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逸勢の文

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 文月も半ばに入ると、むせ返るような草花の香りと、蝉時雨が燦々と降り注いでいる。


 土塀に囲まれた宮中は、風の通りも悪く蒸し暑い。


ワシは、顎の下に滲んだ汗をそっと拭う。


 執務室で、阿保親王宛の文を書き終え、汗が落ちぬよう慎重に包みながら、ふと遠い過去へと思いを巡らせた。


 こんな折は、あやつが生きておればと、思わずにはいられない。


 あやつとは、佐伯眞魚から空海になって、共に遣唐使を経てからは遍照金剛へんじょうこんごうとなり、ついには、大僧都だいそうずにまで上り詰め、密教の頂きに君臨した男だ。


 あの男であれば、今の帝(仁明天皇)に、嵯峨上皇と淳和上皇じゅんなの間で交わされていた約束事を守らせるなど、造作もないことであったろう。


 しかし、その男は七年前に入定(にゅうじょう・永遠の瞑想)してしまった。


 嵯峨上皇と淳和上皇の約束事とは、「薬子の変」において、兄、平城上皇へいぜいとの皇位争いを経験した嵯峨上皇が、「皇位争いは国家を乱す」と深く戒め、弟である淳和上皇と、兄弟の系統で皇位を順に継承し、皇統を安定させようとしたものだ。


 第五十二代が嵯峨天皇、第五十三代がその弟である淳和天皇、そして、第五十四代が嵯峨天皇の息子である仁明天皇にんみょうで、第五十五代は淳和天皇の息子である恒貞親王つねさだが皇位に着く予定であった。


 ところが、その約束事に横槍を入れる者が現れた。


中納言、藤原良房よしふさだ。


 良房は、嵯峨上皇から深い信任を得たことで、妹である藤原順子のぶこを皇后として入内させると、次第に権力への執着を強めていった。


 今、良房は妹の息子である道康親王みちやすを次の皇位につけようと暗躍しているのだ。


 ここ数年で、邪魔になるであろう臣下を次々に失脚させてきた。


 そして、二年前に淳和上皇が身罷られ、嵯峨上皇が重い病に倒れられた今、その危機は現実のものになろうとしている。


 良房なら、この機に乗じて恒貞親王を暗殺しかねない。


急ぎ、恒貞親王を隠さなければならぬ。


それには、色々と準備が必要なのだ。


 空海の唯一の弟子であった白川白雨に頼んで、嵯峨院近くに治療の場を設けさせ、何とか命を永らえさせているが、それも、そう長くは続くまい。


 十二年前、空海より白川延信という、半家(下級貴族)の子を紹介された時は驚いた。


 父は、朝廷に仕える鍼博士だといっておったが、実際は没落寸前であったのだ。


 しかし、鍼治療に関しては天賦の才を持っておった。

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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