【序章】カレンダーの終わり
「七月が、もう少しだけ続けばいいのに。」
その一言から始まる物語があります。
失った夢。
言えない秘密。
そして、誰にも止められない夏。
これは、忘れられない一つの季節を生きた、
二人の物語です。
梅雨が明けた途端、世界は誰かが空いっぱいに絵の具を流したような、眩しすぎる青と光に満ちていた。
けれど、僕にとって今年の夏は、色のない、行き場を失った季節でしかなかった。
「ねえ、蓮くん。7月って、何日まであると思う?」
病院の中庭。
古びたベンチの背もたれに浅く腰掛けた白石星の横顔は、夏の日差しを受けて硝子細工のように透き通っていた。
足元では、点滴スタンドから透明な雫が一定のリズムで落ち続けている。
僕は膝の上に広げたノートから目を上げ、剥きかけのリンゴの皮を親指で押さえながら答えた。
「普通は31日までだよ。幼馴染みの君に聞かれなくても、それくらい知ってる」
ぶっきらぼうに返したつもりだった。
実際、今の僕には軽口を交わす余裕なんて残っていなかった。
三か月前。
全国大会を目前に控えたコンクールの直前、僕は事故で右手首の靱帯を大きく損傷した。
鍵盤に触れるたび、焼けるような痛みが走る。
診察室で医師は静かに言った。
「以前のようには弾けないかもしれません」
その一言で、音楽科への推薦も、積み重ねてきた努力も、未来だと思っていた景色も、一瞬で崩れ落ちた。
――これから、どう生きればいい。
答えを見つけられないまま病院の庭を歩き回っていた僕を捕まえたのが、幼稚園の頃から隣にいる星だった。
「ふうん、31日までねぇ……」
星は面白そうに目を細め、ゆっくりと空を見上げる。
白い雲が、夏風に押されながら静かに流れていた。
「でも、人間が決めたカレンダーなんて案外いい加減じゃない? 二月は二十八日しかないし、うるう年だってある。人間の都合で日数が変わるんだから、七月が少しくらい長く続いたっていいと思わない?」
「何言ってるんだよ。そんなことになったら世の中が大混乱だ」
「混乱したっていいじゃない」
星はくすっと笑う。
「幼馴染みの特権としてさ。私たちがその時間を望むなら、その場所だけは永遠になってもいいと思うんだ」
悪戯っぽく笑うその表情に、不意に胸を突かれた。
病室で静かに死を待つ患者。
そんなありきたりなイメージを、彼女は軽々と飛び越えてしまう。
幼い頃から見慣れているはずの笑顔なのに、今の彼女はどこか遠くへ行ってしまいそうな危うさをまとっていた。
「……相変わらず変なやつだな」
「よく言われる。でも、退屈な幼馴染みよりは面白いでしょ?」
そう言って星はひらひらと手を振る。
点滴スタンドを押しながら、小さな足取りで病棟へ戻っていく。
「じゃあね、蓮くん。今日の音楽の授業はここまで。また明日、この庭で」
去っていく背中を見送りながら、僕は右手をそっと握り締めた。
夏の日差しは容赦なく肌を焼いている。
それなのに、眩しかったのは太陽ではなく、あの背中だった。
このときの僕は、まだ知らない。
物心ついた頃からずっと隣にいたその少女が、僕の止まってしまった時間を再び動かすほど大きな「嘘」と「音楽」を抱えていたことを。
そして僕たちが、誰も知らない、たったひとつの夏へと歩き出すことを。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
この作品は、「もし、終わってほしくない夏があったら」という一つの想いから生まれました。
夢を失った少年・蓮と、秘密を抱えながらも明るく笑う少女・星。
二人の何気ない日常が、この先どのような物語へとつながっていくのか、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




