第三話 十六歳の距離
雨の夜だった。
ルミナスの街に霧が降り、ガス灯の光が滲んでいる。
時計店の二階。
リュミエールは鏡の前で髪を結びながら、小さく息を吐いた。
「……伸びたなあ」
十六歳。
もう“子供”と言うには難しい年頃だった。
背も伸びた。
身体つきも変わった。
幼さだけだった輪郭には、少しずつ大人の影が差し始めている。
最近では街を歩けば視線を感じることも増えた。
それが嫌だった。
嬉しくない。
欲しいのは、たった一人の視線だけだから。
「リュミ」
一階から声がする。
アシュレイだ。
「夕飯できてる」
「今行くー」
階段を降りる。
すると、皿を並べていたアシュレイが一瞬だけ動きを止めた。
ほんの一瞬。
でも、リュミエールにはわかる。
最近、彼はよくこうなる。
十六歳になってから特に。
アシュレイは今年で四十二だ。
大人の男。
落ち着いていて、理性的で、滅多に感情を表に出さない。
なのに。
最近の彼は、時々ひどく困った顔をする。
「なに?」
リュミエールが首を傾げると、アシュレイは視線を逸らした。
「……いや」
「絶対なんか思った」
「思ってない」
嘘だ。
耳が少し赤い。
リュミエールは少し笑う。
昔は、自分を完全に子供として扱えていた。
でも今は違う。
彼の視線が変わったのを知っている。
ふとした瞬間に、“女性”として見てしまっていることも。
そのたびアシュレイは自己嫌悪みたいな顔をする。
食事をしながら、リュミエールは彼を見つめた。
長い指。
低い声。
煙草の匂い。
前世からずっと好きだった人。
変わらないと思っていた。
でも違う。
今世のアシュレイは、前世より少し優しい。
笑う回数も増えた。
怒鳴らなくなった。
ちゃんと眠るようになった。
そして何より――生きることを諦めていない。
「……なんだ」
見つめすぎたらしい。
アシュレイが眉を寄せる。
「別に」
「別にの顔じゃない」
「かっこいいなって思ってた」
ガタン。
アシュレイの手からフォークが落ちた。
数秒沈黙。
リュミエールは吹き出しそうになる。
「弱すぎない?」
「……お前な」
アシュレイは額を押さえた。
「頼むから突然そういうこと言うな」
「本当のことなのに」
「そういう問題じゃない」
リュミエールは笑う。
でも胸の奥は少しだけ苦しかった。
十六歳になって、彼との距離は確かに変わった。
けれど、一番欲しいものだけはまだ与えられない。
触れること。
抱きしめられること。
“恋人”として隣にいること。
アシュレイは今でも線を引いている。
その夜。
店を閉めたあと、雨が強くなった。
リュミエールは窓辺に座り、ぼんやり外を眺めていた。
「……また降ってる」
後ろから毛布が掛けられる。
振り向かなくてもわかる。
アシュレイだ。
「風邪ひくぞ」
「平気」
「平気じゃない」
昔から変わらないやり取り。
アシュレイは隣へ座る。
距離は近い。
近いのに、絶妙に触れない。
その距離感が、最近やけに苦しい。
「ねえ」
「ん?」
「いつまで待つの?」
アシュレイが止まる。
静かな沈黙。
雨音だけが部屋を満たしていた。
「……まだ聞くか」
「聞く」
リュミエールは彼を見る。
灰色の瞳が揺れている。
「十六歳だよ、私」
「知ってる」
「もう子供じゃない」
アシュレイは苦しそうに目を閉じた。
「……そういう顔するな」
「どういう顔?」
「わかっててやってるだろ」
リュミエールは少し黙る。
たぶん、わかっている。
自分が彼を揺らしていることを。
十六歳になった今、彼女はかなり綺麗になっていた。
街でも評判になるくらいには。
けれど本人に自覚は薄い。
アシュレイしか見ていないから。
「……アシュレイ」
「ん」
「私は、ずっと好きだよ」
低い声で言う。
「前世の時から」
アシュレイが息を止める。
「今世でも、ずっと」
雨音が強くなる。
アシュレイはしばらく黙っていた。
やがて低く呟く。
「……知ってる」
「じゃあなんで」
その先が言えない。
どうして抱きしめてくれないの。
どうしてまだ“子供”のまま扱うの。
アシュレイは苦しそうに笑った。
「怖いんだよ」
「……何が?」
「お前の時間を奪うことが」
リュミエールは目を瞬く。
アシュレイは窓の外を見たまま続ける。
「俺は四十過ぎだ」
静かな声。
「お前はこれからいくらでも未来がある」
彼は自嘲気味に笑う。
「なのに、お前は最初から俺しか見てない」
リュミエールの胸が痛む。
「……ずるいだろ、それ」
アシュレイはぽつりと言った。
「俺はお前を好きにならない方が無理なのに」
リュミエールの鼓動が跳ねる。
「でも同時に」
彼はゆっくり振り向く。
灰色の瞳が、ひどく優しい。
「もっと広い世界を見てほしいとも思う」
リュミエールは泣きそうになる。
この人は本当にずるい。
自分の欲より、いつも先に彼女の未来を考える。
「……見たよ」
リュミエールが小さく言う。
「学校も、街も、人も」
彼女はまっすぐ彼を見る。
「でも結局、アシュレイが一番好きだった」
沈黙。
長い沈黙。
次の瞬間。
アシュレイが、ゆっくり顔を覆った。
「……限界なんだが」
「え?」
「お前最近、本当に駄目」
耳まで赤い。
リュミエールは目を丸くする。
アシュレイは深く息を吐いた。
それから、苦しそうに笑う。
「あと二年」
「……二年?」
「十八になるまで」
リュミエールの胸が熱くなる。
「十八になったら」
アシュレイは彼女を見る。
もう逃げない目だった。
「その時まだ俺を好きだって言うなら、今度はちゃんと恋人になる」
リュミエールの目に涙が滲む。
前世では叶わなかった未来。
戦争のせいで消えた約束。
でも今は違う。
今世には時間がある。
春も夏も、これから先も。
リュミエールは泣き笑いみたいな顔で笑った。
「……長い」
「我慢しろ」
「アシュレイは平気なの?」
数秒沈黙。
そして。
「全然平気じゃない」
その声があまりにも本音で。
リュミエールは、思わず吹き出した。




