【閑話】第14話 エンバルム放浪記①
是非、ブックマークか評価を。
私にガソリンをください!!
目が覚めた。
エンバルムはゆっくりと起き上がった。
体の節々に、あの拳の感触が残っている。
骨の奥に刻まれた痛みの記憶だ。
敗北した。
その事実を、エンバルムは刻んだ。
腹の底では無数の怨念が叫んでいる——殺せ、殺せ、人間を殺せ!と。
第3層で狩られ、踏み躙られ、消えていった無数のゴブリンたちの憎悪が、エンバルムの内側で常に渦を巻いている。
その声を、エンバルムは否定しない。
その憎悪こそが我の礎だ。
血と灰の記憶こそが、我に王たる資格を与えている。
ただ——叫びに身を任せて突っ込む愚は、もう犯さない。
エンバルムは自分の手を見た。
傷はすでに癒えている。
存外便利な場所よ、とエンバルムは思った。
死んでも戻れる。
ならば何度でも試せる。
問題は、あの男だ。
五十嵐拳吾。
五行の力を宿した男。
第3層でいくら力をつけたところで、もはやあの男には届かない。
エンバルムにはそれが分かっていた。
第3層は、もう食い尽くした。
これ以上ここに留まっていても、我は強くなれない。
エンバルムは黄金色の双眸を細め、ゆっくりと立ち上がった。
「ならば——深淵に行くだけよ」
* * *
地獄門は、第3層の外れにある。
草原を抜け、ゴブリンの集落跡を越え、岩場を登った先——抉り取られたようなくぼ地の底に、黒鉄の巨大な扉が嵌め込まれていた。
高さはエンバルムの3倍はある。
扉の表面には見たこともない文様が刻まれており、近づくだけで空気が変わった。
重く、淀んだ、圧のある空気だ。
そしてその前に、4つの影が並んでいた。
餓鬼四門衆が像のように静止している。
しかし視線を逸らすことが許されない存在感がある。
灼門鬼——炭のように黒い全身のひび割れが赤く脈動し、息をするだけで火の粉がぱちぱちと散り、足元の地面が焦げて音を立てる。
穿門鬼——小柄で筋肉質、鳥のような逆関節の足を持ち、両腕が肘から先ごと禍々しい剣へと変質している。
縫門鬼——ひょろりと長い四肢、骨ばった輪郭、病的なほど白い体表。
全身から針を突き出し、低く構えている。
穢門鬼——腹が異様に膨れた小さな影だ、裂けたような口で禍々しくも無邪気な笑みを浮かべている。
4体はエンバルムを認識した。
腐った目がぎょろりと動き、静止していた体に気配が戻る。
エンバルムは、その様を眺めながらゆっくりと歩みを進めた。
そして——初めて、その目に哀れみの色が宿った。
鬼の一族よ。
ゴブリンの系譜を引く同族よ。
かつては何者かであっただろう。
誇りを持ち、生き、戦っただろう。
それがダンジョンの意思に縛られ、扉の番人などという役目を与えられ、ただそこに立ち続けている。
自分が何者かも忘れたまま、訪れる者をただ排除するだけの存在に成り果てている。
「ダンジョンの意思に操られ、王の姿を忘れるか」
エンバルムは足を止めず、くぼ地へと降りていった。
「げに憐れよ」
* * *
4体が同時に動いた。
穿門鬼が踊るように跳び、灼門鬼が胸腔から奔流を吐き出し、縫門鬼が毛穴を一斉に開いて無数の針を放ち、穢門鬼が足元へ毒を撒きながら間合いを詰める。
四方からの殺意が、エンバルムへ向けて一斉に収束した。
エンバルムは、避けなかった。
炎が全身を舐める。
針が体に突き刺さる。
剣が肩口を割き、毒が足元を侵食する。
「ぐ……」
痛い。
4体分の攻撃が同時に重なり、全身が悲鳴を上げる。
しかしエンバルムの足は止まらなかった。
一歩、また一歩、真っ直ぐに前へ。
穿門鬼が追撃に入ろうとした瞬間、エンバルムは鉄棍を振るった。
踊るような動きで斬撃を繋ごうとする穿門鬼に、回避も防御もなく、ただ正面から叩き込む。
ガキィィン!
衝撃が両腕に響く。
穿門鬼の動きが止まった、その一瞬——エンバルムは続けて鉄棍を大きく振り上げ、叩きつけた。
ドンッ!!
穿門鬼が地面に叩きつけられ、跳ね、そのまま動かなくなった。
次の瞬間、ポリゴン状に崩れていく。
光の粒が散らばろうとした。
エンバルムは手を伸ばした。
「我が同族よ——我が中で、もう一度生きよ」
傲慢の極み。
光の粒がエンバルムの手へと吸い込まれていく。
同族の、鬼の魔素だ。
抵抗はなかった。
するすると、まるで待ち望んでいたかのように、力がエンバルムの中へ流れ込んでくる。
熱い。
燃えるように熱い。
しかしそれは心地よかった。
体の傷が、みるみる塞がっていく。
* * *
残り3体は退かなかった。
灼門鬼が胸部を大きく裂き、そこから火柱を吐き出す。
地を舐める炎がエンバルムの足元を包む。
縫門鬼は背中から太い針を撃ち上げ、まるでミサイルのように放ってくる。
穢門鬼は毒霧を濃くしながら、じわじわと包囲を狭めていた。
エンバルムは炎の中を歩いた。
針が肩に刺さる。
毒が肌を焼く。
炎が腕を焦がす。
それでも足を止めない。
一歩一歩、灼門鬼へ向かって真っ直ぐに歩いていく。
灼門鬼が困惑したように動きを止めた——逃げることも、さらに攻めることもできず、ただそこに立ち尽くす。
「道理に戻れ!」
エンバルムはそう言って、鉄棍を振り下ろした。
灼門鬼が崩れ落ち、ポリゴンとなって散る。
エンバルムは再び手を伸ばした。
今度も抵抗はない。
同族の力が、滑らかに流れ込んでくる。
また傷が癒えた。
* * *
残り2体。
縫門鬼と穢門鬼。
縫門鬼は背中から太い針を連射し続け、穢門鬼は毒霧でくぼ地全体を覆い始めていた。
足元の毒が皮膚を侵し、針が絶え間なく体を削る。エンバルムの全身は傷だらけだった。
それでも、エンバルムの歩みは変わらなかった。
穢門鬼から先に仕留める。
毒霧の中を迷いなく踏み込み、逃げようとした穢門鬼の首を掴んだ。
そのまま地面へ叩きつける。
ポリゴンが散り、エンバルムはそれを余さず飲み込んだ。
また傷が癒えた。
最後は縫門鬼だ。
追い詰められた縫門鬼は、自身の体を一本の巨大な針へと変形させ、一直線に突撃してきた。
エンバルムは鉄棍を構えなかった。
両腕を広げ、真正面から受け止める。
巨大な針がエンバルムの体に食い込んだ。
「ぐが……」
それでも、足は動いた。
痛みごと押し込むように、エンバルムは縫門鬼を掴み、そのまま地面へと叩きつけた。
縫門鬼が内側から砕け、破片となって崩れ落ち、やがてポリゴン状に散っていく。
「其方も——我が中で生きよ」
最後の光の粒が、エンバルムの手に吸い込まれた。
全身の傷が消えていく。
4体分の力が、完全にエンバルムのものになった。
エンバルムは立ち上がり、地獄門を見た。
軋む音が長く響き、重い扉がゆっくりと開く。
* * *
向こう側には、階段があった。
松明も魔石灯もない。
岩を削っただけの段が、真っ暗な奥へ向かって延々と続いている。
冷たい風が吹き上がってきて、腐ったような臭いが混じっていた。
エンバルムは一段一段、降りていった。
どれほど歩いたか分からない頃、足元の感触が変わった。
岩の段から、乾いた土へ。
視界が開けた。
荒野だった。
どこまでも続く灰色の霞が上方を覆い、光源が判然としない。
薄く一様に、空間全体が仄暗く照らされていた。
地面は乾いた荒れ地で、ひびが入った土が続き、そこかしこに大きな岩が転がっている。
身を隠すには困らない地形だ。
遠くで、何かが動いた。
腐った肉体を引きずるように歩く影——グール。
その傍らに半透明の輪郭が揺らいでいる——スペクター。
第4層の住人たちが、新しい来訪者を認識して振り向いた。
「疾く我の糧になるがよい」
エンバルムは鉄棍を握り直し、嗤った。




