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第1話:演算の残熱

1. 宣告


 後楽園ホールの薄暗い医務室。プロテストを終えたばかりの迫田は、パイプ椅子に深く沈み込んでいた。

 テストの結果は、不合格。


 相打ち。記憶では、最後に立っていたのは自分のほう、テンカウント中に相手は戦闘可能状態に復帰したのだ。


 付き添った医師の表情が冴えないのは、テスト結果を考慮しているわけではない。

 長年迫田を見てきたジムの会長が、不快感を隠さないのは、テスト結果も踏まえてのことだろう。


「…数値だけ見れば、君は一流のアスリート並みの基礎体力を持っている。だが、どうしてあんなに早くガス欠を起こすんだ」

 医師がカルテを叩く。「一分半を過ぎたあたりで、まるで内側から焼き切れたような数値だ。これじゃ、プロとして三ラウンドも持たない」

 追い打ちをかけるように、会長が低く、突き放すような声を被せた。

「迫田。お前のボクシングは、パフォーマンスとして成り立ってねえんだよ」

 迫田が顔を上げると、会長は吐き捨てるように続けた。

「客が金払って見たいのは、魂の削り合いだ。お前のは違う。最初の一分、お前は相手のパンチを全部『知ってた』みたいに避けた。だが、その後で勝手にオーバーヒートして自滅した。それは勝負じゃねえ。ただの欠陥品の暴走だ」


 迫田は、震えの止まらない自分の拳を見つめた。

(…ボクシングの世界で俺は、欠陥品だ)

「ペース配分」すら、自分は満足にできない。迫田はその場でジムの荷物をまとめた。ボクシングという、過酷な数分の演算に耐えられない体。もう、ここには居場所はなかった。


2. 逆説の牢獄


 それから三日。迫田は休息をとった。肉体が日常の動作を再実現するには休息が必要だった。


 プロテストで限界まで回した脳の熱が引かず、まともに立ち上がることもできない。

 ワンルームでは、ホワイトノイズが流され、無機質に整えられている。過度な情報を遮り「無」に誘導するための迫田の長年の防衛策だ。だが、今の迫田の脳には、その救済すらも猛毒に変わっていた。

 思考の解像度が上がりすぎた脳は、ランダムであるはずのノイズから規則性を抽出し、電圧の微細なゆらぎや、スピーカーの振動板の物理的な劣化具合を逆演算し始めてしまう。

 目を閉じれば、今度は自分の心拍の揺らぎが「変数」として脳内を埋め尽くした。次の一拍がコンマ何秒ずれるか。そのズレが肉体にどう波及するか。

 対策を重ね、純化された静寂であればあるほど、脳はその空白を埋めるために、自分というシステムそのものをデバッグ対象として食いつぶしていく。

(……静かすぎる。みんな、どうやって自分の『未来』を無視してる。)


 迫田にとって、周囲の人間は皆、不要な情報を切り捨て、不確実さを愛せる「完成品」に見えていた。自分だけが、自分の心臓の動きすら予測から逃せず、知恵熱を出し続ける落ちこぼれ。

(……外へ出ないと。演算が追いつかないほど巨大な『不確定要素』を浴びて、この脳を黙らせる。)


 迫田は熱に浮かされた体を引きずり、夜の駅前へと這い出した。


3. 層流


 金曜、午後八時の新宿駅。

 そこは、互いの肩をぶつけ合い、歩幅を乱し合う「乱流」の海だ。迫田はその中を、思考を放棄し、ただ「隙間」をなぞるように歩く。迫田は前を見ていない。意識はむしろ、内側から溢れ出す不快な熱気に向いている。

 

 迫田自身は「適当に流している」つもりだった。だが、その無意識の歩行は、一切の減速なしに群衆を割っていく、一筋の「層流」を描いていた。

 迫田の脳は、本人の意志に関わらず、周囲の全歩行者の角度と速度をサンプリングし、数秒先に生まれる「確率的な空白」を正確に射抜き続けている。「適当に流している」はずの軌道は、外部から見れば、それは因果律を無視した完璧な軌道だった。


4. 邂逅


 出口付近。ビニール袋を下げた一人の男が、自販機のコーヒーを飲もうとして、その手を止めた。買い出し帰りの野間は、人混みの中に現れた「異常な流動性」を、瞬時に見抜いた。

 迫田が野間のすぐ横を通り過ぎる。

 その瞬間、野間の鼻腔を突いたのは、冬の夜風の中で、ただ歩いているだけの迫田から立ち上る、不自然に生温かい「汗」の匂いだった。

 迫田のこめかみには大粒の汗が浮かび、首筋からは蒸気が立ち上りそうなほどに代謝が昂進している。


(……衝突予測ゼロ。回避ベクトル確定。あいつ、脳内をアイドリングさせてるつもりか? その状態で、この群衆の最適解を垂れ流してるのかよ……)

 エンジニアは、ぬるくなったコーヒーをゴミ箱に放り投げ、去りゆく迫田の背中を凝視して独りごちた。

「……たまにはラボの外にも出るもんだな」


 迫田は気づかない。

 自分を「欠陥品」だと呪うその歩行が、世界を再定義するほどの価値を持っていることに。そして、その価値に気づいた「最初の観測者」が、すぐ後ろに立っていることに。

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