三投目
《エアリアルレイド》を凛から受け取り、数日が過ぎていた。男は凛と出会った公園とは別の公園のベンチに腰を降ろしている。その手に《エアリアルレイド》はない。今は男の自宅の机にしまい込まれている。
今頃凛は男と出会った公園で彼を探しているかもしれない。盗まれたと警察に届け出ているかもしれない。男はどちらでも構わないと思っている。雪奈とどこか似た《アイドル》から《エアリアルレイド》を遠ざけることに成功し、それでことを完結させた。
《スノウ》を失い、自身が事故に遭い、そして退院してから先日の出会い。それまでと、変わらない日々が再開されていた。幸もさらなる不幸もなく、浮き沈みもない日々を、ただ怠惰に過ごす。
「隣、よろしいですかな?」
人の良さそうな顔をした老人に身振りで答え、男はその場を立ち去ろうかと思案したが、その動作が理由で、老人から離れる機会を逃す。
「あなたと同じ目をしたことがあります。うんと若い頃にね。今のあなたと同じくらいの年齢でしたでしょうか」
老人の言葉が男の胸深くに届くことはなかったが、知らず老人は続ける。
「時は、万病の薬にはなり得ません」
一般的な物言いと異なる内容に、男はつい視線を向け、耳を傾けてしまう。
「忘れた振りは出来るでしょう、思い出す回数が減ることもあるでしょう。しかし、ふとした拍子にそれは鮮明な出来事として蘇る」
「なら、どうしたらいいのでしょうね」
「失敗した出来事で成功すればよいのです。後悔は達成で上書き出来ます」
男は老人の言葉に肯定することが出来なかった。当然だろう。男には同意するに足るだけの経験がないのだ。雪奈を失い、後悔しているのは過去ではなく、現在の出来事なのだから。
「そんな物ですかね」
「そんな物です。終わせた後ならば。終わらせた後です。気を悪くなさらないで下さい。だから今のあなたには理解出来ないかもしれませんね」
ならどうしてそんな話をした。男はそう言いたくなる。
「一人で悩み、一人で暗闇に落ちていくのなら自由になさい。そして、一人で責任を取りなさい。ただ、二人目を引きずり込むことを、私は許しません。人は他者の人生を背負えません」
老人の声に、険が入る。しかし、それも一瞬で、再び包み込むような穏やかさが戻る。
「前に進み、二人目三人目を巻き込みなさい《魔法使い》」
男が老人を二度見返した時、そこに先ほどの老人の姿はなく、呆けたように口を開いたり閉じたりしている者がいた。
「すみませーん、おじいちゃ、んが……」
少し離れた所から駆け寄ってくる凛の姿に、男は絶句するより他なかった。数瞬の間があってようやく、こんなふざけた偶然があるものかと、怒りが沸き起こる。そして、どれだけの罵詈雑言をその身に受けるかと身構えたが、杞憂に終わる。
「《エアリアルレイド》の調子、どうかな? 修理、難しい?」
凛は、男を疑ってなどいなかった。強いてそう振舞っているのかと男は邪推したが、今目の前にいる少女の自然な様子にとてもそうだと思えない。
「違う。ごめん、順番間違えた。ごめんね、社長が迷惑かけなかった?」
疑問符を男が浮かべていると、凛は逡巡した後紹介を始める。
「こちら白井プロの白井社長。数年前から呆けが始まっちゃって、一日の大半は呆けているんだ。でも大事な時には戻るんだ、ホントだよ?」
男は何と答えていいのかわからなかった。目の前で虚空を見つめる老人は何も告げない。
「お前は、白井プロに所属していていいのか?」
「これがホントに大事な時には凄い人何だって。事務員の赤鳥さんもすっごく優秀で、一人で事務所の切り盛りしているんだから」
誇らし気にしている凛に対して、男は完全に胡乱気な目つきでいた。
「他の所属はいるのか?」
「いたよ、たくさん! でも社長がこうなってからは皆いなくなっちゃった」
何故お前はその時移籍しなかった。そう訊きたい気持ちは湧き上がらなかった。白井プロの現状に処方する薬を思いつかなかったからなのか、深入りを避けるためなのか、男には判断がつかない。おそらく、両方だ。
「《エアリアルレイド》は俺が二千万で買い取ってやる。その金で成人まで食いつなげ。事務所はもう畳め。赤鳥とやらがその手続きを出来ないのなら俺の伝手で何とかしてやる」
所属する組織を否定された嫌悪は起こらず、凛はむしろ疑問が浮かんだらしい。口元に折った指を当て、小首を傾げる。そして、考えが纏まったのか、それを口にした。
「どうしてそこまでしてくれるの? 《エアリアルレイド》の修理を頼んでおきながら変な話だけどさ、あなたにそうまでして貰える理由が思い当たらないよ。あなたは『デビューさせてやろう』って言ってくる大人たちとも、あたしのことをろくに知らない癖に『好きだ』と言ってくる男子たちとも違う気がする」
眉目秀麗と評して引け目なしの凛は、それで得もすれば損もあったことが窺い知れる。男の目の前で疑問を呈している今この瞬間の表情ですら異性どころか同性の目すら奪うだろう。
ここで雪奈に似ているから。とは男は答えない。それが真実だとは思えないからだ。では手の届く範囲で助けられるからだろうか。そう思考も出来たが、しっくりこない。男は無関係の人間が目の前で野垂れ死に寸前になっていようが、それについて何の感慨も持たない人間だ。
「ただの、気まぐれだ」
「そう。気まぐれなんだ。人が良いんだね」
凛の言葉の意味が男には理解できない。偽善と言われようと考え無しとも言われようが許容出来た。だが人が良いというその言葉には、すんなりと受け入れられないだけの抵抗感がある。
「だって、あなたは見返りを求めていないもの。二千万なんて大金なのに、冗談じゃなく出すつもりだったでしょ? でもあなたはそれであなたに対してどうこうしろって言わなかった」
凛は、求める物がない者のことを知らない。そう男は判断した。
「後から要求しようとしたかもしれない。それに《アイドライジング》に従事していれば二千万はさして大金でもない」
「トップクラスの《アイドル》の《チューナー》だったんだ?」
例え高所得職業である《アイドライジング》界従事者であっても、二千万稼ぐことはそう容易ではない。男は自分の失言に気付き、舌打ちをした。そして、雪奈はもう笑うことも泣くこともないというのに、自分は感情を激しく起伏させてしまっているという事実に嫌気が差す。
「昔の話だ」
居たたまれず、男は踵を返す。その背に凛が言葉を掛けようとしたその時、老人の声がした。
「凛、あの青年に一度レッスンを見て貰いなさい。君が《アイドル》に相応しいかどうか、そこで判断をして貰いましょう」
「社長! ……あの、聞こえたと思うけどお願いします」
見たところで意味はない。男は結論を既に出している。それを上手く伝える術が見当たらず、彼は無言で返す。
「絶対に見て貰うから」
誰かによく似た声色で、誰かをどこか彷彿とさせる少女が呟く。




