二話目
「今、暇?」
閉じていた瞳を開くと、つい先日振りの顔があった。端麗な容姿は今日も揺るぎがなく、自身の手入れに手抜きをしない真面目さを垣間見せている。
「そう見えるか?」
見えるだろうことは確信しているが、男はそれでもそう問うた。暇だと答える訳にも暇ではないとも言えず、男は答えを他者に求める。
「結構、腹立つ感じ」
分からなくもない感想、むしろ真理だろう。落ち込んでいる人間など見ていて楽しい物ではない。男が意外だったのは、それを少女が見抜いたことだった。十代中頃とは言え、そこが女性らしさなのかもしれない。
男が自嘲的な笑いを浮かべて返す。鼻でも鳴らされるかと予想していたが、少女はそうしなかった。一瞬だけ眉根を寄せると、胸に手を添え、彼女は言う。
「名乗ってなかったよね。白井芸能プロダクション所属見習い睦月凛です」
名乗り返すのに手間取る男を待たず、凛は男の濁った目を強く見据えた。
「我ながら、自分勝手だと思う。けど言うね。あたしはあなたがどうしてそんな風になっているのか知らないし、興味もない。でもあなたの力が欲しい。協力して下さい」
年相応の、頭を深く下げるだけの不恰好なお辞儀だった。腰から曲げる、きちんと定められた角度で行う、そう言った類のものとは異なる無様さだ。
「《チューナー》としての力か?」
「あたしにはあたしだけの《ドレス》が必要なの。汎用型じゃなくて専用型の《ドレス》が」
一つだけ釘を刺すことにした。専用は童話に出てくるような魔法のドレスとは違う。手を加えずともあつらえたように馴染む物でも、王子の心を惹きつける物でもない。
「《ドレス》に頼る前に実力をつけた方がいい。お前は《エアリアルレイド》に相応しい《アイドル》である自信があるか?」
《エアリアルレイド》は《ドレス》製作の第一人者が酔狂で製作した《ドレス》だ。歴代で使いこなした《アイドル》はただ一人。それほど要求される《IL》のレベルが桁外れで、欠陥品ギリギリの《ドレス》と言われている。
「わからないよ。あたしには《チューナー》だけじゃない、《トレーナー》も《マネージャー》もいないんだ。あたしの実力、量りようがないよ」
「諦めろ」
そう答えるのが正解だった。仮に男が目の前の少女をいっぱしの《アイドル》として認めたとしても素人に毛が生えた程度のもので間違いない。そんな低レベルの《アイドル》が《エアリアルレイド》を使えば事故に遭う確率はかなり高くなる。過去がなかったとしても男は承服し兼ねただろうし、男以外の業界関係者でも間違いなく同じ答えを提示するはずだ。
「諦めない」
少女の瞳は光に満ちていた。男には、その目に覚えがある。唯一にして最高のパートナー、雪奈が宿していた輝きだ。だからこそ汚い手段を取る決意をした。
「《エアリアルレイド》は過去五人の《アイドル》を再起不能にしている。当然彼女らの所属事務所は責任を取り閉鎖に追いやられた」
要するに男は、凛が高確率で事故に遭うこと、そうなった時に白井芸能プロダクションへ尋常ならざる被害を与えると示した。愚者であれば自分はそうならないと妄信し、聡い者であれば所属事務所への迷惑や、《エアリアルレイド》に拘るメリットがないことに気付く。
凛は愚者でも賢者でもなかった。だからこそ、なおさら雪奈の影がちらつく。
「あたしがやらなきゃ事務所が潰れるんだ。だから、仮に失敗してもデメリットはないよ」
例え被る害に思い当たったとしても、保身よりも得なければならない物を知っている。勝負をすべき時を肌で感じている。そんな、心根だった。男はそれを感じとった。だからこれから言う語の無意味さを確実視している。
「《アイドル》をしていて死ぬこともある」
それが直接的原因、間接的原因かを男ははっきりとは言葉にしない。
「あたしは、あたしの命がそれで燃え尽きるのならそれでも構わない」
枯れ果てたと思っていた涙で、視界が揺れるのを感じた。
「当てはある。だが、期待はするな」
「ありがとう」
夕日を背に、彼女は柔らかい笑顔を浮かべた。
男は、凛から《エアリアルレイド》を受け取った。表裏に金糸状の物で画かれた《回路》が日光を反射し、赤く輝く。
「君はどの子がいいと思うかね?」
貧困率の高いこの国においては珍しい、恰幅の良い男が問う。ろくな者がいないという訳にも行かず、男は少しだけ思案する仕草をし、答える。
「そうですね。2番、4番、10番、14番のうちの誰かだと思います」
「やはり4番かね! いやああの豊満なボディ! あれだけで売りになるよ君ぃ!」
愛想笑いを浮かべながらも、心の中では舌打ちする。噂に聞いた名スカウト《星拾い》でなくとも分かるほど、いや《星拾い》ですら見つけられないと思えるほど、今回のオーディションに集まったメンバーは酷かった。誰一人突出する者がなく、しかもその事に男以外の審査員は気付いていない。
男が優秀なのではない、問題なのはスカウトとしては十人並みの能力しか有さない男の目すら騙せる参加者がいなかったことだ。資格ばかりで実績のない男を唯一として雇い入れた芸能プロダクションに感謝の気持ちはあるが、実績を積めないことが確実な仕事に、それを割り振られることが確定した怒りは、それに見合わない。
「帰りは社の車を出そう、ここは君の生まれ育った国とは治安が違うから間違っても一人で出歩かないことだよ。日本人などよいカモ扱いだ」
「はい、ありがとうございます」
言葉は思いに反して自然と出る。本心では感情に任せて駆け出したい所だった。しかしそれで命を落としては元も子もない。男は素直にこの国に不釣り合いな高級車に乗り込んだ。
しかし運のない時はとことんないものだ。社用車で移動していたのにも関わらず、現状で周囲を取り囲まれている。運転手の話ではこの辺りを縄張りにしているギャングらしい。金をいくらか支払えば見逃して貰えるそうだが、不運なことにこの国に来たばかりで財布の中身はその最低限の額に達していない。
リーダー格の男が捲し立てる言葉を理解できる自分が嫌になった。こんなことなら事前に学ぶのではなかったとさえ男は思う。彼が言うには男の乗る社用車程度の重用具合の社員なら殺しても社長は報復しないとの事で、酷い話だ。運転手もさして悪びれもせず、後部ドアを開く。仲間は誰一人いないようだ。
「よう日本人。しこたま持ってんだろ? 出せ」
「財布は丸ごと出すから《ライセンス》だけは返してくれ」
同郷の言葉で返されたからか、リーダー格の男は一瞬目を丸くしたが、手慣れた様子で差し出された財布を受けとり、中身を確認すると逆上を始めた。顔面に青筋を浮かべ、舌なめずりをするように声調に粘りが入る。
「舐められたもんだなあ、これっぽっちで俺たちが退散するとでも?」
「《ライセンス》さえ残してくれれば全て剥いでくれて構わない」
「かっこいいじゃねえか。けどよお、手前の服剥いで売りさばくルートが俺達にはねえんだわ。金が取れねえなら仕方がねえ、俺らの憂さ晴らしに付き合って貰うぜ?」
リーダー格の男が硬質カード状の《ライセンス》に手を掛け、へし折ろうとした瞬間、男の身体は無意識に動く。慣れていないその動作に、拳が痛んだ。
「ぶっころ――」
「――ねえ、邪魔何だけど」
リーダー格の男のだみ声に、冷たい声が一つ被せられた。薄汚れた少女達だった。年の頃は十代前半、姉妹なのだろうよく似た二人の内、妹と思われる少女が姉の服の裾を掴み、怯えきった顔をしている。他方、姉は酷く冷めた目でリーダー格の男を見据えていた。
「ああ! 邪魔なのは、て、め」
明らかに年上のリーダー格の男が怯んでいた。その光景は男にとっては異常だったが、ギャングたちの事情では無理らしからぬようで、誰もが口を噤んでいた。
「三人、死ぬわよ。妹に手を出すなら五人。それだけは絶対」
男も自然と息を飲んだ。少女の持つ雰囲気は、男の今までの人生で目にしたことのない物だった。酷く喉の乾く、そういった類の物だ。
「行くぞ」
リーダー格の男が、男の財布を彼目がけ放り投げその場を後にした。残された男は、同じく残された姉妹に無遠慮な視線を向けてしまう。垢の付いた肌に、油で汚れた髪、荒んだ瞳に身体を隠すだけのボロ衣。
「ねえ」
姉の方が男に声を掛ける。その声は気だるげなようで、含みが込められたようなそれだ。
「《アイドル》ってお金になるんでしょう?」