第九話
就業時間も過ぎた室内に、機械的な音が小さく連続で流れる。
「よし……終わりっと。あー、休みの前に終わったぁ……あとは確認だけだぁ……良かった」
彼女の研究室のデスク。
本日分の仕事と『先生』から預かったデータを打ち終え、彼女は自分の仕事を無事に終えることができた。
上司の仕事が終わるのを待っていたように、少し前に仕事が終わっていた部下の女性が、周辺の片付けの手を止めて声を掛けてくる。
「お疲れ様。あたしは今から夕飯食べに行くけど、チーフもご一緒にいかが?」
「えぇ、そうするわ。お腹も空いたし」
「ふふふ……」
「ん? 何よ?」
近頃、彼女が何かを言う度に、部下の女性の目が優しい。まるで、小さな子供が立ち上がるのを見守っているような視線だ。
「いえいえ……なんだか、最近のチーフはとっても健康的だなって思って……顔色もいいし、食欲も前よりあるわよね?」
「そうね。薬も減ったし、胃も痛くない……」
ポケットの中の薬は、最近はさほど減らないで済んでいる。
「それでもまだ、薬がないと眠れないかしら?」
「少しね。やっぱり仕事が忙しい時は、気を張ってるせいかあまり眠れないわ」
「そうですか……でも薬が減っているなら、コレはいらないのかもね」
部下の女性がポケットからヒート包装された錠剤を取り出した。
「あら、見たことのない錠剤…………新薬? 【中央都市】から、そんなお知らせきてたかな……?」
世界の中心でもある【中央都市】では、いつも新しい薬品やシステムが開発されるとすぐに、各地にあるコロニーや研究施設へサンプルが送られる。
各施設長は常にそれを把握し、施設内の医療班と採用の有無について話し合う。
「どうやら新薬ではなく、サプリメントの類いみたいよ。確か前回チーフが食堂に来なかった時に、うちの食品管理班がサンプルを配っていたから……」
「そう。じゃあ、私が知らないのもおかしくないか。最近は朝も農場でご飯食べてたから、食堂にも行かなかったものね」
彼女は最近、時間さえあれば農場で子供たちと一緒に食事をしていた。あっちの『家政婦』の作る食事が、こっちのシェフより美味しいというのは内緒である。
「本当なら、サプリメントを配るのも一言言ってほしいんだけど……前からそうだから仕方ないか」
「今度、言っておきますね」
サプリメントの場合は食品になるため、いちいち施設長は通さないのが当たり前だ。
「で? これは何の効果があるの?」
「なんでも、疲労回復と睡眠効果があるとか……良かったらコレあげるわ。処方無しでみんなに配っていたけど、あたしは興味ないから」
「う〜ん、じゃあもらってみようかな……後でアレルギーテストして飲むかどうか決めるわ」
「チーフってアレルギー持ちでしたっけ?」
今まで彼女が食事に拘ったりしたところを見ていないので、部下の女性は首を傾げた。
「ううん。私は違うんだけど、農場の子供たちにアレルギー持ちが多くて…………私が下手に飲んだり食べたりした後に触ったりすると、その子たちがすぐに反応起こすことがあるんだって。しかも数日おきに調べないと、コロコロ体質が変わるから厄介なの」
この間は玉子で、その前がナッツだった。日によってアレルギー物質が違うということで、彼女は子供たちに接する時はかなり気を遣っている。
「あら、じゃあもしかして……」
「ん?」
「チーフが朝早くから農場に行って、朝食まで食べていたのはそのせいなの? 子供たちと同じものを食べていれば、そのあとで触れ合っても問題ないものね」
「え、えぇ……まぁ……」
――――そういえば、はたから見たらそうなるよね。ま……結果、子供たちのためでもあるか。
実の所、彼女が農場へ朝早く通っていたのには訳があった。
…………………………
………………
時は数週間遡って、ある日の朝の5時過ぎ。
その日、彼女はたまたま朝早くに目覚めてしまい、日が昇り切る前に農場を散歩しようと訪れていた。
程よい涼しさの畑を歩き、日の出と同時に農場の生活棟へと入っていく。
その時、キッチンではすでに『家政婦』が大人数ようの鍋でメインの料理を煮込んでいるところだった。
『おはようございます、チーフ』
相変わらずの真面目な表情だが、この頃は慣れてきたのか、彼女に対しての口調はだいぶ柔らかいものになっていた。
「おはよう『家政婦』。もう来てたの? ずいぶんと早いのね」
『はい。平日は朝の4時に来ていますので』
「朝というより未明だと思うけど…………あなた、いつも手際がいいから、もっと遅くに活動しても間に合うんじゃないの? 夜も子供たちを寝かし付けるまでいるんだし…………もう少し休んだら?」
『チーフ、お言葉ですが……わたしはプログラムですので疲労感などは特にありませんし、移動や睡眠の時間も関係ありません』
プログラムは実物のように具現化しているが人間ではないので、活動に必要なエネルギーさえ途絶えなければ半永久的に出現できる。
疲労感や寝不足、出現する際に掛かる時間などの負担はほとんど無いと言っていい。
「あ……そう、だった。なんだか、あなたたちを見ていると忘れてしまうな…………」
研究棟にいる政府のプログラムとは、こんなに密に話しをすることがないのも理由だが、農場のプログラムたちと接していると、彼らが『プログラム』であることを彼女は忘れそうになる。
彼女がハッとしたように呟くのを見て『家政婦』は珍しくクスッと笑った。
『ふふ、わたしたちプログラムが、人間と間違われるのは光栄と言えます。あ……チーフも朝食を子供たちと食べていかれますか? お一人増えても充分ありますので……』
「え、じゃあ……お願いできると嬉しいけど…………」
『わかりました』
『家政婦』はそう言うと、予備の皿を取り出し、焼き上げていた沢山のパンをカゴに綺麗に並べる。
その丁寧な動作に、彼女は小さくため息をついた。
――――この人、いつも“食材の素”からちゃんと作って、子供たちのその時のアレルギーに対応して調理しているのよね。
現代、やろうと思えば一切の“調理”の工程は完全に省くことができる。
人類が食べている食品のほぼ100%は、人工的に生み出されている“アミノ酸”を変化させたものだ。
それを素にして食材を作ることができるが、食べられるものという観点から、直接“食品”や“料理”を作ってしまうのも可能である。
こだわりさえ無ければ、わざわざ“素→食材→料理”ではなく、“素→料理”という大幅な短縮ができてしまう。
便利ではあるが、それではまさに“味気ない”気もしていた。
「あなたの料理が美味しいのが、本当によく分かるわ……」
『ありがとうございます。ですが、他の方に食べていただくものに、手間を掛けるのは当たり前ですから』
「………………そう」
――――……前にいた政府の『家政婦』は手間を省いてたのよね。
この『家政婦』に変わるまで、“実験体”である子供たち世話はかなり適当なものだった。
虐待とはいかないまでも、かなり質素な内容の食事だったようだ。どうやらプログラムに『特に配慮の必要なし』と組み込まれていたらしい。
丁寧に扱っても“下級”ですよね?
“下級”の人間相手なら妥当です。
“実験体”には人権は与えられていませんからね。
農場の扱いを変えようとした時、彼女の周りの研究者たちは口々にこう言ってきた。
“上級”として『研究施設』に来た彼らには当たり前の反応なのだが、彼女はそれに嫌悪のようなものを抱く。
――――……ここにいるプログラムが、研究棟にいる人間よりも話しやすいのは……きっと、人間に対して『平等』だから。
表立って言われてはいないが、現代人が“上級・中級・下級”に分かれているのは、より良い未来ために優秀な人間を選別しようとしているためだ。
そして、生活を助けるプログラムは“上級”が作ったもの。
そのため“上級”の人間が作ったプログラムが、“下級”の人間に対して雑になるのは必然だったのだろう。
――――やっぱり『先生』も『家政婦』も政府とは違う動きをしているんだ。このプログラムを作った人は、意図的にそれを彼らに組み込んでいる。
『先生』たちに会っていく中、彼女には確信めいたものがあった。ずっと本人たちに聞いて見ようと思っていたが、監視下に置かれている子供たちの前で聞くのは危険かと思い黙っていた。
――――もしかして、今なら聞けるんじゃ…………
「ねぇ…………あなたたちって――――」
『申し訳ありませんが、わたしは平日朝の6時から8時半までは、こちらとは別の仕事になりますので、一旦戻らせていただきます』
急に『家政婦』が片付けを始め、彼女に向かって一礼をする。朝食は子供たちが来た時に並べるだけになっている。
「へ? 別の?」
『はい。わたしは個人の“家政婦”もしていますので、準備だけして子供たちの朝食の時間には居ないのです』
聞けば、『家政婦』は遅くても昼前には戻ってくる。食べる準備と、食べ終わった皿をキッチンへ戻すことだけを子供たち自身にお願いしているという。
「でも大きな鍋とかもあるし、子供たちだけじゃ危ないんじゃないの?」
『そこは大丈夫です。ではチーフ、どうぞゆっくりしていってくださいね』
「ん……え? あ、ちょっと……!」
スウッと『家政婦』が消えるが、間際の“含んだような笑顔”がとても気になった。
――――何よ……今の表情は?
イタズラっぽいような、愉しそうな…………まるで、部下の女性が時々向けてくる温かい視線。
「なんか…………」
『あれー? 何でこんなに早く来てるの?』
「っっっ!?」
油断していた彼女は、背後から聞き慣れた声に飛び上がりそうになった。
「な、な、何でいつも背後から声掛けるのよっ!?」
『いや、だって……自分は外の農場が出現経路だし…………でも、何でそんなに慌てるの?』
自分でも予想外の動揺ぶりに、彼女は必死に冷静になろうと努める。
「しょっちゅう急に現れるから……び、びっくりするだけよ! それに、あなただって……いつもの出現時間じゃないわよ?」
――――そうよ……確か『先生』の出現時間は、朝の9時からのはずなのに…………
言って、その事実に気付く。
表向きは『教師』である『先生』は、以前と同じように朝9時から15時までしか農場にいないことになっている。夜は『先生』が個人的に人目を避けて出現していた。
「何で、あなたがこんな時間に?」
『それは…………』
『先生』は少し困ったように微笑む。
『ここが、子供たちにとっての“良い最期を迎える場所”であるようにするためだよ』
「は……?」
急に耳に入ってきた突拍子もない言葉に頭は追い付かず、彼女はその場に立ち尽くした。