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恒貞親王の涙

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 最初は、ベェン、ベェン、ベェンと…

不吉な音色で琵琶が掻き鳴らされていた。


 その音色が、徐々に、途切れ途切れになってくると、合間から、何者かの話し声が聞こえてくる。


「は、母君…む、虫を、どりまじだ…み、見てくだざれ…」


 嬉しそうな恒貞親王の声だ。


 しかし、その歓喜を切り裂くように、淳和院后の鋭い声が響き渡る。


「声を発してはなりませぬ!

嬉しかろうが、悲しかろうが、そなたは声を発してはならぬのです!」


「な、なじぇなのでじゅ……な、なじぇ、こ、声を、はっじでは、な、ならにゅのでじが?」


 湿った涙声は、更に、聞き取りづらくなってしまう。


「そなたは帝になる身です。

決して、正体を知られてはなりませぬ。

 声さえ発しなければ、正体が露見することはないのです。

 わらわと乳母めのと以外の者と、言葉を交わしてはなりませぬ」


「わ、わだぐじの、し、しょうだい……」


「そなたは、わらわの申すことだけ聞いておれば良いのです。

 そなたは、帝にならなければなりませぬ。

帝になることが、そなたの幸せなのです。

 分かりましたか!」


 恒貞親王の間延びした絶望の声が、「あぁー、あぁー」と響き渡る中で、ピィー、ピィー、ピィーと…

 高い龍笛の音と重なっていく。


 やがて、その音が消えしまうと…


 代わりに、カーン、カーン、カーンというけいの澄んだ金属音に合わせて、僧侶の読経が重なり、しめやかな音色を奏で始めた。


 そして、そこかしこから啜り泣く声が聞こえてくる。


「淳和上皇(恒貞親王の父親)が崩御なされた…」


「二年にも及ぶ長患いの末、崩御なされるとは…

 一時は、本復の兆しも見せておられたのに、無念でなりませぬ」


「これで、恒貞親王のお立場も危うなった。

今や、恒貞親王をお守りしておるのは、嵯峨上皇お独りになられたのだ」


「なにを申しておる。

恒貞親王のお立場が危ういのは昔からじゃ。

 今に始まったことではないわ。

噂では、読み書きすらままならぬうつけらしい…」


「ワシも聞いたことがある。

日がな一日、淳和院の庭で虫を追うておるとか…

 無口なのは、口を開けばうつけだと知られるゆえ、母君が、声を発するなと躾けておられるとか…」


「何と、それではまるで犬ではないか」


 クッ、クッ、クッと、そこかしこから忍び笑いが起こる。


 ゴリ、ゴリ、ゴリと、恒貞親王の歯軋りが聞こえてきた。


 周囲の噂話が耳に入ったのかと、乳母めのとが気を使い、俯いた恒貞親王の顔を覗き込むと、どうやら泣くのを必死に堪えているようだ。


「悲しいのですね。

上皇様は、お優しいお方でした。

 ことのほか、親王様をお案じになられて…

泣いても、良いのですよ」


 すると、恒貞親王が童のように、ブルブルと首を強く振る。


「な、なぎばぜぬ。

わ、わだじは、こ、声をはっじではならぬのでず。

 み、みなに、う、うづげだど、し、知られでじまうがら…」


 ぶるぶると震える両手を握りしめ、奥歯をゴリゴリと鳴らしながら、必死に泣き声を堪える恒貞親王が、何とも健気で、乳母めのとの方が嗚咽を漏らしてしまう。


「おいたわしや、おいたわしや…」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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