後編
シエルレウスは数ある精霊王の子どもの中で、誰より美しく、誰よりちからを持つ精霊だった。
だから年老いてきた精霊王がいずれ代替わりするときに、跡目を継ぐのはシエルレウスだろうと目されていた。
しかしシエルレウスは、数ある精霊王の子どもの中で、誰より若い精霊でもあった。
そのせいか、ちからだけは強いものの、どこか考えの足りないところがあった。
父である精霊王は、それを心配していた。
そしてある日、精霊王の心配していたとおりのことが起きてしまった。
精霊のいとし子の乙女が、精霊王への贈り物にするため金の林檎を探しているとき、どこへ行けば手に入れられるかとシエルレウスに尋ねた。シエルレウスは、一番簡単に手に入る場所を教えてやった。
だがそのせいで、乙女は死にかけたのだ。
シエルレウスに悪気はなかった。ただ単に「シエルレウスにとって一番簡単に金の林檎が手に入る場所」を教えただけだ。それが人間にとってとても危険な場所だとは、知らなかっただけなのだ。
その林檎の木があるのが、人間界との境目にある竜の巣の目と鼻の先だとは知っていた。しかし人間がそこへ行って林檎をもいだら竜に気づかれて追われることになるなんて、シエルレウスは思ってもみなかった。
「さっと行って、ぱっと取って、すぐ戻ればいいだけだから簡単でしょ」と、思っていた。だって気配を消してさっと木に近づくことが人間にはできないなんて、シエルレウスは知らなかったのだ。音を立てずに実をもぐことも、風の速さで逃げることもできないなんて、聞いて初めて知って、びっくりした。
シエルレウスのせいで精霊のいとし子が死にかけたと知り、精霊王はため息をついた。
精霊王は息子を呼びつけ、叱責した。
「シエルレウス。王になる前に、お前は弱き者たちのことをもっと知らねばならぬ」
精霊王は息子に木霊になる呪いをかけると、人間界にポイッと放り出した。
木霊は精霊の中で誰よりちからのない精霊だ。
「弱き者の立場を、身をもって学んでくるがよい。呪いが解けるまで、精霊界に戻ることまかりならぬ。お前のことを心から思う者がお前の名を呼べば、呪いは解けようぞ」
木霊の精霊には、特別なちからはほとんど何もない。音もなく姿を隠せるのが、ほぼ唯一の特技だ。
容姿だって、お世辞にも美しくはない。美しくないどころか、まあ、はっきり言うと醜い。人間の大人に出会えば「化け物だ!」と叫んで逃げられ、子どもに出くわせば腰を抜かして大泣きされる。
これはもう、人間から姿を隠しておくしかない。彼は早々にそう割り切った。
けれども姿を見せられず、自分の言葉を話せず、そんな状態の中で、自分のことを心から思ってくれる者が現れるとはとても思えない。しかも名を呼んでもらおうにも、その名は父である精霊王が石に封印してしまった。
どう考えても詰んでるよね、あのくそ親父ったら呪い解く気ないよね? と彼は思った。
そう思いはしたが、だからといって悲観もしなかった。
名無しの木霊の精霊でいることに、これといって不満もなかったからだ。
せっかく人間界にポイッとされたので、彼は精霊のいとし子の乙女の様子を見に行くことにした。
考えが足りずにひどい目に遭わせてしまったけれども、彼だっていとし子の幸せを願っているのだ。彼女が人間の青年に助けられ、その後ふたりが精霊王の加護に守られながら国を興す様子を、姿を見せずにじっと見守った。
ふたりがしあわせそうでよかった、と見守りながら安堵した。
やがて王が亡くなってその息子が王として立つと、新しいいとし子が遣わされる。
新しいいとし子も王家に迎え入れられ、大事にされた。いとし子を大事にしてしあわせにすることが、加護を与えられた精霊のいとし子を遣わす際の、精霊王との約束だった。
いとし子がしあわせそうに暮らす様子を見守って、木霊の精霊もしあわせだった。
そんなふうに、年月は穏やかに過ぎていった。
ところが木霊の精霊が人間界にポイッとされて百年と少したった頃のこと。
木霊の精霊は、途方に暮れていた。なぜなら新しく遣わされてエレンと名付けられたいとし子が、ちっともしあわせそうじゃないのだ。いつでもお腹をすかせて、いつでも疲れ果てていた。
何とかしてやりたくても、木霊の精霊に特別なちからは何もない。
彼はせっせと森に通って木の実や果物を集めては、エレンが眠っている間に枕もとに運んだ。本当は直接手渡ししたいけど、姿を見せたら怖がって泣かれてしまいそうだから、眠っている間にそっと置く。
いつものように木の実を運んだある日、木霊は眠ったふりをしたエレンに捕まってしまった。
そのまま姿を消すこともできないわけではなかったが、エレンががっちりと手をつかんでいるので逃げるのを躊躇した。捕まったまま困惑していると、エレンは木の実に対する礼を言い、あまつさえ木霊の目がきれいだとほめた。その青い目だけは、木霊に変えられる前と同じ色だ。
木霊の精霊は、すっかり舞い上がった。
怖がられないなら、姿を見せてもいいよね、と木霊は考えた。
それから木霊の精霊は、おりあらばエレンのもとに姿を現すようになったのだった。
しかしそれも、エレンが王城に連れて行かれるまでのこと。
王城ではもう、エレンがお腹をすかせることも、疲れ果てるまで働かされることもなくなった。木霊はホッとして、姿を見せずに見守り続けた。
なのに、どうしたわけか、エレンはちっともしあわせそうじゃない。
何とかして元気づけてあげたくて、もうお腹をすかせていないのはわかっていたけれども、せっせと木の実を運んだ。
時には野の花をつんで枕もとに置いた。
木の実や花を見てエレンが笑みをこぼすと、木霊の精霊はうれしくなった。
精霊は誰だっていとし子のことが好きなものだが、いつしかエレンは木霊の「特別」になっていた。
けれども、やっぱりエレンはしあわせそうじゃない。夜になると「さびしい」とつぶやいてはぽろりと涙をこぼすので、木霊の精霊は胸がかきむしられる思いがしていてもたってもいられず、エレンのもとに姿を現してしまった。
さびしがるエレンが不憫で、木霊の精霊は自分の名前が封印された石を彼女に預けた。それで少しでも彼女がさびしくなくなればいいと思った。それに、もう呪いなんて解けなくてもいいような気がしたのだ。解いてくれるなら、エレンがいい。そうじゃなければ、もう解けなくてもいいや。そんなふうに思った。
エレンは木霊の姿を見ると、大喜びして抱きついてくる。
それでつい、呼ばれるたびに姿を見せるようになった。
しかし、それがいけなかった。
そのせいで、エレンは「悪魔使い」などとそしられ、処刑されることになってしまったのだ。
星からそれを知らされてびっくりした木霊は、すぐにエレンを助けに行こうとした。
けれども木霊には特別なちからは何もない。ただ単に人間たちに捕まっただけだった。しかも、エレンを焼き殺すための焚き木にすると言う。自分ひとりなら逃げられたけれども、木霊は逃げなかった。焚き木にするつもりなら、エレンが殺される前にそばに連れて行かれるはずだと考えたからだ。
特別なちからは何もない木霊だけど、もしかしたら、もしかしたら何かできることがあるかもしれない。
祈るような気持ちでいたけれども、やっぱり木霊は木霊でしかなかった。
処刑の日、木の柱に縛り付けられたエレンの足もとに投げ出された木霊は必死にもがいてはみたものの、何もできなかった。
木霊はこのとき初めて、ちからのないことを悔しく思った。
自分が燃やされるのは、別にいい。でも、エレンはだめだ。
何もできずに、かなしい気持ちでじっとエレンを見つめていると、彼女ははらはらと涙をこぼした。すると、彼女が首から提げていたお守り袋がふわりと浮き上がったではないか。お守り袋には、名を封じた石が入っていた。封印石は、強く青い光を発してから割れた。
シエルレウスの名の封印が解けたのだ。
お願いだ、名前を呼んで。シエルレウスは強く念じながらエレンを見つめ続けた。
果たしてエレンは名を呼んでくれた。
「シエルレウス!」
その瞬間、シエルレウスの全身を淡い光がつつみ、彼はもとの姿を取り戻していた。
処刑を見に集まっていた人間たちは、シエルレウスの神々しいほどの美しさに目を奪われ、言葉を失った。彼に火をつけるためたいまつを押し当てようとしていた刑吏も、何かを恐れるように数歩後じさっている。
シエルレウスは自分の手を見下ろした。
それがもう枯れ木のような木霊の手ではないことを確認すると安堵したように微笑んで、エレンに向かって指をひと振りする。エレンを縛り付けていた縄は、するりとほどけて地面に落ちた。柱から自由になった彼女をシエルレウスが軽々と抱き上げる。
「エレン。エレン! ああ、やっと名前が呼べる。呪いを解いてくれて、ありがとう」
「あなたは、木霊の精霊さんなの……?」
「そうだよ。もう木霊じゃないけど、きみの精霊だよ」
シエルレウスがエレンに頬ずりすると、彼女はくすぐったそうに首をすくめて小さく笑った。
エレンの涙がとまったのがうれしくて、シエルレウスは何度も彼女の髪に頬をすり寄せる。
その様子を見ていた人間たちの中で、いち早く我に返った王子がシエルレウスに向かって叫んだ。
「お前は何ものだ?」
シエルレウスはエレンを守ろうとするかのように抱きかかえる腕に力を込め、怪訝そうに王子を見た。
「僕? 僕は精霊王の末息子、シエルレウス」
シエルレウスが精霊王の息子と聞いた人間たちは驚き、どよめく。
「父に木霊になる呪いをかけられて修行に出されてたんだけど、呪いが解けたからもう帰る。君たちは加護もいとし子もいらないようだから、この子は僕が連れて行くよ」
シエルレウスが腕の中のエレンに微笑みかけて「一緒に来てくれるでしょう?」と尋ねると、彼女も微笑み返して「はい」と答えた。
シエルレウスの背中に光をまとった一対の羽が現れ、これから飛び立とうとするかのように広げられた。青い顔をしてその様子を見ていた王子は、あわててシエルレウスに駆け寄って声をかけた。
「お待ちください! どうか、どうか加護はなくさないでください!」
「え?」
羽ばたきかけた羽をとめて、シエルレウスは不思議そうに首をかしげた。
「加護はこの子に授けられている。なのに、君はこの子を処刑しようとしてたでしょう? つまり加護もいらないってことだよね?」
王子は後悔するように唇をかんで視線をさまよわせたが、こびるように上目づかいにシエルレウスを見上げると、言い訳を口にした。
「それは……。それは、知らなかったからです。本物のいとし子だなんて、誰も教えてくれなかった。それに、あのおそろしい姿の精霊と一緒にいたし。あれは呪われた姿なんですよね? 悪魔だと思ってしまっても仕方ないではありませんか」
「なるほど」
王子の言い分を聞いて、シエルレウスは自分の失敗を思い出した。百年ほど前に自分も、無知のせいで精霊のいとし子の乙女を死にかけるほど危ない目に遭わせてしまった。
そう考えると、この人間たちにも正しく学ぶ機会を与えてやるのが道理のように思われた。
「木霊は何のちからもなく、害のない精霊だよ。でも、知らなかったなら仕方がないね」
シエルレウスの返答に、王子は顔には出さなかったものの内心でほくそ笑んだ。
これは簡単に丸め込めそうだ、と思ったからだ。
しかしその甘い見通しは、シエルレウスの次の言葉であっさり覆される。シエルレウスは善意に満ちた無邪気な笑顔で、こう告げたのだ。
「それでもその無知でひとを害したら困るでしょう? だからきちんと学ばないとね。その身をもって学べるよう、みんな木霊に変えてあげるよ」
シエルレウスがそう言い終わるが早いか、その場にいた人間たちはエレンをのぞいてすべて木霊の精霊の姿に変わってしまった。
シエルレウスはそれを見回して、満足そうに微笑む。
「大丈夫、僕だってほんの百年ほどで呪いが解けたんだ。早く心から思ってくれる相手を見つけて、名前を呼んでもらって呪いが解けるといいね。それまで木霊の生活を楽しむといい。名前はきみたちの手の中にある石に封印してあるから、なくしちゃだめだよ」
シエルレウスは小さな子どもに言い聞かせるような声音で人間たちに語りかけた後、背中の羽を大きく広げて今度こそ空中に飛び立った。
「もう会うこともないかもしれないけど、みんな元気でね。さようなら」
『────さようなら』
木霊に変えられてしまった人間たちは、救いを求めるようにシエルレウスに向かって枯れ枝のような手を伸ばしたが、口から出てくるのはシエルレウスの別れの言葉の木霊ばかりだ。
シエルレウスはそれきり振り返ることなく、大事に、大事にエレンを抱えて精霊の国まで飛んで行った。
父なる精霊王は、帰還した末息子から人間の国での出来事について一部始終を聞くと、何とも言えない顔で苦笑いした。
「いとし子を救い出したことは、礼を言う。人間たちへの対応もまあ、妥当だろう」
「うん。でももう、いとし子を人間の国にやっちゃだめだ。人間はたった百年で約束を忘れてしまうんだもの」
「そうだな。エレンよ、あいすまなかった」
精霊王は、エレンに向かって深々と頭を下げた。
精霊界と人間界は時間の流れ方が違う上、悠久の寿命を持つ精霊は、時間の感覚が大雑把だ。そのせいでいらぬ苦労をかけたことを申し訳なく思うと同時に、息子の成長をうながしてくれたことへの感謝の気持ちもあった。
シエルレウスは、木霊となった人間たちもいずれ自分と同じように呪いが解けると思っているが、精霊王は懐疑的だ。おそらく解けることはないだろう。あの者らはシエルレウスとは違うのだ。
精霊王は息子を人間界にポイッとはしたが、呪いのことは心配していなかった。いずれ必ず解けるとわかっていたからだ。それでも万が一、千年経っても解けないようなら、誰か迎えをやるつもりだった。シエルレウスを心から思う者など、いくらでもいるのだから。精霊王自身も、そのひとりだ。
シエルレウスは自分自身が純粋で善良だから、悪意ある存在の行動原理が理解できない。
けれども今はまだ、それを教えてやらなくともよい、と精霊王は思う。
わからないままでも、下した対処は正しかった。
ならば、そのままでもよいではないか。
ちからのない者の立場や気持ちを学んで来ただけで十分だ。
放っておいても、いつかはシエルレウスも悪意を知ることになるだろう。
それまでは、このまま純粋で善良な精霊であればよい。
しあわせそうに寄り添うシエルレウスとエレンの姿を遠くから愛おしそうに眺め、精霊王は満足そうに笑みを浮かべた。
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昔々、この国には精霊王の加護がありました。
人々の暮らしは加護のおかげで、いつでも恵まれておりました。
気候はおだやかで、農作物はよく育ち、かまどの火は消えることがありません。誰もがひとしく加護の恵みを受けて、しあわせに暮らしておりました。
しかし、人間とはなんと傲慢な生き物なのでしょう。
いつしか人々は、それを当たり前に思うようになりました。
精霊王の加護のおかげで暮らしが豊かであることを忘れ、感謝の気持ちを失ってしまったのです。
精霊のいとし子に加護はありますが、いとし子自身に特別なちからはありません。
加護は国を豊かにするためのものであって、誰かひとりの望みをかなえるようなものではないからです。
それを理由に、精霊のいとし子に加護などない、にせものだと言う者があらわれました。
かなしいことに、それに賛成する者はどんどん増えていきます。
精霊のいとし子というだけで王子の許婚となっている娘のことを、憎らしく思うようになってしまっていたからです。
いとし子は次第に、ひとびとから意地悪をされるようになりました。
中でも欲深い大臣は「精霊のいとし子を追い出して、自分の娘を王子と結婚させよう」と考えました。そしていとし子を追い出すために「悪しき魔女だ」と騒ぎ立てました。
いとし子をうとましく思うようになっていた王子も、いとし子のことを魔女だと決めつけました。
ついには「悪しき魔女を殺せ」と、処刑を決めてしまいました。
ところが、いとし子を処刑する日のこと、精霊王の息子が現れました。
大事ないとし子が殺されそうなことに怒り、いとし子を救い出しに来たのです。
火あぶりの刑にしようといとし子を木の柱にくくりつけたところへ現れた精霊王の息子は、うそをついていとし子をおとしいれようとした者たちすべてに、「その心根のとおりの見た目になるがいい」と言って呪いをかけました。
呪われた者たちは、その心根のとおりにみにくい姿の木霊になりました。
木霊ですから、もう嘘をつくこともできません。
木霊たちは、おのれの姿を恥じました。だからいつでもひとの目に触れぬよう、姿を隠しているのです。
精霊王の息子は、精霊の国にいとし子を連れて帰ってしまいました。
もう二度と、いとし子が遣わされることはないでしょう。
この国の木霊は、罪びとのたましいです。
うそをついたり、罪のないひとをおとしいれようとしたりしてはいけませんよ。
さもないと、精霊王の息子に木霊にされてしまうかもしれませんからね。