「静的エンディング」が好きらしい
「禍福は糾える縄の如し」と言いますが、私の作品を見ていても同じ感想を抱きます。バッドエンドとハッピーエンドが交互に訪れ、決まった結末の傾向がないのです。多分、全体的な作風だけ見れば私らしさはあるのでしょうが、結末だけ知らされても、同一作者の作品だとは分からないかもしれません。
これは少なからず共感していただけるのではないでしょうか。趣味で創作を行っている以上、同じようなものを作っていると問題が生じます。
──飽きるのです。
飽きたからやめる、という訳にはいきません。物語の方向性を変えたり、最近見た映画に寄せてみたり、あらゆる手を尽くして創作を続けます。ここではもはや、創作は手段ではなく目的なのです。私の場合は下手の横好きですけれど。
それで作風はバラバラになっていく訳です。しかし、私の好みは当然一つの指向性を持っているので、自作の中でも好き嫌いが分かれます。そのことに気づいたのは最近でした。ざっと過去作を読んでみた所、流し読みするものと、入れ込んで読むものに分かれたのです。
その差はどこで生じたのか。先程「結末」について述べていますが、そこに鍵があるのだと気づいたのです。では、私はバッドエンドの自作を好むのか、それともハッピーエンドか。あるいはメリーバッドエンドでしょうか?
……どれも違いました。
私は「ほぼ何も起こらない作品」が好きらしいのです。
物語の最初と最後とで、語り手の置かれた環境には何の差も生じない。彼自身が何か特別なアクションを仕掛けることはない。しかし、モノローグによって心持ちが変化し、世界の見え方だけが変わる。こういう終わり方です。
もっとも、「何も起こらない」と言ってしまうのは、やや正確さを欠くかもしれません。出来事は確かに流れており、会話も行動も存在している。しかし、それらが外界に決定的な変化をもたらすことはないのです。主人公は状況を大きく動かすことなく、ただその中を通過していく。そして最後に残るのは、内面に生じたごく小さな変化、あるいは変化の兆しだけです。
この結末をどう呼べばいいのでしょうか。ハッピーでもバッドでもないでしょうね。だって、何も起こっていないんですから。
仮に「静的エンディング」としてみましょうか。
静的エンディングにおいて、結末とは到達点ではありません。問題が目に見えて決着するわけではない。考えてみれば、現実の私たちの生活もまた、そうしたものではないでしょうか。ある日を境に、全てが一変することなど滅多になく、世界は昨日の延長として続いていきます。それでも、ふとしたきっかけで物の見え方が変わり、同じ事象が違って見えることがある。例えば、昨日は自分を嘲るようだった朝焼けが、今朝は抱擁してくれるかもしれない。その差異をどう受け取るかが、日々を形作っているのだと思います。
だから私は劇的な結末よりも、こうした静かな終わり方に惹かれるのでしょう。はっきりとした決着が与えられる物語は、その瞬間に理解され、消費されてしまうことがある。特に自作においては、アイデアの起草だけで満足しかねません。一方で静的エンディングは、解釈を自分の内側に委ねるようにして終わります。読み終えた後もなお、物語がゆるやかに続いていく感覚が残るのです。だから読み返しても味がする。もちろん、書き手としての愛着も無視できませんけれど。
結末とは出来事の終点ではなく、解釈の始点なのかもしれません。そう考えるようになってから、私はほんの少し、自分の書いたものを好ましく思えるようになりました。




