、自分一人の部屋。高校までの生活とは何もかもが違う。
『大学、明日からでしょ。ちゃんと起きられる?』
「十九なんですが」
『高校まで毎朝起こされてた十九歳』
「陸上で疲れてたからや」
『言い訳やんけ』
「うるさいな」
『隼太。仕送りは明日振り込む』
父の声に、隼太の返事が一段明るくなる。
「お、ありがとう」
『十万ポッキリや』
「うん」
『家賃もそこから。追加はなし』
「分かってるって」
『足りん言うても増やさんで』
「まだ何も言うてへんやん」
『言う未来は見える』
「十万あれば余裕やろ」
一瞬、通話の向こうが静かになった。
『言質取ったで』
「なんで」
『六月に確認や』
「二か月あったら俺も東京仕様になってるわ」
『その前に段ボール片づけろ』
「明日やる」
『そういうとこや、信用ないの』
通話が切れた。
途端に、部屋がしんとする。
「……さて」
隼太はスマホの電卓を開いた。
十万。
そこから家賃、五万一千。
「水道光熱……一万。食費……三万」
数字を入力していく。
残った金額を見た。
「九千」
沈黙。
「……いや、まだスマホ代あるやん」
慌てて確認する。
家族払い。
「親、神」
危機を一つ回避した。
だが、もう一度残額を見る。
九千円。
「飲み会二回で死ぬな」
キラキラした東京生活は、どうやら月九千円では少々厳しいらしい。
* * *
翌朝。
青陵大学の正門を抜けたところで、隼太は足を止めた。
新入生でごった返す都心のキャンパス。並木道。大きな校舎。あちこちで飛び交うサークル勧誘の声。高校の制服とは違う、思い思いの服を着た学生たち。
隼太は小さく呟いた。
「……これや」
隣を歩いていた男子学生が振り向いた。
「え?」
「いや、何でもないです」
男子学生が去る。
何事もなかった顔で、隼太はスマホの校内マップを開いた。
「で、七号館どこや」
理想の大学生活を始める前に、まず教室へたどり着く必要がある。
「七号館?」
背後から声を掛けられた。
振り返ると、同年代らしい男子がスマホを片手に立っている。
「ん?」
「俺も。経営?」
「経営」
「じゃ一緒だ。神谷悠斗です」
「よろしゅう。俺は相馬隼太」
「関西?」
「そ、京都」
「うわ、一人暮らし?」
「うん」
「いいなー。俺、埼玉から一時間ちょい」
「それ毎日?」
「毎日」
「きっつ。修行やん」
「親には『通える』って言われた」
「通えると通いたいは別やろ」
「それな! お前とは仲良くなれそうだ、心の友よ」
「早い早い」
出会って一分も経っていない。
だが、隼太も嫌いではなかった。
二人は案内表示を見つけ、七号館へ向かって歩き出した。
「相馬って何で青陵? 経営やりたかった?」
「実家が不動産屋やし、経営勉強しといたら何か使えるかな、くらい」
「じゃあ将来継ぐの?」
「いや、予定はない」
「じゃあ東京まで来た理由は?」
隼太は少しだけ周囲を見る。
しゃれた格好の学生。新歓の看板。大学の外に広がる東京の街。
「キラキラしてそうやったから」
「……何が?」
「大学生活が」
「ああ」
「高校ずっと陸上で、学校行って走って帰って寝る、みたいなんやったし。大学くらいは東京で遊びたいやん」
「潔いな」
「志望理由書には書いてへんで」
「そりゃそうだろ」
「『貴学の建学の精神に深く共感し』って書いた」
「共感した?」
「受験前日に読んだ」
「ダメじゃん」
「受かったから正解や」
悠斗が吹き出す。
大学初日にできた知り合いとしては、なかなか当たりかもしれない。
* * *
中庭付近まで来ると、サークル勧誘の学生が一気に増えた。
その中を歩いていた悠斗が、不意に隼太の腕を軽く叩く。
「相馬。あれ」
「どれ」
「黒いカーディガン」
隼太が視線を向ける。
友人らしい女子と並んで歩く、一人の女子学生がいた。
長い黒髪。すらりとした体つき。派手に着飾っているわけではないのに、自然と目が行く。
顔立ちは、遠目でも分かるくらい整っていた。
周囲の男子だけではない。女子まで何となく視線を向けている。
隼太もしばらく見た。
「……東京すげえな」
「東京の感想それでいいの?」
「いや、普通にめちゃくちゃ美人やん」
「九条綾乃。たぶん一年」
「なんで名前知ってんの」
「新入生のグループで回ってきた」
「こわ」
「何が?」
「入学して何日やねん。本人知らんところで名前回ってる方が怖いやろ」
「でもあれだけ美人なら目立つじゃん」
「まあ、目立つけど。けどやん」
悠斗が少し意外そうな顔をした。
「……お前、思ったよりまともだな」
「さっきから俺を何やと思ってんねん」
「京都からキラキラしに来たチャラ男」
「だいたい合ってる」
否定しきれないのが悲しい。
そのとき、綾乃たちがちょうど近くを通った。
悠斗がほんの少し姿勢を正す。隼太も一瞬だけ意識して口を閉じた。
「綾乃、次どこ?」
友人が尋ねる。
「たぶん三号館。……たぶん」
「また迷ってる?」
「地図が悪い」
「昨日もそれ言ってた」
二人はそのまま通り過ぎていく。
隼太は遠ざかる背中を見送りながら言った。
「方向音痴なんや」
「そこ拾う?」
「完璧な人間じゃない方が安心するやろ」
この時の隼太にとって、九条綾乃はまだ『大学にものすごい美人がおる』というだけの存在だった。
* * *
昼。
大学近くの洒落たカフェの前で、隼太は入口のメニューを凝視していた。
「……千四百」
「ランチならそんなもんじゃない?」
「何が付くん」
「サラダとドリンク」
「晩飯は?」
「付かない」
「風呂は?」
「ホテルじゃねーんだよ」
隼太は真顔でメニューを見た。
「俺ここ来る時、パスポート使ってないが?」
「同じ国内ですから」
「美人と物価が別世界や」
「悲しき貧乏学生よ、学食行く?」
「行く」
「判断が速い」
「長距離は無駄な体力使わへんねん」
「それ長距離関係ある?」
東京でキラキラするためには、どうやら相応の原資が必要だった。
* * *
夕方。
講義棟前を歩く二人の手には、大量のサークル勧誘ビラがあった。
「新歓、どれ行く?」
「この三つ」
「テニス、フットサル、イベント?」
「飯出るやつ」
「大学生活の目標、もうキラキラじゃなくて無料飯になってない?」
「キラキラするにも原資がいるんや」
切実だった。
「バイトは?」
「探してはいる」
「何か応募した?」
「してない」
「探してないじゃん」
「求人は見た。居酒屋とかカフェとか」
「いいじゃん」
「週三。土日どっちか必須。一か月前シフト。面接。履歴書」
「普通だな」
「普通って大変やな」
「働く気ないだろ」
「働く気はあるねん。働き始めるまでが面倒なだけで」
「一番致命的」
隼太としては、働きたくないわけではない。
ただ、今日できることを今日始めなければならない理由がないなら、明日でもいいと思っているだけだ。
「好きな時だけ働けるやつないん? 今日暇やし三時間だけ、とか」
「配達は?」
「配達?」
「フードデリバリー。アプリ入れて、やりたい時だけやるやつ」
「面接は?」
「たぶんない」
「シフト」
「ない」
「店長」
「いない」
隼太は黙った。
「……それ、ちゃんと金もらえる?」
「そこ疑うんだ」
「条件よすぎるやろ」
「お前にだけは向いてそう」
「ちょっと見てみる」
その返事だけは早かった。
* * *
夜。
朝からほとんど位置の変わっていない段ボールに囲まれながら、隼太は床に座ってスマホを操作していた。
画面に表示されているのは、フードデリバリーの配達員登録。
「本人確認……口座……顔写真……」
自撮りする。
画面に映った自分を見た。
「顔死んでるわ」
撮り直す。
「……変わらん」
諦めてそのまま登録した。
続いて報酬例を眺める。
「一件五百、七百……。ピークならもうちょい」
電卓を開く。
「週二、三で……飲み会代くらいはいけるな」
悪くない。
決まったシフトもない。面接もない。暇な日に数時間だけ働くこともできる。
何より、高校まで長距離を走っていた隼太にとって、街を動き回ること自体はそれほど苦にならない。
姉の千尋からメッセージが届いた。
『東京どう?』
隼太は迷わず返信する。
『順調。東京、楽勝』
送信。
そのまま冷蔵庫を開けた。
水。調味料。コンビニのおにぎり一個。
「……明日買い物しよ」
冷蔵庫を閉める。
視界の端に段ボールが入った。
「これも明日」
――ピンポーン。
隼太の動きが止まった。
スマホの時計を見る。
二十三時四十七分。
「……誰」
もう一度。
――ピンポーン。
隼太は立ち上がり、玄関へ向かった。
「はい」
返事はない。
「……はい?」
ドアスコープを覗く。
誰もいない。
しばらく待ってみても、人影は現れなかった。
「間違えたんかな」
チェーンを掛けたまま、ドアを少しだけ開ける。
廊下に人影はない。
ただ、足元に無地の小さな紙袋が置かれていた。
「何これ」
しゃがんで伝票を見る。
『203』。
自室と同じ番号。
だが、宛名欄には何も書かれていない。
「部屋は合ってる……?」
――コン。
紙袋の中から、小さく硬い音がした。
隼太の動きが止まる。
「……」
――コン。
もう一度。
「いや」
隼太は紙袋に触れずに立ち上がった。
そのままドアを閉め、鍵を掛ける。
「知らん。明日、管理会社」
それで終わり。
そう決めて玄関から離れようとした。
――コン。
隼太の足が止まる。
――コン、コン。
ゆっくりと玄関を振り返った。
「……外やんな」
返事を待つように、音が消えた。
静かだった。
数秒。
今度は。
玄関の内側から。
――コン。
「……は?」




